"駄目"になってしまった テーマ「入り口」

「すみません」


 駅へと続くモールのとある店で買い物を済ませたばかりの私にその低い声は囁いた。


「すみません、駅への出口ってどちらですか」


 囁いたと形容してしまった程の小さな声の主は私のすぐ後ろにいた。


「あの、えっと……?」


 仕事終わりのサラリーマンだろうか。灰色のスーツがよく似合っている。


「あの……?」

「駅の、出口です。すみません」

「あ、ああっ。えき、駅ですか」


 ようやく道を聞かれたことを理解した私は止まっていた脳みそを無駄に働かせた。


「えっと、すぐそこに見える階段を登って、右です」


 こんな簡単な道程を恐る恐る伝えたのは声の主が私より頭ひとつ分も大きな男性だったからだ。その背は今まで関わったどんな人よりも高く、唐突に話しかけられたのも相俟って、ほんの少しの恐怖と警戒をもたらしていた。

 ──だけど。と、私は声のする顔へと視線を向ける。消え入りそうな声で「はい、はい」と真面目に相槌を打つ表情はその低さと高さとは反対に幼く、うっすらと残る隈と私ではない何処か下の方を見つめる瞳が気弱で人畜無害な印象を上書きしていった。


「嗚呼、なる程。わかりました。すみません、ありがとうございました」


 声の主が深々と頭を下げた。途端に数束の短い毛がぴょこぴょこと現れては揺れた。

 ──うしろの方、凄い跳ねてる……。


「あ……はい」

「すみません、では失礼します」


 早々に去っていく背中を私は何気なく見送った。

 その姿勢はとても美しく、まさに私のイメージするエリートサラリーマンそのものだ。それなのにここからでもわかる位置にある階段に向かうだけの間にもきょろきょろとしきりに首を動かしている。


「……ふふっ」


 そんな様子を見ていると自然と笑みが溢れた。

 やがて彼の姿が見えなくなり私も帰ろうと一歩を踏み出した瞬間、ドタンッという物凄い音が階段の方からした。

 ──まさか。

 気が付けば私は階段の方へ駆け出していた。そして、案の定、盛大に転んでいる彼を見つけた。

 大丈夫ですかと駆け寄ると彼は先程よりも小さい声で何度もすみませんと謝った。


「大丈夫です、すみません」


 そう言う彼のスーツをよく見ると皺まみれで更にはズボンの裾からいくつも糸が飛び出している始末だった。


 「本当に、大丈夫なんで」 スクっと立ち上がり颯爽と左へ歩いていく。

「あっ、そこ左じゃなくて右です」

「えっ、あ、本当だ。すみません、ありがとうございます」


 ……ゴンッ!


「大丈夫ですか!?」


 自動ドアを通ろうとして扉部分ではないガラスに顔面を強打した彼に私はとうとういたたまらなくなってきた。


「あっ、鼻血」

「すみません、すみません」

「あの、これ」


 最早何に謝ってるのかわからない彼にハンカチを差し出した。


「これ、使ってください」

「え、でも」

「良いから!」


 渋る彼に私は半ば無理矢理ハンカチを押しつけた。

 何だかどうしようもなく彼のことが放っておけないのだ。


「すみません……」


 ハンカチを受け取って貰った時にようやく彼と目が合った。

 端正な顔が子犬の様な瞳でこちらを見つめてくる。それだけで心拍数が上がりつつあったのに。


「……ありがとうございます」


 ──初めて見た彼の微笑みで心臓が止まったのを自覚した。

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