一章 名前のない喫茶店⑦



 強い風が吹き、皐月くんの言葉がよく聞こえなかった。


「じゃあ、さよなら。気をつけて帰れよ」

「え、ちょ……」


 あっさりと別れを告げて皐月くんが喫茶店の中に入っていく。彼がなにを言ったのかはわからない。けれど聞き返してもなにも言わなかったということは、そこまで重要なことではなかったのかもしれない。


 取り残された私は、学校での憂鬱な気持ちなんて吹き飛んでしまったかのように心が穏やかになっていた。

 大きな坂を今度はゆっくりと下る。帰りは高い位置から見渡すように人や景色にも目を向けた。


 自転車を引きながら息を切らして坂を登っていく女の人は買い物帰りなのだろう。自転車カゴの中のビニール袋は、はち切れそうなくらい中身が入っている。

 前方から歩いてくる男子中学生は、私が卒業した学校と同じ制服を着ていた。モスグリーンのチェック柄の制服は、高校生になった今だと少し幼く感じられる。

 男子中学生とすれ違った瞬間、途切れ途切れに電子音が聴こえてきた。ヘッドフォンから音が漏れているのに気づいていないみたいだ。


 現実逃避をしたくて訪れたこの場所は、誰かにとっての日常なのだ。

 これまでずっと、私の日常は窮屈で息苦しいと思っていた。けれど、道を変えてみたら違う日常が存在している。そう考えると、行きよりも足取りが軽くなった気がした。


 ♦


 家に帰れば、先ほどまでの温かな気持ちが少しずつ温度をなくしていく。

 お母さんもお父さんも幸せそうに笑っているけれど、私は会話に入れずその背中を少し離れた場所から眺めていた。


 大きなお腹をさすりながら名前はなににするかと楽しそうに話しているお母さん。今のお父さんと再婚して、初めて授かった命はお腹の中ですくすくと育っている。

 その子が生まれたら、私はこの家にとって邪魔になるかもしれない。今のお父さんにとって、私は血の繋がらない別の人との子どもだ。

 今のお父さんが優しい人だということはわかっている。私のことを、嫌っていないのも話していて伝わってくる。けれど、話すときはどこかぎこちなくて、うまく会話が続かないのだ。再婚してからは、お母さんも私に気を遣っているように感じる。

 実際、私がいないときの方が二人は楽しげに声を上げて笑っていた。


 私がいるときは、そんな風に笑ったりしないのに。


 既に邪魔モノなのかもしれないと思うと、話しかけられてもうまく笑えなくなってしまう。

 家にいると時々なにかが胸に突き刺さり、どろりと苦くて冷たい感情が溢れてきそうになる。きっとこれは、学校の件とは違ったまた別の感情だ。

 逃げるように階段を上がり、自分の部屋に駆け込む。そうして、足りていなかった酸素を思いっきり吸い込んだ。

 胸に手を当てながら自発的に吸って吐いてを繰り返すと、ようやく呼吸ができた気がした。


 そういえばあの喫茶店では息苦しさを感じなかった。どうしてだろう。いきなり皐月くんに、迷っているなら帰れと言われたときは腹が立ったけれど、あのあとは嫌な気持ちにならなかった。

 むしろ、もっと喫茶店の人たちと話してみたかった。たどり着いたのは偶然だったけど、行ってよかった。久しぶりに誰かと過ごして楽しいと思えて、自然と笑っていた。


 ベッドに寝転がり、大の字になって天井を見つめる。うとうとしてきたけれど、まだ眠りたくない。お風呂のことや明日の準備などやらなくてはいけないことが脳裏を去来する。けれどそれよりも、ただ単純に朝になってほしくない。この温かい気持ちのままずっといたい。


 そしたら、あの息の詰まる場所に行かなくて済むのだから。

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