第7話 ある昼、東奔して西走する②

「私の父は偉大な魔王だった」


 ぽつぽつと語るヴェンディの声は、今まで聞いたことがないほどに弱弱しかった。


 語られた内容な、由緒ある血統の王家の一族であることの重荷だった。


 父王は歴代の王のなかでも突出して優れていて、領土の拡大と開発で力を奮い民たちからの信頼も厚かったこと。四方に広がる資源豊富な山間部も手に入れ、今の自給自足という領地の礎を築いたこと。あこがれであり、自分もこうありたいと願っていたこと。

 けれどその尊敬する父王が、大規模な人間界との戦で勇者に倒されてしまったこと。一心不乱に勇者を追い払ったものの、戦が本当に怖くなってしまったという。 

 そしていざ家督を継いで魔王になったものの、先代の偉業に敵うことができる自信がなにもなくその器でもないと気づいてしまったこと。

 勇者に自分もまた倒されてしまうのではないかという恐怖から人間の城を攻めて領土を拡大することもできず、かといって他の魔王の手前では人間が怖いとおおっぴらに言うこともできず、日々戦々恐々としていたということ。


 はらはらと涙をこぼしながら語るそれらは、飄々として見えたヴェンディの仮面の内側に隠された、本当に本当に柔らかく繊細な彼のこころだった。

 一刻を争う、そんな事態にも関わらず、魔王はどうしようもないかなしさとさみしさと、それに伴う絶望に満たされていて一歩も動くことができない。そして私はそんな彼を愛しいと思った。だから、キスをすることしかできなかった。


 初めは触れるだけ。緊張と恐怖のせいだろうか、血の気の引いたヴェンディはその唇さえもひんやりとしていて、まるで体温が感じられなかった。昨晩はやわらかくしっとりと湿り気を帯びていたはずの唇はカサカサで、ささくれた表皮が私の唇に触れてちりっとした痛みを残す。

 二度目は押し付けるようにゆっくりと。冷たいままの彼の唇まるごと私で包んだ。私の体温を分け与えるように、抱きしめて頬を撫でる。彼の伏せられた黒いまつげの奥に見える濡れた瞳が、戸惑っているかのように揺れていた。潤んだそれは赤い果実の断面のようだ。硬質なガーネットの輝きはまだなく、うすぼんやりと私を写す。


「ヴェンディさま」


 何度目だろう。私は彼の名を呼びながら唇を合わせた。そして薄く閉じられたままの唇の隙間を舌先でなぞる。数度往復させて内側に滑り込ませると、小さくヴェンディの肩が揺れた。とさり、と床に漆黒のマントが落ちる。

 おずおずと彼の唇の内側へ舌を這わせ下唇に甘噛みをすると、それまで力なくぶら下がったままだった彼の腕が私の腰へと回された。幼い子が甘えるようにぎゅっとブラウスを掴まれると、たまらなく庇護欲を掻き立てられる。同時に嗜虐的な気持ちも沸き上がり、彼の口内をこじ開けるように舌をねじ込んだ。

 怯えて泣いている魔王に乱暴を働くなんて、と思ったけど止まらない。私に応じて動きはじめた彼の舌に自分のものを絡ませ、そして吸い上げた。

 唾液が絡まる音が口内から直接脳へ伝わるたびに自分が興奮し、動きが早まっていくのが分かる。唇と舌だけの愛撫がもどかしくて、私は自分の体を彼へ押し付けた。

 

「……ん……っふ……」


 魔王の口から吐息が漏れた。甘い音色にお腹の奥から熱いものがせりあがってくる。それに急かされるように、私は更に激しく突っ込んだ舌で彼の口内を舐った。こんな衝動、初めてだった。脳髄に電流が流されるような快感。こんなのは、知らない。でも、止まらない。

 もっと、もっとと本能が急き立てる。下腹部にきゅんとした小さな痛みが走った。私に、触れてほしくてたまらない。

 けど。


「ごめんなさい」


 私はヴェンディから唇を離した。さんざん嬲りあった唇はじわじわとしびれるように快感を脳に伝えてくる。それに溺れてしまいたいと思うけれど、でも、ここから先は、私は知らない。知りようがない。

 だって、したことない。

 男性と付き合ったことがない以前に、告白したりされたりといったイベントにことごとく無縁だった前世を呪う。そんな私が目の前のイケメンとめちゃめちゃになるほど深いキスをするなんて、以前なら考えられもしなかった。


「リナ……?」

「ごめんなさい、こんな時に……」

「いや、君からこんな熱烈なキスをもらえるなんて……なんていうか、その……」


 うれしいよ、という言葉はまだどこか力無い。気恥ずかしくてそらしたくなる視線を無理やり彼に向けるが、やはりヴェンディの顔色は青白いままだった。いつもの強引さも尊大さもなく、ただうっすらとした笑みを顔に貼り付け、心にもない言葉をどうにかひねり出しているようだ。


「ヴェンディさま」

「心配をかけてすまない。私がもっとしっかりしていれば、君にこんな心労をかけることもないだろうに」

「心労だなんて……」

「今朝だってクロ―ディアの件であんな顔をさせてしまった。クローゼならばそんな不誠実なことはするまい。私では、君には不釣り合いなのかもしれないな……、君のように優秀で、美しくて、そんな女性が私の我儘で私のもとに縛られていてはいけない」


 徐々に選ぶ言葉が自虐的になっていく。自棄になっているのか、ははは、と彼は乾いた笑いをこぼした。


「そんなことありません、ヴェンディさまが拾ってくださったから。あなたが行く当てのない私を雇って下さったんじゃないですか。お仕事をくれて、住むところもくれて、こんなによくしていただいて縛られているなんて思ったことないです」

「でも私は君に仕事以上のことを要求してしまっていたよ。ずっと君が傍にいてくれればいいなって、そう思う気持ちが抑えられずにいろいろと我儘を言ってしまったし」

「我儘なんで、まあ我儘ですけど、けど……」

「そうだ、この戦が終わったら君は自由にするといい。クローゼのもとで暮らしたければここに居てよいし、別の屋敷が欲しければ私が一つプレゼントしよう。いいや、戦が終わったら君が魔王城の主になってもいい。初戦でクロ―ディアが大勝すれば勇者が出てくるだろう。私は、きっとこの戦で命を――」

「ヴェンディさま!」


 ばちん、と私の手のひらに鈍い痛みが広がった。目の前では頬を抑えて横を向く魔王が、呆然として床の一点を見ている。

 縁起でもない言葉を力づくで止めた私は彼の胸倉をつかんで捩じりあげた。


「ふざけないでください! あんだけ私のこと愛してるとか君は私のものだとか言って惑わせといて、今になって放り出さないでよ!」

「……し、しかしリナ」

「何が自由にするといいよ! 何がクローゼのとこに行けよ! 借金だらけの魔王城の主になんてなりたくないっての! 怯えて慎重になるのはいいけど、妄想ふくらまして勝手なことばっかり言わないで!」


 雇用主を殴って怒鳴りつける。こんなこと、ふつーの日本でやらかしたら一発レッドカードだ。でもここは違う。一度せきを切ると、私の中の熱いものは留まることなく溢れ続けた。


「私の気持ちはどうなんのよ! 昨日の続き、するんでしょ! 別荘行くんでしょ! 中途半端にやらかしといて、勝手に絶望してそのまま放り出すなんて無責任なこと許さないから!」

「リナ……君は、その……」

「あんたのことは私が絶対守ってみせる! 絶対死なせたりしないし、傾いてる魔王城だって立て直してやる! 二人でジジババになって温泉旅行が楽しめるくらいに生きてもらうんだから!」


 怒鳴って、薄いヴェンディの胸板をどついて、それでも迸る何かが止まらない。いつの間にか私の両目からは涙があふれていた。


 しかしだ。


「……温泉」

「え?」

「温泉……!」


 呟いた一言を脳でこねくり回すと、目の前に一筋の光が差した。

 そうだ。これだ。

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