第二話

 幼い子どもは、目に映るもの全てに興味を示す。私も例に漏れずその性質を持ち合わせていた。

 手のひらに収まるサイズのものを見つけては、ひとしきり観察した後にとりあえず口に咥えてみる。本棚やら、テーブルやら、背が高くて上部を窺い知ることができないと無性にイライラし、未発達の筋肉を駆使して頂を目指そうと試みる。


 母親いわく、私が特に興味を示したのはキッチンらしい。母が夕飯の支度をしていると、いつのまにかその音に引き寄せられてやって来た私がジッと見つめてくるのだという。包丁を使っていることも、火を使っていることも、幼子の知ったことではない。好奇心のまま母親のもとを訪ね、調理の妨害をするのだ。

 結局その後、見かねた父がホームセンターで高さ一メートルほどの柵を買ってきて、調理の際は必ずその柵が設置されることとなった。


 母が夕飯を作っているあいだすっかり暇になってしまった私は、扇風機とにらめっこをするようになった。

 「にらめっこ」というのは決して比喩ではない。私は扇風機の頭が顔であると信じ、そこに表情を見出して”目を合わせて”いたのである。迫りくる強風に眼球の潤いを奪われながらも、その視線を決して逸らさなかった。

 一点を軸として高速で回る羽根は、人間の目では捉えることができない。それなのに、たしかに目の前で何かが回転している。それだけは分かる。現象の不可解さと釣り合いの取れない強い確信に私の心はフワフワとした。風はこちらに吹き付けてくるのに、回転の中心に向かって吸い込まれてしまいそうな気がした。


 見えるような見えないような、どっちつかずの感覚。引力と斥力がせめぎ合う空間。手持ちの語彙では持て余してしまう体験に心を奪われ、キッチンで鳴り響く雑多なメロディーは聴こえなくなっていた。




 セミの声で我に返った。太陽の傾きがだいぶ急になっている。ずいぶんと長いあいだ、物思いに耽っていたらしい。

 目の前で羽根を回しているのは、遠い記憶と同じ姿をした扇風機。大学進学を期に一人暮らしを始めたとき、実家から譲り受けたものだ。六畳間の隅々まで空気を循環させる。エアコンの冷気が苦手な私は二度の夏をこれ一台で乗り越え、たった今、三度目に突入した。


 羽根を覆う網は一年分のホコリをまとっている。回転したままでは視認できないが、恐らく羽根の表面も同様の状態であろう。一度解体してホコリを拭き取ってから使用することも考えたが、怠惰はいとも容易く理性をねじ伏せる。夕日に照らされたホコリがキラキラと輝いていて、悪くない気分だ。もちろん、こんなのはズボラを肯定するための言い訳でしかない。


 規則正しい回転運動を見ているうちに、私はゆっくりと口を開いていた。のどの奥に空気がぶつかり、急激に水分が失われていく。

「あー……」

小さな呻き声を扇風機の正面に向かって発した。この行為、誘惑に、誰も抗うことはできないだろう。が、しかし、乾いた口内は、扇風機の力で震わせられるだけの声量を生み出すことはできなかった。


 もう一度、今度は一度口を閉じてのどを潤してから、先ほどよりも大きな声でアーーッと叫んだ。ようやく想定していた現象が起こり、夕焼けに染められた部屋に滑稽なビブラートが響く。

 成功した途端、羞恥心が襲いかかってくる。わざとらしく咳払いをするも、この感情を取り去ることはできなかった。それが時間の経過とともにジットリとした空気に溶け出すまで、私は為す術もなく風を受けていた。

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