やがて私も大人となる テーマ「サメ」

小学校低学年の遠足で水族館に連れて行ってもらった時のことを鮮明に思い出していた。

当時幼かった私達を連れて先生達は地元にある大きな水族館へと案内した。終始集団でまわっていたものだから好きなようには見れなかったが、それでも私を含めた大勢が楽しんだものだ。

出席番号で配列された二列の中で、彼女は隣にいた。静かに満喫する私とは違って彼女は周囲の友人達と楽しそうにはしゃいでいた。

こんな正反対な私達は当然のことながら殆ど話したことがなかった。男女の性差がまだ少ない歳ではあったものの、それでも交流は疎か共通の友人さえいなかった。そんな彼女との関わりを与えてくれたのだから神様って奴は案外良い奴なのかも知れない。

熱帯魚の展示スペースを通り過ぎサメの展示スペースへと入る最中だった。

誰かが私の袖を握ったのだ。その犯人は勿論、彼女である。急なことに驚き隣を見ると先程とは打って変わって俯いて必死に耐える彼女の姿があった。

突然のことに困ってしまい辺りをキョロキョロと見渡す。サメを間近で見るのが初めてだったのか、周囲の友人達は水槽に夢中で誰ひとり彼女の様子に気付いていないようだ。

暗い館内、妖しく照らされたライトの中を泳ぐ無数のサメに君は怯えていた。そして無意識にたまたま近くにいた私の袖を掴んだのだろうと今では理解しているが、幼き日の私では到底理解出来ず、ひたすらに困惑の中から何かを探していた。

こうして考えあぐねた末見つけたひとつを実行すべく私は小さく口を開いた。

「だ、大丈夫。怖くないよ」

「人を食べたりするのはホオジロザメくらいで、他のサメは臆病なんだって」

テレビで絵本で知り得た知識を拙い言葉で一生懸命に伝えた。周りに聞かれぬよう正面を向きながらぼそぼそと喋ったので彼女が聞いてくれてるのかわからない。それでも私は自分が知り得る範囲でいかにサメが怖くない生き物なのかを説いた。

「そ、それにここにいるサメ達は飼育員さんに沢山ご飯を貰ってるから絶対に襲ってこないよ。周りに沢山魚が泳いでるけど、みんな仲良くしてるよ」

「だから、怖くないよ」 ここまで力説して、ようやく私はチラリと彼女の様子を窺った。

彼女は何度も何度も頷いていた。顔を上げることも手を離すことも結局展示スペースを抜けるまではしなかったがそれでも自分は全力を尽くせたのだと安堵の息を吐いたのだった。

──たったこれだけの、微細な記憶を、十五年経った今でも私はよく覚えている。

あの後なんやかんやあり今では彼女は私の妻……なんてことはなく、仲良くなったわけでもなければ特別話す機会が増えたということもなかった。

ただひとつ、あのサメの展示スペースを抜け彼女が手を離した瞬間。あの時確かに彼女は私の手に触れた。その理由だけが私の中にずっと残っていた。

そしてつい先程、何の偶然かSNSで彼女を見つけたのだ。久し振りに見た彼女はあの頃の面影を残しながらも更に美しくなっていた。それでもあの楽しげな雰囲気は今でも色褪せていないようで、最近流行りのホオジロザメのぬいぐるみを抱えて笑う写真をあげていた。

最近出来た恋人に買って貰ったようだった。

「そうか……そうか」

ひとりで勝手に納得し、呟く。

とうとう聞けず終いとなってしまった。けれど彼女はサメへの恐怖を克服した。──それで充分だ、それで充分だろう?

そう自分に言い聞かせながら、そっとSNSのアプリを閉じ大切な思い出に蓋をした。

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