第7話 ある昼、東奔して西走する
「なんだって!」
竜の報告――驚いたことにこの竜は人語を話す、自ら伝令をこなす竜だった――を聞いたクローゼは声を荒げた。その剣幕に竜がびくっと身を竦ませる。赤い巨大な鱗がきしみ、金属がこすれるときに出るような不快な音が響いた。
彼の報告はクローゼが危惧したとおり、国境警備からの火急の知らせだった。
『人間の王国軍が侵攻してきた』
耕作地と狩りのテリトリーに関する国境付近での諍いが激しさを増し、焦れたお互いの領民が武器を持ち寄って相手を威嚇しているうちに、許可なくこちらの領民が相手側の領地を強奪してしまったという。昨夜のんきに晩さん会がどうとか言っているうちに、明確な戦闘の口実を得る前から人間界は戦争の用意を整えていたというわけだ。
その数はおよそ三千。規模としては一個連隊。これはもう領地の回復とかの小競り合いではなく、攻めてくる気満々の動員数だ。しかも先頭には人間界の英雄と呼ばれるクラスの騎士の顔がちらほらと見えたとか。
魔王と騎士団長の思惑は大いに外れ、侵攻を止めなければヴェンディの領地が亡くなってしまう。悪くすれば魔王であるヴェンディが討伐されてしまうかもしれない。
ヴェンディが、と思うと目の前が真っ暗になる。人間の勇者が怖くて、結果的に平和路線をとっていた彼が――。
べそをかきながら人間が怖い、と言っていた情けない姿と同時に、白々しくみんなが平和に暮らせるのが一番だとほほ笑む姿を思い出す。それが人間の勇者が怖いからという理由からくるものだとしても、双方が穏やかに暮らせるならばわざわざ争って相手を滅ぼさなくたっていいじゃないか。
共存できる道を選ぼうとしたヴェンディの、その姿が火炎に包まれる想像をして身震いをした。
震えそうになる両脚が頼りなくて、ぐらりとよろけた私はクローゼの袖につかまりなんとか平衡を保つ。見上げたクローゼの顔はわずかに青かった。黙って唇を噛み、一点を見つめて思考をまとめているようだった。
報告を終えた竜は彼の主人が黙ってしまったのが気になるのか、地面に伏せて大きな瞳を上目遣いにしながら彼の様子をうかがっていた。
「クローゼ、サマ、オシラセ、オワタ。ボク、マタ、アッチモドル……?」
「いや、この件を閣下にご報告してくる。お前は少し待て」
「ウン、マツ」
素直に頷く竜を一瞥すると、クローゼはすぐさま傍に控えていた使用人にヴェンディを執務室へ案内するよう言いつけた。そして足早に屋敷内に戻っていく。私は既に笑い始めていた膝を叱咤しつつ、その背を追いかけて執務室へと向かった。
クロ―ディアを貼りつかせながら執務室へやってきたヴェンディは、私を見るなりばつの悪い表情になった。何か言いたげな彼だったけれど今は正直それどころではない。大きな机に地図を広げたクローゼに気が付くと、その緊張感が伝わったんだろう。魔王の顔つきになってクローゼに報告を促した。
そしてその報告を聞くと、ただでさえ白いヴェンディの顔色が青白く変化していった。傍らのクロ―ディアも、朝のような我儘姫の顔から昨日の魔女としての顔つきになっていた。きつく吊り上がった眦が、地図上の人間軍を示す駒を睨みつけている。
わたしは彼らのやりとりを、ただ傍で聞くしかできなかった。だって、現代日本のブラック企業に勤めてた女子風情が、そんな戦争の駆け引きとか分かるわけがない。口をはさむどころか、話についていくのだって難しい。
「王国軍が、出陣したということだね……」
なんとか絞り出したように聞こえる声は上ずっていた。
「数は三千ほどということなので、我が騎士団を総動員すれば軍容は互角ということになります。ただ……」
「ただ?」
「我が配下たちも人間界に面した国境に広く分布させております。そこも小競り合いが続いているので、召集をかけてもすぐには応じられない可能性もあるでしょう。魔界のものと人間とでは力量に差があるので、こちらが寡兵であっても負けることはないとは思いますが、人間の軍に英雄と呼ばれる騎士が幾人かいるという情報が気になります」
「そうか……」
「また今回は戦場となるのがあちら側ではなく我が領内です。非戦闘員である領民への被害や彼らの疲弊は免れません。深く侵攻されればなおのこと」
事態は一刻を争います、とクローゼが告げる。周囲の視線がヴェンディに集中した。
蒼白となった彼は地図を見つめて黙り込んだ。数度、唇が動きなにか言いたそうにするけれど言葉にならない。赤い瞳が揺れ、口元を抑えた指先も真っ白だ。
「ヴェンさま」
見かねたようにクロ―ディアが口を開いた。憎々しげに人間の駒を睨んでいた彼女は、手ずから魔王軍の駒を一つ動かし人間軍の真ん中へと置く。そして周囲の駒を弾き飛ばした。
「わたくしが参りますわ。まずは敵の第一陣を消し炭にしてご覧にいれます」
燃え滾る炎のような眼差しで告げる彼女の自信は決してうぬぼれではないのだろう。クローゼもその振る舞いを止めず、ヴェンディの返事を待つ。
「……しかし、戦は……」
「閣下、避けられるものであれば避けます。しかし領内へ深く侵攻されてからでは取り返しのつかない状況になるやもしれません。領民が怒り、魔王さま同士の勢力図にも影響が出てしまってからでは……」
「……しかし」
歯切れが悪いのは恐怖からか、それとも何か別の理由があるのか。昨日の白々しい建前すら口にできず、ヴェンディは視線をうつろに彷徨わせた。煮え切らないヴェンディに、クローゼの拳が机を叩いた。
「父君が遺されたこの閣下の魔王領、分割されるわけには参りません」
「……わかった」
静かにヴェンディは頷いた。そして騎士団長とその妹に出陣の手配を命じる。二人はそろって敬礼をし、足早に執務室を後にした。
彼等が去り、私と二人で残されたヴェンディは力なく項垂れた。両腕はだらりと垂らし、長い前髪が顔にかかって表情はうかがい知れない。声もないけれど、ただ何となく、彼が泣いているんだと分かった。
「ヴェンディさま……」
いたたまれずに声をかけるが、伏せられた彼の顔は上がらない。失礼とは知りながらのぞき込むと、ヴェンディの両頬にそれぞれ一筋の涙が流れていた。
いつものべそをかいているときの顔とは違う、ただひたすらに深い悲しみを感じさせる涙だった。
「ヴェンディさま……」
他にかける言葉が見つからず、私はまた彼の名前を口にした。
「……リナ」
ごめん、と小さく、ほとんど聞き取れないほど小さな声でヴェンディは呟いた。それで何かせき止めているものが切れたんだろう。ぱたぱたと床に大粒の涙がこぼれ落ちる。それを見た瞬間、私はヴェンディの頭を包むようにに抱きしめていた。
腕を通して彼の震えが伝わると、胸が押しつぶされるほど切なくなった。この泣き虫な魔王が、人間との戦をどれほど恐れていたか。日頃から怖い怖いと言っていたけれど、あれはパフォーマンスでもなんでもなく、本心からだったんだ。
「ごめん、リナ……」
「大丈夫ですよ、ヴェンディさま。人間の軍はきっとクローゼさま達が追い払ってくださいます。勇者なんかがこないうちに、戦は終わります。だから怖がらないで」
「怖い……情けない、悲しくて、空しくて……でも怖くて……」
「大丈夫、万が一勇者が現れても、私が絶対ヴェンディさまをお守りします」
「リナ……」
涙に濡れた彼の目が私を見上げる。心細げに揺れる瞳があまりにも美しくて、儚く見えて、ぎゅうっと胸に痛みが走った。
「ヴェンディさま……」
私は彼の頬に手を添え涙をぬぐった。そして彼と唇を重ねた。
それは、初めて自分からしたキスだった。
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