子供返り

 最近、響の子供返りが進んでいる。

 これは由々しき事態である。


 事の起こりは唐突だった。昨日まで実に真面目に仕事をしていた響が突然、私は疲れた。もうやりたくない。と仕事を投げたのだ。これを間近で目撃した秘書は目をひんむいた。何の冗談ですか? と驚きのあまり引きつった笑みで問いかけると響は真面目な顔でいったそうだ。


「もうやだ。遊びたい」


 どこの子供だ。失礼ながらそう思いました。そう報告してくれた秘書を見て、思っただけで済ませてくれたのだからずいぶん懐の広い人だと咲は思った。後々ボーナスなり休みなりを奮発しなければと固く誓った。


 しかし、これをきっかけに響は度々我が儘をいうようになった。遊びに行きたい。仕事はしたくない。もっと休みがほしい。云々。

 しまいには隙を見て脱走しようと企てるから秘書も咲も必死になって止めた。その後、捕まえた響を正座させ、いい大人が何をしていると淡々と説教したが響は眉を寄せ、だって遊びたい。と子供のような言葉を繰り返した。


 どうした羽澤響。お前もうすぐ50歳だぞ。人生折り返しだぞ。と咲は天を仰いだ。


 だが、こうなってしまうのも仕方ないと少しだけ咲は響に同情した。

 羽澤響という人間はとてもマイペースな人間だ。自分は自分、他人は他人と境界線がハッキリしており、他人と自分を比べることもなければ、他人より上に立とうと思ったこともない。徒競走は手をつないでみんなでゴールすればいいし、何なら順位なんていらない。みんな楽しく遊べばいいじゃないか。と真顔でのたまう平和主義者である。

 そんな響が羽澤家の当主になったのには様々な事情が積み重なった結果であった。響にしか出来ないことであったし、響も大切なものを守るためには力を得るほかなかったのである。


 それでも羽澤響は根っからの平和主義者だ。世の中にはびこる順位など消えてなくなっても問題ないし、羽澤家当主。社長。お金持ち。なんて持って生まれたステータスがすべて消えたところで気にしないような人間だった。

 響がほしがったのは愛する人と愛する子供。両手に抱えられる彼らが幸せであったならば、響という人間はそれだけで十分だったのである。


 そんな響が愛すべき子供を取り戻したのはつい最近だ。

 すべての問題がなくなったわけではない。戻ってきたことにより生まれた問題だってある。それでも響は満足した。手を伸ばしてもすり抜けていた大切なものが、やっと手元に戻ってきた。それに安堵し、気が抜けた。


 そして思ったのであろう。

 大切なもの戻ってきたし、これ以上働くなくてもよくないか。と。


「あのねー響君。気が抜けたのはわかるけど、まだ夷月が後を継ぐには色々と足りなすぎるでしょ」


 仕事用の机に頬をつけて、夷月がなぜか買ってきたスノードームを見つめ続ける響にため息をつく。気が抜けるにしてもほどがある。夷月や彰がいたらいかにも出来る大人というかっこつけた態度をとるくせに、咲や秘書だけの時、響は時折とんでもなく子供っぽい。

 幼い頃に子供らしくいられなかった。その反動なのかもしれないがそれを気遣うような関係性はとうの昔においてきた。


「甘えるなら私じゃなくて彰君にしなさい」

「彰に甘えられるわけがないだろう」

「じゃあリンさん」

「甘やかしてくれといったら甘やかしてくれるかな……」


 のろのろとスマートフォンを取り出した響を見て咲はため息をついた。悪魔と恐れられた男に「甘やかしてくれ」なんて堂々といえる男は響以外にいないだろう。


「響君にとって一番の問題が解決して安心したのは分かるけど、まだまだ私たちはやるべきことがあるでしょう」


 彰は響を父だとは認めたけれど、未だに壁はある。長女であるなのかは響のことも咲の事も嫌っているし、夷月はまだまだ危なっかしい。実は幽霊として第二の人生満喫しているトキアに至っては何を心配していいかすら分からない。

 未だ問題は山積みなのである。いくら頼もしい子供が帰ってきたといっても、まだまだ親として響は踏ん張らねばならない。咲は夷月の母親にはなれるが、彰の母親にはなれない。彰たちの母親はアキでしかあり得ないのだ。


「幼児返りもほどほどにしなさい。お父さん」

「……久々に呼ばれたな」


 少しだけ背筋を伸ばした響が目を閉じる。少しの間を開いた瞳には大人らしい知的な色があった。


「だがやはり、今まで真面目にやっていた分、息抜きは大切だと思う」

「いいから、仕事してくださいね~」


 ちゃんと終わったら、彰と夷月を呼んでやろうかと咲は思ったが、口に出したら調子に乗りそうなので黙っておいた。言わなくてもやるとなったらやる男なのは知っている。だから咲はご褒美の準備だけに気を配ればいいのである。

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