まだ名前はいらない

 久しぶりに家に帰ると黒い男がいた。もちろん呼んでいない。クティにとって鬼門ともいえる相手であり、出来ることなら顔を会わせたくない。そんな相手が我が家といわんばかりに寝っ転がり、庭をぼんやり眺めている。


「おーいクティ。帰ってきたなら先輩に茶ぐらいだせ」


 一切こちらに視線を向けていないというのに、クティが帰ってきたのがわかったらしい。かかわり合いになりたくない。そう思うが、逃げても後が怖い。しかたなしにクティは我が家へと足を踏み入れた。


「いつ来たんです。鍵は? 家の場所だってどうやって」


 クティは定期的に住みかを変える。老いないことを悟られる前にクティを知らない人間が住む地へと移動するのだ。

 ここに来たのは2年ほど前。しかし黒い男には引っ越し場所など告げていない。ここ数十年、もしかしたら百年ほど、黒い男はクティの前に顔をださなかった。それでも男はクティを見つけ出す。詳しい方法は分からないが、ろくなものではないだろう。


「魔女に呪われたって不運な奴らはどうしたんです?」


 リンが気に入っているのは魔女に呪いを欠けられた人間の双子だ。弟の方が兄を救うためにあがいているらしいが、クティからすれば運が悪いとしかいいようがない。魔女と呼ばれる女だけでも厄介なのに、悪魔と通り名がついた目の前の男までもが邪魔してくるのだ。

 黒い男にさんざん振り回されてきたクティは可哀想にと同情しているが、それ以上にかかわり合いになりたくない。可哀想ではあるが、リンの意識が双子に向いている間、クティは平和なのだ。


 しかしながら、今日の男は変だった。男が気まぐれに訪れることは何度もあったが、大抵は面白いものを見つけた。面白いことを思い付いた。付き合えとクティの予定も気持ちも無視して引きずっていくか、気がすむまで自分のしゃべりたい話をして去っていく。そういう台風のような男だ。

 けれど、今の男はひどく静かで、気だるげな様子のまま身じろぎもしない。


 その静けさが不気味でクティは身構えながらお茶を用意する。寝ている男の近くにお盆ごと置くと、男がやっと口を開いた。


「名前もらった」

「えっ」


 予想を超える言葉にクティは驚いた。クティたちのような存在にとって名前というのは重要な意味をもつ。クティのような仮名ではなく、誰かに与えられた唯一の名前だというのなら、それは人間でいうところの結婚に近い。


「誰に! 何て名を!」


 思わずクティは前のめりになった。いくら気に食わない相手とはいえ、名をもらうことはクティにとっても憧れだ。経緯は気になる。しかも悪魔と呼ばれ、固有の名前をもたなくても存在できるほどに強くなった男が名を貰うことを受け入れたという。いったい相手は何者なのかとクティはいつになく好奇心をくすぐられた。


「兄に」

「兄?」


 男に兄がいるなんて話きいたことがない。そもそもクティたちは人でない。血の繋がった肉親などいるはずもない。となれば、兄のような存在。何かの比喩と考えられるが……そう思ったところでクティは浮かんだ可能性に言葉をなくした。


「双子の兄がさ、名前ないのは不便だろうって。凛丸だってよ。もっと格好いい名前にしろ。っていったんだけどな、次の日首つって、変えてもらえなかった」


 淡々と男は口にする。どこか間抜けな響きをもつ名前を茶化せるような空気でもない。


「……名乗るんですか」

「つけられたからな」


 あんたなら名前なんてなくても生きていけるし、必要ないだろ。嫌なら名乗らなきゃいい。

 そうクティはいうことが出来たが、いわなかった。それは男が、凛丸という本人曰く不満な名をつけられた存在が一番わかっているはずである。


「……凛丸さんと呼べばいいんですか」

「それはやめろ。……そうだな、縮めてリンと呼べ」


 依然としてクティに目をあわせず、名もなき男あらてめリンはいった。いつになく感情の乗らない声。だからこそクティはリンの顔を見なかった。見たらなにかが壊れてしまいそうだった。


 クティたちにとって名は重い。名があるだけで強くなれる。同時に名付けた相手に縛られる。忘れたくとも忘れられない。本気で命じられたらきっと逆らえない。それでもいい。そう受け入れた時、やっと自分達は有象無象から唯一無二になる。

 それをリンは受け入れた。どういう理由かは知らない。リンは強いからクティほどは縛られない。だからただの気まぐれだったのかもしれない。


 だとしても、自身の大事なものを差し出したのだ。

 そんな相手が自殺した。それはどんな気持ちだろうか。クティは考えるが、いくら考えてもわからない。


 なにしろ自分には名がなくて、名付けて欲しいと思う相手もいない。けれど、押し黙り虚空を見つめ続けるリンを見ていると、いなくて良かったと思うのだ。

 きっとそんな存在がいなくなってしまったら、リンより弱いクティには耐えられないだろうから。

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