安井金比羅宮
白い短冊・形代を持って並ぶ。こんなに緊張するなんて思わなかった。
小さな穴を潜る人たちを見ながら、何度も間違えないようにとじっくり観察する。
潜って、帰ってくる。潜って、帰ってくる。
悪縁を切り良縁を結んでくれるその行いを、何人も見守る。私だけじゃない。列に並ぶ参拝客の多くの目が、たった一人を見ている。それがまた、私の緊張を増幅させた。
形代を所狭しと貼りつけられた巨石には、人々の怨念が張り巡らされていると言われている。おどろおどろしく語り継がれているその巨石は、実際に目にしてみると恐怖心を抱くようなものではなかった。だからといって、清々しいものでもなかったけれど。
今の私にとっては、羞恥を伴う難関だ。
来たいと言ったのは私だし、この縁切りをどうしても行いたいと言ったのも私だ。美枝の予定に合わせてでも、来たかった。来たかったけど、こんなに参拝客がいるなんて思わなかった。
みんな背中を向けてくれたらいいのに。なんて、都合のいいことを思ってしまう。列が進む度、心臓が早くなるのを感じながら、形代を握りつぶしてしまわないように気をつける。汗が染みてしまわないように。は、もう無理な話だった。
そっと視線を横へ移す。美枝はさっきまでの私と同じように、穴を潜っては戻ってくる参拝客を眺めていた。でもその視線に緊張感はなく、道行く人を流し見しているのと変わらなかった。
「良かったね。今日、スカートで来なくて」
「そうだね」
スカートの参拝客は実に不自由な状況で、巨石の穴を潜っていた。列に並ぶ参拝客の中には男性もいるから、余計に気になってしまうのだろう。
今度はおばちゃんが、スタート地点に立った。おばちゃんは腰を屈め、小さな穴の中に手を着いた。
表から裏へ通り抜けることで、悪縁を切り。
裏から表へ帰ってくることで、良縁を結ぶ。
安井金比羅宮の縁切り縁結び碑は、どれだけの人の願いを叶えてきたのだろうか。
「どっちが先行く?」
「へ?」
美枝の声に顔を上げる。気づけば、おばちゃんは瞬間移動でもしたかのようにさっきいた場所に立っていて、巨石に向かって一礼していた。そして、スタート地点が空いた。
「へ? あ? えっと」
「じゃあ、私、先行くね」
私が慌てふためいている間に、美枝がスタート地点に立った。
美枝は巨石に向かって一礼して、願い事を書いた形代を握って、手を付いた。ダメージジーンズが穴の中に消えていく。美枝が巨石の向こうに消えてから少しして、穴から茶髪が覗いた。手が伸びてきて、頭が出てきて、「いてっ」なんて声が聞こえて。グズグズと美枝が這いずり出てきた。そして美枝は、スタート地点に再び立つと一礼する。美枝はそのまま横にそれた。
私は、空いたスタート地点に立った。
深呼吸をして、一礼して、唾を呑みこむ。手のひらに巨石の冷たさを感じて、膝でその固さを感じた。穴は思ったより余裕があって、足を使わずに通り抜けることができた。心臓がこれでもかと言うほど脈打つなか立ち上がり、また深呼吸して、一礼する。そしてまた、穴の中に身を投じた。要領を得たのか、体はするりと通り抜けた。難関を達成した高揚感と、緊張から解放された安堵感で、自然と口角が上がる。
一礼で難関突破を締め括り、美枝の元へ小走りで向かった。
「どうだった?」
「うん! 良かった! 美枝は?」
「お尻当たった。お尻叩かれてるってことなのかな?」
美枝は表情を変えずに答えたが、右手を腰に添えていた。
私たちは形代を手に、巨石の後ろにあった長机に向かう。そこには形代の書き方と、参拝の仕方と、のりが用意されていた。列に並ぶ前にも、願い事を書くために訪れた場所だ。また二人横に並んで、今度はのりを手にする。願い事を書いたのがついさっきのことなのに、数時間は経ったような気分だった。
穴を潜っている参拝客の邪魔にならないように、穴から離れた場所で貼れそうな場所を探す。
「紙を貼ってから潜るのよ!」
「紙を貼ってからよ!」
背後から飛んできた声に、振り返る。おばさんグループが今から潜ろうとしている友達らしき参拝客に向かって、叫んでいるようだった。なのになんだか、こちらを睨んでいるように感じた。
私は手に持った形代を見つめて、ハッと気づいた。
私、潜ったあとだ! 口がパクパクと勝手に動き始める。
私は怠け者から卒業できず、いっぱしの女性になれないのだろうか。
「うわっ」
肩を小突かれて、思わず顔を上げる。
すぐ横で、美枝が巨石を見つめていた。
「持って潜るのが正解だから」
そう小声で言いながら、美枝は巨石に紙を貼った。そこには弱さから卒業して、人に優しくなりたいと書かれていた。
相変わらず、意識が高い。美枝らしいけど。
「うん」
美枝の言葉に心が晴れて、私はなんの迷いもなく、巨石に願い事を貼りつけることができた。横の形代には「元カレから卒業して新しいカレシと出会いたい」と書かれていた。
「あーあ、美枝が男の子だったら良かったのに」
社務所に向かいながら笑い合う。
「絶対に嫌」
美枝の半ば呆れた笑い声に、おばちゃんの刺すような視線は消えていった。
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