第18話 ある朝、青天に霹靂を生ずる②

 道すがら通りかかった侍女の手から水差しを奪うように受け取り、私たちは南館のテラスに出た。

 椅子に腰かけさせられるやいなや、遠山さんは飲用の水で豪快に私の手を流す。冷たい感触に手を引っ込めたくなるがそれをぎゅっと掴まれれば逃げ場もなく、されるがままになった私は口を閉じて待つしかなくなった。

 何度か水を流されたあと、汚れが落ちた手の傷を確認した遠山さんはほっと胸をなでおろしたように微笑んだ。


「擦りむいただけみたいですね。それほど深く切れていないので、ざっとアルコールで消毒だけしておきましょうか」

「いえっ、もう大丈夫です!」

「遠慮なさらずに」

「本当に大丈夫です。このくらいの傷なら日常茶飯事ですから」

「分かりました。ならせめて布でもあてておいてください」


 ね、と胸元からハンカチを出され、私は更に首を振った。


「結構です大丈夫ですお気付かなく!」


 嘘ではない。毎日庶務係とそれなりに城内の点検に回ったりしているうちにちょっとした傷なんてすぐつくし、先日の地割れに飲み込まれた件ではもっと大きなケガもしているし。請求書の束なんか処理してたら、紙の端っこで切り傷作るなんていつもの事なのだ。

 ヴェンディも身体に傷をつけると眉を顰めるが、さんざん言って聞かせたせいか手指くらいであれば仕事熱心な手だといってあまり気にしないことが多くなった。

 それなのにこれくらいの傷でこんなに慌ててもらうと、なんかこちらとしても申し訳なくなる。しかも相手にしているのが「前世」の知り合い。さらに言えば今現在、ヴェンディと揉める原因となった人である。

 心配してくれるのはありがたいが、下手に係りを持ち続けたくないし実のところ早くこの場から去ってほしいと思うのは私のわがままなんだろうか。

 勢いよく首を横に振って固辞していると、ぷっと遠山さんが噴き出した。黒ぶち眼鏡の奥の瞳が細められ、人懐こそうな笑みが浮かぶ。その表情には確かに前世の面影があった。


「変わらないなあ、逢坂さん」


 どくん、と心臓が大きく跳ねた。


「お名前を伺って、実際にお会いして、逢坂さんの面影はあってもよそよそしいからなんか心細かったんですよね。でも今のそれとか、遠慮の仕方とか、やっぱり逢坂さんだなぁって」

「……え?」

「会社で残業しててお茶出されたりしたときとか、お土産くばられたときとか。よくやってましたよ、その首振り」

「そ、そんなこと……」

「なんか意地っ張りなとことか、全然かわってないっすね」

「意地っ張りって……そんな、でしたっけ、私……」

「意地っ張りっすよ。どんな仕事も一人で抱えて、全然人に頼ったとこ見た事なかったです」


 カッコ良かったっすけどね、と遠山さんはにやりと口角を持ち上げた。かつての同僚として確信が持てたのか、ややフランクな口調になった彼の物言いにまた心臓が跳ねる。

 でもそれはときめきだとかの心地良いものではなく、ぎゅっと大きな手で内臓を握られるような、不快な感覚だった。


「でも無理しすぎは良く無いっすよ。またある日突然、なんてことになったらお宅の魔王様も悲しむでしょ」

「……また、ある日突然……」

「一報を聞いてびっくりしました。社員一同、広報部も総務も呆然としてましたよ」

「……そう、ですよね……すみません、ご心配をおかけしました」

「それがまた、こんなところに転生してて、二重にびっくりっすよ。これってどんなご縁ですかね」


 不意にあの夜の風景が、走馬灯のようによみがえった。激しい咳き込みと呼吸困難でぼろぼろになって倒れた私。それをどこか他人事のように上から見下ろしていた私。

 突風に吹き飛ばされてあの後自分がどうなったかは分からない。あたりまえだけど一報を聞いたってことは、会社に私が死んだってことが伝えられて? その後は? 何があった?

 午前中の、日当たりの良い南向きの爽やかなテラスにいるはずなのに。何故か背筋にうすら寒さすら覚える。

 ああ。と唐突にその理由に思い至った。軽い口調のせいで、いや目の前にいる彼の姿があまりにも普通の青年で、考えることを頭のどこかが拒否していたのかもしれない。そして今まで怒涛の生活が続いていて、自分自身に起きたことも無理やり深く考えないようにしていたのかもしれない。

 思いのままに動ける身体。ケガをすれば血が出る身体。それが当たり前すぎて忘れかけていたけど。


――私も、彼も、前の世界では死んでるんだ。


「……遠山さん、あなたはどうしてここへ?」


 私の問いに、遠山さんがゆっくりと顔を上げた。


「さっきも言いましたよね? そちらの魔王様が昨夜と違う女性をお連れになったので確認させていただきに来たんすよって」

「え? あ、ああ」


 そうでした、と私は慌てて頷いた。

 どうしてという問いは、彼が私の所に来た理由として受け取られたらしい。確かに昨夜はいなかったはずのクローディアを伴って王に会いに行けば、何事かと確認したくもなるものだろう。


「クローディア様でしたっけ、あの女性。アルセニオ様は既知でらっしゃったようで、随分親し気にお話しになってましたが」

「ヴェンディ様の領地における辺境伯のご令嬢です。騎士団長クローゼ様の妹君ですので、昔からご存知なのでしょう」


 公式の身分、立場でいえばクローディアはアルセニオ王の戴冠式に出席していてもおかしくない身の上だ。私がこの世界に来るまでは、なんだかんだといってヴェンディのパートナー役を買って出ていたらしいし。

 そういや、昨日も彼女と比べて貧相だのなんだのって言われたっけ。ヴェンディとまたいとことかいうアルセニオにとっても、よく見知った間柄なんだろう。にやにやと品定めするアルセニオの目つきを思い出し腹立たしさがぶり返した私は、その怒りを逃すべく無理やり口角を吊り上げる。


「ああ、なるほど」

「昨夜遅くにこちらへ到着されたとのことです。こちらからご連絡を入れず申し訳ござ」

「あの方がヴェンディ様の御婚約者様かあ」

「はい?」


 思わず素っ頓狂な声をあげた私を、遠山さんは目を丸くして振り返った。


「違うんですか? 以前、王にはそのように伺っていたんですけど……?」


 私の表情が固まっていたんだろう。やっべ、という声が聞こえそうな、気まずい表情を浮かべた遠山さんの語尾が小さくなる。私はぶんぶんと首を横に振った。


「違います! いや、違いませんっていうのもあれですけど! クローディア様は! その!」

「いや、でも昨晩はヴェンディ様のお相手は貴女だっていう話を……あれ? え?」

「遠山さん!」

「……あー」


 視線を彷徨わせた遠山さんの眉がゆっくりと下がっていく。同時に叱られた子犬のように肩と首を落とした。上目遣いでこちらを伺うその様子は、書類を突き返した時のそれと全く一緒だった。

 変わらない。あの時と。前世の会社でやり取りした遠山さんの姿が蘇る。

 小さなミスは日常茶飯事。時折決定的なミスをしているのに、なぜか大きな仕事もモノにしてくることも多かった。人懐こい笑顔で憎めない年下の同僚だった彼。私みたいに持病があったわけでもないだろうに、健康そうだった彼がどうしてここに転生などしてきたんだろう。

 何があったんだろう。あの後――前世の私が死んでしまったその後に。

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