神護寺
おばちゃんと二人、どれだけの間、バスに揺られていただろう。とうとう二人っきりになった。
「かわら投げ?」
「そう。素焼きのこれくらいのお皿を投げて、厄除けするのよ」
さっきよりも声を大きくして、話を続けた。おばちゃんは人差し指と親指で円を象って、笑いながら楽しげに返してくれる。
神護寺は高雄山の中腹にあるお寺で、ここまで来るのにそれなりの時間を要した。それでも話が途切れることなく、お互いの近況から始まった談笑はおばちゃんの神護寺の思い出に発展していた。
おばちゃんの言った通り神護寺は、バスの終点で降りてから少し歩いたところにあった。おばちゃんに連れられ、本堂の参拝を終えると、私たちは本日の目的であるかわら投げの場所を探した。「確かこっちやったと思うわ」と言うあやふやな案内のもと、私たちは境内の奥に進む。
山奥だからか参拝客が少なく、今日は静かやねとおばちゃんは呟いた。
「こっちじゃないですか? ほら、柵に垂れ幕がかかってますよ」
「そうそう、ああいうところやったわ」
私は隣の山を臨む山際の柵に、少し黄ばんだ「かわらけ投げ」と書かれた垂れ幕を見つけた。深緑と澄んだ蒼の風景に、足が浮わつく。高揚する気持ちとは裏腹、その素晴らしさに圧倒されてもいた。
「お皿、どこにあるんでしょう?」
気持ちをまぎらわせるように、おばちゃんを振り返る。
「たしか、近くの売店に売ってたと思うやけど。あそこの売店、行ってみて良い?」
辺りを見回したあと、おばちゃんは境内でよく見かける売店を見つけて指し示した。
「はい、もちろん」
満面の笑顔で返して、おばちゃんの後ろをついていく。売店の前の長机には、見慣れない小皿が並んでいた。私が小皿を前に首を傾げていると、おばちゃんは店先から「すいません」とお店の人を呼んだ。
「これを投げるんよ」
「本当にお皿なんですね。これ、割れるんですか?」
「投げるからね。割れるのよ」
おばちゃんは手を上下に振って、嬉しそうに教えてくれる。
「いらっしゃい。お皿? 一組二枚百円」
お皿を見ていたらいつの間にか、売店のおばちゃんが来ていた。お辞儀で返事をして、おばちゃんに二つでいいか尋ねた。おばちゃんは頷きで返してくれる。
「じゃあ、二組ください」
「じゃあ、二百円やね。お皿は好きなの取ってエエよ」
指を二本立てる。売店のおばちゃんは二百円を受けとると、店の中に入っていった。私たちは並べられたお皿を眺めて、それぞれ好きなお皿を手にした。どれも同じ「厄除」の二文字が圧された素焼きのお皿だったのに、時間をかけて選んだことを、私たちは笑いあった。
「やったことはあるん?」
戻ってきたお店のおばちゃんが、笑顔でこちらを見ていた。
「いや、私は初めてで」
「私はやったことがあるんです。でも、何年も前で。山に向かって投げるんですよね?」
おばちゃんの問いかけに、お店のおばちゃんは嬉しそうに声を上げた。
「そうなんよ。良かったら、レクチャーしてあげようか? 今、お客さんおらんしね」
「良いんですか?」
お店のおばちゃんの申し出に、肩が跳ね上がる。隣では、おばちゃんが目を見開いていた。
「今日は、ほら、天気悪いから。そもそもお客さん少ないんよ」
「お願いします」
「ちょっと待っててね。お皿持ってくるわ」
再度店の中に戻っていったお店のおばちゃんの背中に、「前はこんなことなかったわ」とおばちゃんは呟いた。「ツいてましたね」と微笑むと、おばちゃんも「ほんとね」と嬉しそうだった。
戻ってきたお店のおばちゃんは、「ほな、行こか」と柵の元まで連れていってくれた。先程取ってきたと思われるお皿をお店のおばちゃんは、翳した。
「これね、ほら、欠けてるでしょ? やからね、たまにこうやってレクチャーするときに使ってるのよ。ほら、練習用に一枚使い」
差し出されたお皿に、ギョッとした。
「良いんですか?」
「特別やで」
「ありがとうございます」
有り難く頂戴して、右手に収まったそのお皿を眺めた。端が欠けていて売り物にならないものなのに、この瞬間、私にとってこの1枚が、特別に感じられた。
「いい? こうやって人差し指と親指で持ってね。飛び石って知ってる? あれを投げるときみたいにね、投げるんよ。あの山、錦雲峡っていうんやけどね、そこに向かって投げるといいんよ」
柵の前に着くと、すぐにお店のおばちゃんによるレクチャーは始まった。
私には、お店のおばちゃんの指す錦雲峡が遠くに感じられてならない。
「届くんですか?」
「滅多におらんけど、届く人は届いてるよ」
そう言って、お店のおばちゃんはやって見せてくれる。目が悪すぎて途中でお皿を見失ってしまったが、確かに、向こう岸まで届きそうなほど遠くに飛んでいった。思わず、感嘆の息を漏らす。
「ほら、遠くまで飛んだやろ? やってみ」
得意気に笑うお店のおばちゃんにつられるように、ふつふつと私の中に出来る気持ちが沸き上がってきた。おばちゃんに先に飛ばしますと断りを入れると、思いきって小皿を投げてみる。
見送る間もなく、お皿は下降した。手も届きそうな距離で着地した。
落ち込む私に、お店のおばちゃんは笑って励ましてくれる。
「そうやね、あそこの谷間にある木、分かる? あれを目指して飛ばしてみ? 手首のスナップきかせてな! はい、もう一枚あげるわ」
「え? ありがとうございます」
「これで最後やで。もう、手持ちないからな」
お店のおばちゃんの優しさに、泣いてしまいそうだ。そんな私の横で投げたおばちゃんのお皿は、谷間まで届かないまでも私なんかよりずっと遠くに飛んでいった。それでも「あらま」なんて残念そうな声がこぼれていた。
「私なんかより、全然飛んでますよ」
「私はほら、前にもやってるから」
おばちゃんにも励まされ、私は意気消沈しそうになった気持ちを奮い立たせる。
「飛ばします!」
意気込む私に、二人のおばちゃんが頑張れと鼓舞してくれた。
フォームを見直して、息をつく。錦雲峡を見つめて、投げる!
するとお皿は、最初のお皿を超えて、ぐんぐんと向こうの方まで飛んでいった。やっぱり途中で見失ったけど、遠くまで飛んでいったのは明らかだった。
「ほら、よう飛んだ」
お店のおばちゃんの声に、それを確信する。
「はい! ありがとうございます!」
思わず声が大きくなって、青空に響いた。それすらも嬉しそうに笑って、お店のおばちゃんは良かったねと一緒に喜んでくれた。
「本番は向こうの山、目指して頑張りや」
「ありがとうごさいます」
お店のおばちゃんの背中を見送っていると、すぐそこでクルッとこちらを振り返った。
「お皿割れたら、厄除けになるからね」
「はいっ! ありがとうございます」
何度言っても足りないお礼の最後は、頭を下げて伝えた。
「バス来る前に、トイレに行っても良いですか?」
「うん、良いよ」
帰り道。バスを待つ時間に、駐車場にあるお手洗いに行った。女子トイレに一つだけあったお手洗いを、代わりばんこに入っていく。
「バス、来たわ」
洗面台の前に立つと、後ろでおばちゃんが呟いた。出発時間まで時間があることを確認して、私は蛇口を捻った。
「あの~」
水の冷たさに一息ついていたら、外から男性の声が聞こえた。
「はい?」
見やると、バスの運転手さんが身を縮めて立っていた。
「ここ、男子トイレです」
「えっ!?」
小さな空間に、私の声は響いた。
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