第三話

 叱ることは愛している証である。幼い頃、私が何か悪さをするたびに、母はそう言い聞かせた。

 将来同じ失敗を繰り返して取り返しのつかないことになってほしくない。悲しみや痛みはどうしたって避けられないが、せめてその数を少しでも減らしてあげたい。人さまに迷惑をかける前に、きちんと正してあげたい。すべての想いは愛しているがゆえ。だからこそ心を鬼にして叱るのだ、と。


 あるはずなのに見えない、扇風機の羽根。あるとき、私はその存在をどうにか確かめたくて、網の隙間からそっと指を差し込もうとした。

 すると母親が叫びながら駆け寄ってきて、私の腕を強引に引っ張った。間一髪のところで指は羽根に触れることなく取り出された。母に物凄い剣幕で叱られたのは、記憶がある中ではこのときが初めてだった。

 自分の体を大事にしなさいと涙ながらにうったえる母を見てもなお、そのときは自分がやろうとしたことの危険さや重大さを理解できてはいなかったが、母の涙だけは深く胸に刻み込まれた。それ以降、扇風機の羽根に指を向けることはしなくなった。




 夕日は水平線に沈み、空には星が輝き始めたが、私は相変わらず扇風機を見つめていた。テレビからはこのあと放送されるバラエティー番組のコマーシャルが聞こえてくる。実家にいたころ、父親が毎週この番組を見てゲラゲラ笑いながら「最近のテレビはつまらない」と吐き捨てていたことをふと思い出した。私はそれがとてもイヤだった。

 

 人工的に作り出された風を顔に受け、かつて猛烈な勢いで私のなかを支配した衝動が再び沸き起こった。

 私はもう、ホコリまみれの網の向こうに湾曲したプラスチック板が三枚連なっていることを知っている。その絶妙な曲線が周囲の空気を巻き込んで後ろから前へと風を生み出していることを知っている。私の目はもう、見えないものを脳で補って捉えてしまう。


 ジッと回転の軸を見つめる。吸い込まれるような感覚。私は何も考えずそれに身をゆだねようと決めた。

 意識は徐々に研ぎ澄まされいき、視界が点になる。その刹那、風を受けて乾ききった目に潤いを与えようとまぶたがスッと閉じ、そしてまた開いた。一瞬のまたたきが時間を切り取った。一筋の川の流れから切り出された映像には、静止した三枚の羽根がくっきりと映し出されていた。

 私はひどく落胆した。こんなものかと失望した。引力を失った薄汚れた機械から一気に強烈な風が吹き込んでくる。それでもまだ、視線の先は回転の軸へと向かっている。私は何度でも時間を切り取った。


 そんなことを反復しておこなううちに、意識が遠くに追いやられたような感覚に陥った。目に映るものはすべて単調な線画で、機能も意味も内包しない。

 押しなべて押しなべて平坦になった画面の中で、扇風機の網だったものが浮かび上がる。ある一点に向かって等間隔に配置され放射状に伸びるその線が、私にはとても美しく見えた。線と線の隙間が嫣然として映った。

 温かみを持たない幾何学的な美に、私はそっと安堵のため息をこぼす。


 それから私は、淫恣な所作で手招きをする美しい女の誘惑を見た。

 気付くと右手の人差し指はすらりと伸び、網へとまっすぐに向けられていた。腕だけを動かし、ゆっくりと指を前に差し出す。かすかに指先が震えている。

 網に触れる。金属の冷たさが背筋に伝わり、それと同時に額の汗が流れ落ちた。私は今、ヌラヌラと漂う甘美な香りと鼻を衝くような恐怖に鼻腔をくすぐらせている。

 突然セミがけたたましく泣いた。それはきっと断末魔だ。

 それとともに指先の震えが止まった。夢遊を克服した人差し指にグッと力を込め、一気に前に突き出した。


 ……しかし、骨ばった手はその場でわずかに揺れるばかりで、禁忌の内側に侵入することは叶わなかった。冷たい網が第一関節を捕まえて行く手を阻む。かつて簡単に入り込めた隙間は、時の流れの無慈悲を突き付けるかのように私の指を拒否したのだ。

 


 どれほどの時間が経っただろう。あるいはほんの数秒か。ふと、セミの声が止み、テレビから流れる天気予報の声が突然はっきりと耳に届いた。

 明日からの天気は下り坂らしい。

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扇風機 赤茄子 @tomato-spo

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