第4話
あの頃から何が変わっただろうか。バスケの試合でボールが回ってきたときのことをたまに思い出す。
僕は、パスを貰えればと思っていた。けれどもそれは、みんなが素人の、小さな世界での話だった。
将棋も同じだ。大きな世界では、僕は無力だ。
「幸典、できるよ」
朱里はいつもそんなことを言う。誰かに励まされるのに慣れていないぼくは、戸惑ってしまう。
「でも、大変だよ」
「頑張れる」
僕は高校でもやっぱり目立たなくて、その一方で朱里は案外目立つ存在だった。進学校出身の朱里はみんなより勉強ができたし、運動神経もよかったし、何よりかわいかった。少し無愛想なところもあったけれど、そういうところが好きな人もいる。
なんで僕なんかとなんだろう。それは、みんなも僕も思っていた。でも、朱里はずっとこちらを向いていてくれた。
それに似合うような人間になりたいと思った。きっと、一流にはなれない。でも、朱里の期待に応えられる自分でありたい。
それでも。ふとした拍子に気が抜けてしまうのだった。連敗して帰ってきたあとなど、何日か将棋に関するものを遠ざけてしまうことがあった。年下のプロが誕生し、後輩で退会する奴も出てきて、不安は募るばかりだった。
「私、夢かなえるよ」
「え」
「東京に行って、幸典と一緒に住む」
彼女は有言実行型だ。拒否しなかったし、もちろん卒業したらその通りにした。
朱里は前向きな僕が好きだというから、どんな時も前を向こうと決めた。自分の中で、なんでプロ棋士になりたかったのかもよくわからなくなっていた。それでも、僕ががんばれば朱里の笑顔が増えるなら、今の理由はそれで十分だった。
少年の日の僕は、何かできても、頑張ろうとしない人間だった。本当はできるのにとか思って、自分の世界の中で満足していた。
プロにならなければいけない。今までの自分を超えていかないと。
「夢、かなっちゃった」
ロフトに上った朱里は、満面の笑みで言った。
二人で住むことになった部屋は、決して広いとは言えなかったけれど、彼女の望み通りロフトがついていた。僕を見下ろす彼女の顔は、本当に幸せそうだった。
僕は笑顔を返しながらも、内心では黒い塊のようなものを抱えていた。僕はまだ何も仕事をしていなくて、将来どうなるのか全く分からない。朱里は今は刺激があって幸せかもしれないけど、そのうち僕に愛想を尽かしてしまうかもしれない。
「幸典は大丈夫だよ」
彼女は何度もそう繰り返す。けれどもそのたびに「二割ちょっと」が、僕にのしかかってくるのだ。八割近くは、大丈夫じゃない。
それでも。努力はきっと、少しだけ確率を上げてくれる。僕みたいな人間にもきっと、チャンスはあるはずなのだ。
朱里がこちらを向いていない隙に、僕は漫画の入った段ボールのふたを閉め、ガムテープを巻いた。これは、プロになるまでは開けない箱だ。
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