第6話 ある朝、氷点下を体験する③

 ヴェンディのバカ、ヴェンディのバカ、ヴェンディのバカ。

 呪詛のように繰り返し歩きづづけること数分。屋敷の建物を出て、庭を横切り、気が付くともう自分がどこにいるかもわからなくなっていた。


 はあ、と肩で大きく息を吐く。思いのほか速足で歩きまわっていたので、息が上がってしまっていた。

 数回の深呼吸で息を整えていると、背後でとても申し訳なさそうにクローゼが声を発した。


「あ……の、リナ殿……」

「はい、なんでしょうかクローゼ様」

「いったい、どちらまで行かれるおつもりですか?」

「……わかりません」


 思わず口をとがらせて答えたものの、さすがにこれは失礼かと思い直して私はクローゼに頭を下げた。


「申し訳ございません。ついカッとなってしまって、とにかくヴェンディさまの顔を見たくなくて飛び出してしまいました」

「いえ、あれはリナ殿も怒って仕方ないですよ。妹が大変なご無礼と、失礼を……」

「いえいえそんな、あれはヴェンディさまが悪いんですよ。クロ―ディアさまに催眠術みたいなのをかけた挙句にあんなことやこんなことして、逆に申し訳ございません……」

「いえいえこちらこそお客様に大変な失礼を……」


 いえいえ、いやいや、とお互い何度頭を下げあったことだろう。

 ぷ、とクローゼが吹き出したと同時に私の方もなんかおかしくなって笑いが止まらなくなってしまった。

 二人で顔を見合わせてひとしきり笑いあったところで、私は改めて周りを見渡した。

 整地はされているものの館の前に広がる庭園のような豪華さはなく、どちらかというと私が小さいころに遊んでいた公園(という名の原っぱ)に近い雰囲気だ。背丈の低い細めの草の葉が風に揺れ、周辺は針葉樹が塀のように囲っていた。


「無我夢中というか、まったく行先も考えずにただ歩いただけなんですけれど、こちらはクローゼ様のお屋敷の敷地ですか?」

「そうです。裏庭といいますか、プライベートな運動場といいますか。子どものころはここでよく閣下や妹と遊んでいました」


 なるほど、やはり広い原っぱがあるとどこの子どももやることは同じっぽい。かくれんぼとか、だるまさんが転んだとか、ボール遊びとか、遠い記憶がよみがえった。思えばあの頃が一番体力があったし、一番健康だった気がする。

 ふふっと笑いが漏れると、クローゼが不思議そうに私の顔を覗き込んだ。


「どうかされましたか?」

「いえ、私も幼いころはこういったところで走り回っていたなあと思い出しただけです。泥だらけになって帰って、よく母に叱られました。泥遊びしたっていうと子ども心にまずいと思うんですよね。でも転んだだけだとか嘘ついて余計に叱られたものです」

「リナ殿も? 意外ですね」

「そんなことありません。子どもなんて、いつの時代もどこの世界も同じですわ」


 そういって笑うと、クローゼもおかしそうに口を開けた。原っぱを見つめる目が細められ、優しい光がそこに浮かぶ。


「そういえば私もよく服を破いてしまって叱られました。閣下なんか、自分で転んでけがをしたのに私やそのほかの子どものせいにしたことがありましてね、当時の魔王である父君につるし上げの刑を食らっていましたよ」

「つるし上げ?」

「そう、文字通り紐で足を括られて木にぶら下げられたんです」

「ホントですか?!」

「木の下には魔王のペットのケルベロスがいて、落ちてきたら食われるぞーって魔王が脅すんです。大人げないでしょう?」


 木にぶら下げられて城のケルベロス達に吠えたてられるヴェンディ。想像しただけで何か笑えてくる。きっとべそべそ泣いていたんだろうなぁ。


「今にして思えば大した時間ではないと思うんですよ、きっとほんの数分のことなんでしょう。けど昔はうそを吐くとあんな目にあわされると恐ろしい気持ちになったものです」

「子どもならトラウマになっちゃいますね。私も泣いてしまいますわ」


 ですね、と騎士団長は笑いながらうなずいた。


「魔王の教育というものもあったんでしょう。上に立つものが下のものに責任を擦り付けてどうする、と。それ以来閣下は目下の者たちにはとても心配りをするようになりました。というより、他人のやることを否定するのはいけないと思ってしまわれている節が」

「まあ、確かに……ヴェンディさまは誰に対しても鷹揚ですわね……」

「特に女性に対しては来るもの拒まずというような態度になりがちで、今朝のように困ったことにもなることも多いんですよ」


 ふう、と二人でまた顔を見合わせた。一瞬訪れる静かな時間に、お互いがどちらともなく目をそらす。通り抜けていく風がクローゼの銀髪を撫でた。日の光の下でみるそれは、月明りでみるよりずっときらきらと輝いている。きれいだな、と素直に思った。

 私から視線をそらしたクローゼは遠くの木々を眺めながら、ぽつりと妹は、とつぶやいた。そしてかすかに首を振った。


「クローゼさま?」

「いえ、妹は幼いころから閣下の妻になるといって聞かないものですから、あの方が娶ってくださるならと思っておりましたが、おそばに貴女のような方を置いているのであれば諦めさせねばなりませんね……閣下のお戯れはいつものこととはいえ、貴女には大変不快な思いをさせてしまって申し訳ない」

「お待ちください、私は別に、そんなヴェンディさまとそんな関係ではっ!」


 深々と下げられた頭に私は大慌てで否定する。


「単なる雇われの事務員です。魔王城の財政をお任せいただいたのでお傍にいることが多くなってますけど、お戯れにいろいろおっしゃっていますけど、別に、その、男女の関係とかそういうのではないんです」


 別にあの人の恋人だとか、そういった位置にいるんじゃない。でも自分で言った言葉にざっくりと傷ついた。と同時に彼の幼いころの話を聞いて腑に落ちている自分もいた。

 昨夜、ベッドで囁かれた言葉。あれが嘘とは思わないけど、きっと彼はその場では本心でああいうことを言うんだと思う。きっとクロ―ディアと二人でいればクロ―ディアに、別の女の人といればその人に。一緒にいる人が心地よくなる言葉を、するりと言うことができるんだ。

 それに対して裏切られたとか、そう思えてしまう自分はやっぱり彼とは合わないと言わざるを得ない。

 

「それは本当ですか?」


 探るようなクローゼの視線に私は背筋を伸ばして見つめ返した。


「本当ですわ。部下としてヴェンディさまをお支えしなくてはとは思いますが、それ以上の気持ちはございません」


 ばっさりきっぱりと言い切る。するとそれまで訝しむような表情をしていたクローゼが破顔した。昨日から何度かこの人の笑顔は見ているけれど、初めてみる曇りのない笑顔だった。ぱっと周囲に光が舞うようなさわやかな顔。ヴェンディのすべてを絡み取るような妖艶な笑みではなく、包み込むような優しい顔だ。

 

「よかった」

「何がです?」

「貴女が閣下のものでないのであれば、この私にもまだチャンスがあるということです」

「え……」


 突然の告白に思わず言葉が詰まる。

 いや、昨晩の件もあるし好意を予想してなかったわけでないけれど、でも突然すぎる。


「ちょっと、お戯れはおやめください……」

「戯れではありません。風の噂で閣下のお傍にいる人間の女性の話を聞いてから、どんな方かと気になっていたのです。そのうえで昨日お会いして、とても、その聡明で素晴らしい方と思いました。しかもかわいらしい。貴女は私の理想の女性です」

「そんな」


 言っていることは昨晩と同じ。でもいくらか控えめだった昨晩に比べると、ヴェンディへの遠慮がなくなったせいか熱量が違う。

 すっと彼が私に跪き、行き場を失って下ろしたままになっている手を取った。そしてそのまま甲に軽く口づけをされる。儀礼的なキスハントではあるものの、こんな告白のあとでは気恥ずかしさが半端ない。


「……待ってください、あの、私っ」

「いいんです。私の気持ちを、今すぐに受け止めてほしいとは申しません。リナ殿が閣下を気にしていらっしゃる事は私にも分かっておりますので」


 ただ、とにこやかに微笑むクローゼは続けた。


「私が貴女をお慕いしている、とだけ胸に留めて置いていただければ」

「……はい」


 恥ずかしさのあまり、私は小さく頷いて返事をするしかできなかった。

 強引で、わがままで、人の言うことを聞かないヴェンディに比べたら、なんて紳士的な対応なんだろうと思う。比べることすら失礼と思ってしまうくらい。でもこんなどきどきしている時ですら、ちらっと脳裏をかすめる魔王のべそかき顔が胸の片隅をちくちくと刺激した。

 しばらく続く沈黙に、間が持たず何か言わなくてはと口を開こうとするけど気の利いた言葉が出てこない。顔が熱いくらいに紅潮していくのが分かると、ますます気恥ずかしさが勝って何もしゃべれない。結果、私を見上げるクローゼと見つめあうだけとなってしまった。

 どのくらいその時間が続いたことだろう。何もしゃべれなくなってしまった私に、クローゼがほほ笑んで口を開きかけた。

 その時である。

 それまで陽光がまぶしいくらい注いでいた裏庭一面が、黒い影に覆われた。

 はっとして空を見上げる。バカでかい、そう、本当に屋敷の空を覆いつくさんばかりに巨大な竜が降下してくるのが見えた。大きな翼をはばたかせ、巨大な体をくゆらせた竜はゆっくりとは言い難い速度で館の前庭に降りていく。


「あれは――」

「国境付近に派遣した我が家の竜です。あれが帰還するとは、まさか」


 国境に何かあったのか。それまで熱いくらいに思っていたのに、背筋に冷たいものが走る。

 私達はお互いの顔を見合わせて無言で頷きあうと、急いで館の中へと戻ったのだった。

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