第160話 おめでとうなわけで

 自分が誰なのかも分からない。


 形も分からない。


 ここが何処なのかも分からない。周りには何もない。


 ただ存在していることと、独りぼっちで寂しいことだけは分かる。


 果てしなく広がっているように見えたその世界に、雪が落ちてきた。


 真っ白に光る雪は触れるとじんわり温かく溶けていく。


 降り積もる雪の大きさは沢山あって温かさも違う。ずっと降り注ぐ雪はやがて積もり始める。温かな雪に触れ自分に手があったことを思い出す。


 大きな雪が舞い降りてくると、それはすぐには溶けず話し掛けてくる。


 自分のことを知っているような口ぶりに聞き入る。


 そのうち、雪に声があることに気付き、自分に耳があったことを思い出す。


 沢山の雪が降り始め、一つ一つに声があることを知ってからはその声を聞くのが楽しみになる。


 その雪たちが必ず言う言葉


『心春』


 ああ、それが自分の名前なんだなって。そう理解してからは段々と自分の形を思い出す。


 ゆっくり、ゆっくりと自分の姿を思い出していく。


 ある日、大き雪が降りてきて話し掛けてくる。孫の結婚式を見たかったが叶わなかったと、だから代わりに見てくれないなかとお願いされる。

 お願いをききたいけど、どうしていいか分からず焦る自分を見て優しく語りかけその雪は弾ける。


 その雪の言葉は胸の奥に響き、自分に心があったことを思い出す。


 心を思い出したら、記憶も僅かに蘇って、おぼろげなら顔が思い浮かぶ。思い浮かんだらまた会いたいと、みんなに会いたいと願う。


 それからも雪は降り続け、それらの優しい声に包まれ、願いを受けつつ自らも願い続ける。


 最後は突然だった。頭に強い衝撃を受け、「いい加減に起きなきゃ遅れるよ」と声が聞こえる。目を開けたら眩しい光が目に飛び込んできて、自分の髪に髪留めをつけてくれる人がいた。



 ──それは、今このときと似ていて、



 大きな扉が開から、新たな世界が目の前に広がる。目の前にあるのは赤い絨毯の通路と左右に並ぶ木の椅子。


 中央にいる白いスーツのトラと、ウエディングドレス姿の彩葉が信じられないものを見たと大きく目を開く。この事態を理解し始めた母さんたち参列者が俺を見て驚き、涙を流し始める。


「トリャそこにいるでしゅ。わたちがそこに行かなきゃ意味ないでしゅ」


 涙を浮かべ俺に向かってこようとするトラを止めると、トラは泣きながら何度も大きく頷く。


 夕華の手を取り、体を支えてもらいながら不慣れな足取りでゆっくり歩みを進める。

 赤い絨毯の上を歩きながら、参列者を見る。


 数回見たことのある親戚のおじさん、おばさん。そして知らない沢山の人たち。


 なんだか偉そうな人が多いな……そういえば珠理亜が、トラはお医者さんになったんですわよ。とか言ってたっけ。


 俺を不思議そうに、そして困惑した表情で見ている。


 冷静に考えれば、突然肩を借りて歩く幼女が現れ、俺を見て泣いているわけだからそれも当然なわけだが、母さんたちと少し温度差があるのが微妙に気まずい。


 俺らが入ってきたときに流れていた、しっとりとしたBGMが突然止まり、祭壇の近くにあるピアノ軽快なリズムを刻み始める。

 突然始まる演奏だが、その演奏が奏でる艶やかな音に皆が注目し、明るいリズムはしんみりした空気を一転させる。


 ピアノの方に視線を移すと、演奏している笠置と目が合い、小さくウインクしてくる。


 笠置が結婚式に来てくれてるってことは、トラや彩葉と交流があるってことだろう。お互いにどんな関係でどんな会話をするのか。ピアノの演奏、凄く上手いけど今何をしているんだろう? 笠置の思い出と共に色んな事が聞きたくなって、そして俺の為にピアノを演奏してくれてることを感じて、嬉しくなってしまう。


 俺はまだ上手く動かせない右足に力を入れつつ、夕華に助けられ前に進む。


 祭壇で待つトラと彩葉のもとにたどり着くと、見上げ満面の笑顔を贈る。


 俺を見て涙を流すトラが何か言おうとするが、俺が先に声を掛ける。


「トリャ、いりょは。おめでとうでしゅ!」


 俺の言葉に続き夕華が「おめでとうございます!」と言いながら俺を手伝ってくれ、籠に入ってあったリングを二人に手渡す。


「今日の主役はお前でしゅ。はなちなら後でいくりゃでもしゅるから、今は幸せな姿を見せやがれでしゅ」


 また何か言おうとするトラを遮ると、トラも察してくれたようで大きく頷き、涙を拭うと笑顔で彩葉に手を差し伸べる。


「彩葉、いこう」


 彩葉の手を取り祭壇に向かうトラを見て、安心してしまいふらつく俺を、母さんが抱きかかえ席に連れて行ってくれる。


 母さんに強く抱きしめられて俺はトラの結婚式を見守る。

 緊張の糸が切れたのか、眠くなってうとうとすると母さんと隣に座っている夕華が不安そうに覗き込んでくる。


 それに笑顔で答えると、ほっとしたような表情をする。


 母さんたちの優しさに包まれ、目の前でみなに祝福されるトラを見て自分が今どこにいるのか自覚する。



 ──長い夢を見ていた。最初は寂しくて泣いていた。


 でも独りじゃないよって。こっちへ帰ってきて欲しいって呼ぶ声がする。


 それは一つじゃなくて沢山。


 その声で自分の形を、色を思い出し、そして何よりもみんなに会いたいと、帰りたいと願った。


 なんでここに俺が存在できているのかは分からない。


 でも今こうして、來実や珠理亜、楓凛さんとひなみがここに連れてきてくれ、母さんに抱かれながらトラと彩葉の結婚式を見れていること。


 今は胸がいっぱいで、それだけでよくて。


 トラの幸せそうな姿を見れ、彩葉の晴れ姿を見ることが出来て、ただただ幸せだなと、目の前の光景を忘れないように目に焼き付けるのだった。



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 次回、最終話


『心春な日々なわけで』

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