あの日を思い出す時
緑青
海
この命なんて、早く燃え尽きればいいと思っていた。病に苦しむ妹の代わりになれないのなら、いっそのこと、早く。
死んでしまいたいとさえ、思っていた。
蘭は海を見るのが好きだった。
空が晴れると、多少体調が悪くても浜辺に行きたがった。
「ねえさま、連れて行って」
大きな薄い色素の瞳を上目遣いにして頼む妹に折れるのは、いつものことだった。仕事で忙しい両親に代わって面倒を見るのは姉である咲良の役目だった。
「しょうがないなあ、行くよ」
「うん、ありがとう」
嬉しそうに笑う顔を曇らせたくなくて、蘭が座る車椅子を押して、海まで歩いた。
容赦なく降り注ぐ日差しが蘭を苦しめないように、帽子を被らせる。裾の広がった婦人用のそれが、長い栗色の髪を隠した。
蘭と咲良は一つ違いだが、性格も容姿も異なっていた。初対面の人は姉妹だと知ると驚いたし、蘭の容姿をよく誉めた。絵本に出てくるお姫様みたいと言われ、蘭ははにかんだ。その反応もイメージから外れないらしく、咲良たちを置いて盛り上がる彼女たちが、咲良にとっては羨ましい。蘭が夜中に熱を出して苦しむ姿も、日中は体調管理を徹底しないと外出もままならないことを、知らないから。
「ねえさま、今日は波の音、聴こえるかしら」
「さあ?」
「今日もね、お話するのよ。人魚さんと」「蘭は本当に人魚姫が好きね。絵本も持ってきたし」
車椅子の背面のポケットには、蘭のお気に入りの絵本が入っていた。退院祝いも兼ねた5歳の誕生日に、咲良と作品違いで贈られた一冊だった。海の中を自由に泳ぐ人魚のお姫様に憧れを持った蘭は、海を見に行きたいと、渋る両親を説き伏せて連れて行ってもらった。咲良ももっと小さい頃に行ったきりだったので、嬉しかった。妹が汗をかきながらも自分の足で砂浜を踏んだのを見て、幼いながらに泣きそうだった。
妹が大切だった。少しきどった呼び方でねえさまと話しかける癖も、咲良がちょっとでもどこかへ行こうとするとついてこようとする可愛げのあるところも。無邪気を振る舞って、本当は体調が悪化することを恐れているところも。ずっと見てきたから、一緒に過ごしてきたから。蘭の儚げな外見だけを見ている同年代の女子をつい、冷めた目で見てしまう。
あんたたちはいいよね。暑い都心に行って、アイスクリームなんか舐めて、肌が見えた服を着たって、具合悪くならないでしょ。
蘭は肌が弱いから、ずっと長袖で、好きなお洒落も十分にできないの。冷たいものなんて満足がいくまで食べられない。すぐにお母さんがやってきて「蘭ちゃんはだめよ」って取り上げるんだから。一緒に食べていた私だって、最後まで美味しく食べたいのに。一人で食べたって、美味しくないじゃない。
「アイス食べたいなあ」
気づくと、声が出ていた。蘭はばっちり聞こえていたらしく、ぱっと明るい表情をした。
「食べたいわ。ストロベリーがいい」
「だめだよ。商店まで遠いし」
「……ねえさまのケチ」
「あのねえ。私があんたに付き合ってあげてるんでしょ」
「ねえさまの車椅子の押し方、好き。安心するもの」
──パパはちょっと荒っぽいし、ママは慎重すぎていや。ねえさまが一番、私のペースに合っていて、好き。
そう言って笑う妹の顔から、汗が流れた。取り出したハンドタオルで拭ってやりながら、足を踏み出す。車椅子に乗り始めた13歳の頃に比べたら、蘭の体重が軽く感じる。見た目もほっそりしているのに、骨と皮だけみたいに、他にも臓器とか詰まっているはずなのに。軽すぎて、こわい。いつか本当に、死んでしまうんじゃないかって。咲良を置いて、遠くの──蘭が憧れる、海の中へ還って行きそうな、漠然とした不安を感じる。
「ねえさま」
「なに?」
「やっぱり、海を見たあとアイスを食べたいわ。きっとねえさまの好きなメロンアイスもあるはずよ?」
商店のおばちゃま、きっと待ってると振り返る笑顔に、胸がぎゅっとなった。
「ねえ、行きましょう?」
「………蘭のおごりね」
「私のお小遣いでよければ、付き合ってくださいな」
ひとつ違いの姉に頼み事をするのに、おどけた口調じゃないとできないなんて。どこまで強がりなんだろう。そんな蘭が愛しくて、姉である自分が不甲斐なくて。
お母さんは丈夫に産んであげれなくてごめんねと、謝っていた。お父さんは一緒に病気をやっつけようと、蘭と咲良、お母さんを抱きしめて呟いた。
私は。蘭が弱ってしまう姿を見るのがいやで、いっそのこと代わりたかった。私が蘭の病気にかかって、やっつけてやるんだ。そうすれば、家族皆でいられる。ずっと、病の影に怯えることなく、笑っていられる。
ひとりで病気とたたかう蘭の力になれることは限られているから、だから。
「ねえ、私たち、ずっと一緒だよね」
「うん。ずっと、ねえさまがいてくれたら……」
「蘭も大人になってよ。一緒に成人式出て、写真も撮って、どこかに住もうよ」
──こんな暑い田舎じゃなくて、涼しくて誰も私たちを知らないところで、一緒にいようよ。そう言いたくなるのを、こらえた。
現実にならない願望であることを、知っているから。来週から蘭は、大きな総合病院に入院する。病気の原因であるウイルスを取り除くために、家族と離れる。その間、咲良はひとりで高校へ行って、家に戻っても出迎える人のいない家へ戻る。明かりがついていないひとの気配が消えた部屋はきらいだ。本当は賑やかで温かいはずなのに。水道から滴る水と、空気洗浄機が稼働する音だけの空間に閉じこもった気分だ。
「私ね、ねえさまとならどこへだって行きたい。暑くても寒くても、ねえさまが私の近くにいてくれたら、それがいいの」
「蘭、私もだよ」
──だから約束してほしい。初めて砂浜を踏みしめた感触に喜ぶ蘭が、もう一度来たいと笑うその言葉を、何度だって言ってほしい。
もうすぐ海にたどり着く。砂の粒と塩水の流れを、また二人で眺める。座ったままの妹の隣で、日傘を差し出しながら、つかの間の特別な日常を姉妹で過ごす。
あの日を思い出す時 緑青 @ryo55
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