第16話 ある夕方、旧交を温める②

 ジト目でヴェンディを睨むが、当の魔王はにこやかな笑顔でそれを躱した。無駄にきらきらしたその顔は腹が立つほどに美しく、そしてそれにまんまと懐柔される自分に呆れてしまう。はっはっは、とアルセニオが豪快に笑った。


「これは大変失礼した。それほど怖いオニとは知らず、ヴェンディを巻き込んでしまうところだったか」

「いやいや、私にとっては日常さ。いつもリナに構ってほしくてついつい怒らせてしまうのだがね。その可愛い姿は独り占めしたいのだよ。分かってくれるかい、アルセニオ?」

「分かった分かった。お前に会うのが久しぶりだからと浮かれて余計なことを言った俺が悪かった」


 心底可笑しそうに新王は肩を揺らす。大勢の前で素直に謝罪の言葉を口にするその姿は、ある種の誠実さが見て取れた。まあセクハラはセクハラだけど、本気で言ったわけでもなければ要はヴェンディを揶揄いたかっただけのようだし、今回のところは大目に見てやるかと私も肩の力を抜く。

 周りの空気がもとに戻ったところで、ヴェンディはようやく私に絡めた腕を解いた。離れる瞬間にちりっと耳たぶへ唇をかすめられ、背筋に電流が走ったように身体が跳ねる。


「ちょっ」


 何するんですか、という言葉は飲み込んだ。目を合わせたヴェンディの表情がほんの少しだけ悪戯っぽく笑っている。半面、瞳の奥では炎がちろちろと紅い舌のように揺らめいていた。

 余裕そうに見えて、実は相当妬いてる。これは今夜、ちょっと覚悟が要りそうだ。二日まともに寝てないのに、体力が……と一瞬めまいがしそうになったとき、相対した私たちの間に人の気配が増えた。


「アルセニオ様」


 涼やかと言えばいいのか優し気と言えばいいのか。アルセニオを呼ぶやや高めのテナーで私たちはそちらを振り返った。

 そこに立っていたのは明るいレンガ色の髪をしたヒト型の男だった。屈強なモンスターたちが並ぶ中でひょろりとした体躯はヴェンディと大差なく、地味な色合いだが仕立ての良さそうなスーツを着て黒ぶちの眼鏡をかけている。

 ああそうだった、と新王は頭を掻いた。


「あんたに声をかけたのは別の理由があってのことだった。うちも先日、城内に人間が迷い込んでいたので拾ってみた」


 手招きされて近づいた男が深々と一礼をした。しかしそれはこっちでよく見る魔族同士のものでも、城で上司相手にやる右腕を胸前に折って頭を下げる形のものでもない。でも物凄く馴染みがある。両腕をしっかり脇につけて、斜め四十五度くらいに腰から折れるこのお辞儀――あ、日本のビジネスマナーで言われるタイプのお辞儀だ。

 え? お辞儀? なんで?


「ヴェンディのところの人間が優秀だと聞いたんでな。こちらも試しに仕事をさせてみたら思いのほか出来がいい。細かいところに気が利くのは、人間という生き物の特性なのかと驚いていたところだ」

「なるほど、そうなのかもしれないね。リナはとてもよく仕事をしてくれるよ。君のところの人間も、さぞ優秀なのだろうね」

「あんたが連れられて来ているというから、せっかくだから人間同士会わせてやろうと思ったんだ。なあ、トーヤ」


 トーヤ、と呼ばれた男が顔を上げた。人懐こそうな微笑みを浮かべるその顔立ちに激しい既視感を覚える。

 なんだ、どこで見かけた? どこだ? 

 こんな人間の知り合い、こっちの世界ではいないはずなのに――と気づきハッとする。さっきこの男はお辞儀をした。ということは、まさか日本人? ひょっとしたら私と同じような転生してきた人間? なら見覚えがあるような顔立ちでもあり得るかもしれない。

 日本人、と久しぶりに思い出す単語になぜか胸が躍った。鼓動が早まり、彼の顔から目が離せなくなる。


「トーヤではありません。名前はショーです。トーヤマ、ショーと申します」


 トーヤマ、ショー、と思わず私は口の中で小さくつぶやいた。あれ、と思う。聞き覚えのある名前だった。どこで、と思うがそんなの前世の日本に決まってる。

 トーヤマ、トウヤマ、トオヤマ……と最近ではすっかり奥の方に片づけていた記憶を引っ張り出して漁ると、思い出せる範囲で該当するのが一人、いた――。


 一億何人いる日本人でそんな偶然ある? でも、もしかして、いやあるわけない、けど、と私は口を開く。


「遠山……? 遠山、翔……さん?」


 お久しぶりですねオーサカさん、とほほ笑むトーヤに、私の頭は真っ白になった。


★ ★ ★ ★ ★


「で、あのトーヤとかいう男とはどんな関係なんだい?」


 披露宴がお開きになり、滞在を勧められたアルバハーラ城の南館に下がるやいなやヴェンディは私をベッドに押し倒してそう聞いた。待ってという抑止の言葉は冷たい唇で口中に押し戻される。彼のこんな冷たいキスは初めてだった。

 それなのにわずかに開いていた唇の隙間からねっとりとした舌を差し入れられれば、私はそれを受け入れてしまう。あっというまに口内はヴェンディのものでいっぱいになった。

 こんなに性急に求められたことはなかった。お互いの粘膜同士の絡みあう水音が口の中から鼓膜を震わせる。息継ぎも困難なほど深く舌を吸われ、私の喉からかすかに悲鳴のような音が漏れたところでようやくヴェンディは唇を離した。


「どんな関係?」


 すっかり息が上がってしまった私に構わず、ヴェンディは問いを重ねた。


「どんなって、別に大した関係では……」

「無関係ではなさそうだったよ?」

「いやあ、まあ、遠い昔の知り合いというか……同僚とでもいうか……」

「ただの知り合いというには、意味深な挨拶だったね? 君の様子もそれから随分とおかしくなってる」

「そ、それは……」


 「トーヤ」から本名で挨拶された瞬間、どっという音がする勢いで前世の思い出がよみがえった私の様子は明らかに不審者だったことだろう。口から出てくるのは「あ」とか「え」とかいう音のみで、単語の体すらなしていなかった。それはもう自分でもよく分かってる。

 ――でもパニックになって仕方ないじゃないか。まさかこんな所で日本人に、しかも知っている人に、更に言えば会社の同僚だった人に会うなんて夢にも思わないしお釈迦様だって知らん事でしょ。


 トーヤ――つまり遠山翔という彼は、私の前世で勤めていた会社の若手広報の一人だった。取ってくる仕事はそこそこ大きく、いつも女の子に囲まれていた彼と私の接点は主に企画書と見積書。頼んます、と年下のくせにフランクに書類を投げてきては、不備があって突き返すと雨の日の子犬のようにしょげていたっけ。

 ぼんやりと思い出せる前世での彼の面影は、確かに今の顔とも重なった。同時に自分の顔も、ひょっとしたら面影が残っているのかもしれないと思い当たる。でもなぜか私を「逢坂里奈」と知っていた風だった。訳が分からない。


 そんなことを考えながらうちの城のものより柔らかいクッションに身体を沈められた私は、全身の力を抜いた。抵抗をしようにも思うように動けない。それどころか久々に身体を横たえたおかげで、こんな状況なのにこのまま目を閉じて眠ってしまいたい衝動に駆られていた。まるで脳が考えることを拒否しているかのように。

 でもそういうわけにはいかなさそうだ。さらりとしたヴェンディの黒髪が私の頬に落ちる。見上げれば切なそうな表情の魔王が私をじっと見つめていた。うう、と思わず口ごもれば、魔王の表情は更に曇った。

 いやでも、そもそもよ? というか、でも、が多いな。でもさ。

 私を人間として認識しているヴェンディには前世がどうとか、日本がどうとかという話はしていない。どうせ向こうでは私は死んじゃってるし、こっちに転生したのならもう言ったってしょうがないから今更ぐだぐだ説明する必要も感じなかったし。

 それに前世の話をするってことは、あのちょっと冴えない風体だった自分を思い出さなきゃいけない。場合によっては話の流れでそれを言わなくてはいけないかもしれない。あの頃の私を知られて、ヴェンディに何か言われたらと思うとまだ何となく覚悟が決まり切らなかった。


「む、昔の事なので……」


 濡れたようなガーネットの瞳にじっと見つめられ、私は思わず視線を逸らした。それがいけなかったんだろう。次の瞬間、彼の口から出てきた言葉は思いもかけないものだった。


「……彼は、君の想う人だったのかい?」

「……は?」

「やはり、同族には敵わない……」


 ぽつりと零すと、ヴェンディは深いため息を吐いた。そして私の答えを待たず身体を離し、部屋を出て行ってしまったのだった。

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