第17話 ある朝、青天に霹靂を生ずる①

 追いかけなかったのかって?

 そりゃ追いかけたに決まってる。けどさっさと出て行ったヴェンディは自分用の部屋に入ると無情にも内鍵をかけてしまっていたのだ。何回かノックはしたものの返事もしてくれず、さすがに夜中近い時刻に部屋の前で大騒ぎをするわけにもいかなった私はそのまますごすごと部屋まで戻った。

 で、ベッドに転がった途端になんだかどうでもよくなった。話も聞かずに一人で落ち込んだヴェンディに、いちいち言い訳したくなくなったのだ。

 トーヤとはやましい間柄ではない。単なる同僚、それ以上でも以下でもなかった。ただ前世のことは触れたくない。触れられたくない。どうせ言ったってどうにもならないことなんだし、今の私はヴェンディの隣で生きている。それだけでいいじゃないか。

 それよりベッドに横になった途端に猛烈に襲ってくる睡魔を何とかするほうがいい。そう。私はこの二日、満足に寝ていない。体力を、回ふ……く……しな……。


 この日の記憶はここで途切れた――。


 翌朝。珍しく朝まで何の邪魔も入らずにぐっすりと眠ったせいか、超絶すっきり目が覚めた。このひと月あまり、ことあるごとにヴェンディとベッドを共にしていたせいで忘れていたが、寝入りばなや夜中に睡眠を阻害されないということのなんとすがすがしいことか。


「よく寝たぁ……」


 大きく伸びをして窓を見やれば、真っ赤な朝焼けの空が広がっている。こりゃ雨でも降るかな。今日の予定はなんだっけ、と頭の中でスケジュール開くがそういえばここはヴェンディの城ではなかったことを思い出す。

 特に大きな催しもないはず。でも一応は来賓としてそれなりにいつでも呼び出しに応じられるようにしておかなくては。

 昨夜の様子は気になるけれど、一晩寝て多少向こうも頭を冷やしただろう。ヴェンディもなんだかんだで疲れていたのかもしれないと高を括る。食事の手配をして、昨日のシャツはクリーニングに出して、あとは――まあまだぐずるようなら菓子パンの一つでも持って行こう。

 水差しからコップ一杯分の水を飲み、幾分、いやかなり頭がすっきりした私は身支度をするとヴェンディの部屋へ向かった。

 結果、私の予想は見事に裏切られた。

 ドアをノックすると内鍵ががちゃりと開き、そこから既にしっかりと昨日とは異なるスーツを着たヴェンディが出てきたのだ。と同時にむわっとした甘ったるい香水のにおいが顔にまとわりつく。嗅ぎ覚えのあるそれ一瞬どきりとすると、すぐさまドアの影から細い褐色の腕が伸びた。


「ヴェンさまぁ。お待ちになって。アルセニオさまには二人そろって、と言われておりますのよ?」


 気怠げな声とともにヴェンディの腕に絡みついたのは、騎士団長の妹、姫騎士として軍勢を指揮するダークエルフの美女、クローディアだったのだ。


「く、クローディア……さ、ま?」


 まさかこんなところ――朝っぱらのヴェンディの部屋から出てくるとは思わない。咄嗟のことにも敬称を忘れなかった私、えらすぎる。でも上ずった声は誤魔化せない。動揺した私に、クローディアはふんっと鼻を鳴らした。


「相変わらず貧相ですこと。おまけに従者のくせに主より遅く起きてくるなんて、とんだ怠け者ですわね」

「怠け者って……いや、ちょっと待ってください。クローディアさまはいつお越しになったんですかっ」

「昨夜ですわ。お務めを放棄したお馬鹿がいると聞いて馳せ参じましたの。今日はわたくしがお供を務めます。あなたはお声がかかるまで待機しなさい」

「え? 放棄? お供を務めるって……? ヴェンディさま?」

「我が主の命令です。お聞きわけなさい!」


 クローディアの一喝が雷の様に廊下に響き渡った。その剣幕にヴェンディへと伸ばしかけた手が止まる。ねぇヴェンさま、と甘く微笑んだクローディアに伴われて、ヴェンディはするりと私に背を向けた。

 こちらに転生してきてどのくらい経ったことだろう。初めて見るヴェンディの様子に、私は足元がガラガラと崩れ落ちる感覚に襲われた――訳はなく、頭の中で何かがぶちっと切れた音がしたのを感じた。

 

 何あれ!

 何なんあれ! 腹立つ!

 つまり、私が思う通りにならないからわざわざ同伴者としてクローディアを呼びつけたってことか。

 大人げないにもほどがある。勝手に勘違いして拗ねた挙句、別の女を連れ込むなんていい大人のすることじゃない。どういう思考をしたらそうなるのか、奴の頭を勝ち割って脳みそに直接問い質したい。

 しかも何なの、あのクローディアの顔。勝ち誇ったような、見下したような、あの態度。人間界との戦のあとに部屋から飛び出していってから、なにも音沙汰がないからどうしたんだろうと心配してやってたっていうのに。

 ぐわああああっと湧き上がる怒りの感情を持て余し、私はドアに拳を叩きつけた。


「っつぅ……」


 しかしどんなに力任せに叩いたとしても所詮は人間の女の力である。硬い木製のドアは容易く私の拳を跳ね返した。衝撃と痛みにじわりと視界が歪む。じりじりと痛む拳を見れば、ちょっと血が滲んでいた。

 この年まで生きてりゃ人間、一つや二つは言いたくない事だってあるってことになぜ思い至らないのか。なぜそこを分かってくれなかったのか。それが無性に腹立たしく悲しかった。

 昨日今日知り合った仲じゃない。愛を誓いあった相手が言い淀んでいるなら、言う気になるまで待つとかいうのが大人としての対応だろうに。――でも。

 拳に滲む血に、昨夜の濡れたようなヴェンディの紅い瞳が重なった。あれは不安な時の顔だったのではないか。そう思うと、直後に見せた寂しそうな背中が脳裏に浮かぶ。最後に行っていた同族ではないということは、思いのほかヴェンディにとっては引け目になっているのかもしれない。

 不安がっていた彼に、安心を与えなかったのは私だ。

 ずきっと胸が痛んだ。

 急激に怒りが静まり、代わりに酷い後悔が襲ってくる。


「逢坂さん?」


 男声にしてはやや高めの明るい声に唐突に呼ばれ肩が跳ねる。耳に飛び込んだのはもはやすっかり呼ばれることがなくなった私の姓だった。昨夜呼ばれたときはただパニックに陥っただけだったが、改めて逢坂と聞けば以前の記憶が引き出しを開けたときのようにあふれ出た。

 いい思い出も、そうじゃないものも。

むしろ冴えない自分だったころのあれやこれやがぶわっと湧き出てしまい、体が硬直したように動けない。

 視線を落として立ちすくんでいた私の背後から、優し気なテナーの持ち主が顔を覗かせたのはその直後だ。


「こんな所でどうしたんです? そちらの魔王様が昨夜と違う女性をお連れになったので確認させていただきに来たんですが……」


 はっとトーヤ、いや遠山さんが息を飲む気配がした。


「その手、どうしたんです? 血がでてるじゃないですか!」

「……いえ、なんでもありま」

「何でもありませんじゃないでしょう。早く手当を!」

「いえ、結構ですから……」


 今は放っておいてほしかった。過去を知っているこの人に、変に優しくされたくない。あの頃の妙に卑屈な自分がむくむくと大きくなってくるのが分かった。


「舐めといたら治りますから」

「日本と違って衛生面じゃ何があるか分かんないですから。早く手当を!」

「でも……」


 煮え切らない態度に業を煮やしたのだろう。ああもう、と吐き捨てるように遠山さんが呟いた。そしてそのまま私の手を取ると、ぐいぐいと引っ張って歩き出したのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る