第159話 その子は春のように温かな心を持っているわけで
春の息吹が芽吹く頃、暖かな陽気と心地好い風に吹かれ葵は船を漕ぎ始める。
只でさえ眠そうな目が更に細くなり瞼が完全に閉じそうになったとき、騒がしい声と共にドアが勢いよく開く。
「お前は行った方がいいんじゃないか?」
「行けるわけありませんわ。一体全体どんな顔をして参加すればいいですの!」
資材を運んできた來実と言い合いをしながら入ってくる珠理亜である。
騒がしい二人を眠そうな目を擦りながら葵がボンヤリ見ている。
「葵さん寝てたでしょ? どうせ昨日も徹夜なんでしょう」
「ね、寝てなんかないです! 來実さん、お嬢様の前でそういうのやめてもらえます! 私のお給料なんかに響いたらどうするんです!」
葵が必死に首を振りながら否定する。時々チラチラと珠理亜を見て、エヘヘと愛想笑いを振り撒く。
「徹夜しても残業つきませんわよ。それならしっかり寝た方が得じゃありませんこと?」
「うぅ、でも夜のデータも欲しいですし、一肌恋しいときはこうやって一緒に添い寝もできますし」
「あんた何をやってんですか!」
心春に寄り添う葵は、そんな自分に呆れ非難の視線を送る來実と珠理亜を見て、その背中越しに見えるカレンダーが目に入る。
「そう言えば今日ってトラさんと彩葉さんの結婚式じゃなかったですっけ?
お二人は行かなくて良いんです? 呼ばれてないんですか?」
葵に悪気は全くない。普通に聞いただけだが、鋭い殺気を放ち睨む二人を見てやってしまったと口を手で押さえ「あわわわ」と震える。
「け、結婚式……あ、あこがれますよねーな~んてね。エヘヘヘ」
心の籠っていない言葉に二人の圧は強くなる。
「まあまあ、私だってもう三十後半で四捨五入したら四十。でも結婚しなくても人生楽しいですよ。結婚してたら徹夜で研究とかできませんし、ねっ?」
へへへと笑う葵に文句を言う気力も失った二人が大きなため息をつき、肩を落としてしまう。
「葵さん、あなたはもう少し物事を考えてから、発言なさるよう言われていますわよね」
「うぐぐっ」
珠理亜に責められ、葵は後退りしてしまう。
「珠理亜、それぐらいにしてやれよ。葵さんが頑張ってくれてるおかげで、心春の反応も大きくなってることも分かった訳だし、目覚める日も近いかもしれないだろ」
來実に言われ、珠理亜が小さくため息をついて肩をすくめる。
そんな三人のいる部屋のドアが勢いよく開くと、元気のいい声で入ってくるのはひなみ。
「買い出し終わったよぉ! って今は、結婚式の話で盛り上がってたとこかな?」
無駄に笑顔のひなみの後ろを、呆れた表情の楓凛が続き、きな子も続く。
「まったく、行かないって前から言ってますわ。ひなみさんこそ行かなくてよろしくて?」
「私? 私は心春ちゃんの傍にいるの! 将来を誓い合った仲なんだからとうぜんでしょ」
「もぅ、ひなみ。そんなこと言ってお付き合いを断るんだから。振られて先生落ち込んでたよ」
「好きでもない人と付き合わないでしょ。それよりぃ、楓凛の方こそ、あ・の・ひ・と・とはどうなっているのかなぁ?」
「あわわわっ!! 言わない何も言わない!」
手で大きくバツを作って、首を振って黙秘権を行使する楓凛に対する三人の目は冷たい。
「抜け駆けだ」
「抜け駆けですわね」
「間違いありません。抜け駆けです」
「抜け駆けです」
きな子にまで責められる楓凛が、根掘り葉掘り聞こうとする皆の攻撃を受ける。そんなやり取りの最中、ふと來実が心春に視線をやる。
ゆっくりと近づいて頭を撫でると、何か思い出したように自分の鞄のもとへ行き、ネコの髪留めを取り出す。
「初めて出会ったときに付けたんだっけ」
髪をといて、丁寧にネコの髪留めを心春に付ける。
「早く起きろよ。ネコも寂しがってるぞ」
目を細め優しく撫でながら來実が語り掛ける。
「トラと彩葉は今日結婚式だってよ。お前行ってやらなくて……あぁわりぃ。お前が一番行きたいよな……」
來実はそこまで言って、涙ぐんでしまった目を擦ろうと心春から手を引こうとしたとき、心春の枕元に眠っている、犬型アンドロイドのるるの体に手が引っかかりコロンと転がり、心春の頭とぶつかる。
こつんと小さな音がして、來実が慌ててるるを起こし、心春の頭を撫でる。
「悪かった。痛かったよな。って謝ってるだろ、手を離しても……」
自分で言っていて違和感に気が付く。來実の声で気が付いた珠理亜たちもそれは同じで、來実がゆっくり自分の右手に視線を移す。
視線の先にあったのは來実の右手を左手で掴み、右手で寝ぼけ
その姿に、ここにいる誰もが何かを言わないといけないと思いつつも、誰もが第一声を出すことが出来ず、ただただ心春を凝視する。
「ん、ん~? くりゅみ?」
心春はまだ開ききっていない瞼のまま來実を不思議そうに見つめる。焦点の合っていない眼でしばらく來実を見続ける。
「あ、ああ、ああ來実だが、大分時間が経ったから分からないか……な」
「時間? ん~」
アンドロイドなのに大きなあくびをする。その姿に一番感動しているのは葵である。
「す、すごいです!! ちょっと、なんですかこの子! 想像以上です!! 私、葵でーす! よろしくー!!」
來実を押しのけ心春の手を取って興奮気味に話し始める葵を見て、皆が我に返る。
「ちょっと、葵さん! それこそ抜け駆け!」
「こ、心春ちゃん!!」
「ちょっと楓凛も抜け駆け!」
「あれ? なんで舌足らずですの?? 変換機はもうないはずですわ??」
「今はどうでもいいだろ。葵さんに先越されるとは抜かった!」
蜂の巣を突っついたような騒ぎのお手本のような騒動が始まる。騒々しい様子に驚き目を大きく開く心春は皆を見つめる。
「葵?……なんとなく知ってる気がするでしゅ。夢の中で聞いた声……夢?? ふわっ!!」
心春が布団をはぐって立ち上がろうとするが、うまく立てず転びそうになるのを、みんなが慌て支える。
「ちょっとどうした? 手足のバランス調整やれてないから歩くのはまだ難しいから、急に動かしたらダメよ」
ひなみが慌てる心春を抱きかかえ、落ち着かせようとする。
「さっき、來実が結婚式って言ってたでしゅ。トラと彩葉の結婚式だって。行かないと、わたち約束したんでしゅ。見に行くって!」
バタバタする心春をひなみが必死に押える。
「分かったから、まずは落ち着く!」
ひなみの強めの口調に、心春も我に返り落ち着きを見せる。
「心春ちゃんはトラくんの結婚式に行きたいのね」
ひなみの言葉に心春が頷く。
「え、ひなみさん。心春ちゃんは一度精密検査してから……」
「それは正しいけど、今はこっちを優先させて。心春ちゃんが起きた理由が結婚式にあるなら行かせてあげないと」
ひなみの気迫に押され、葵は黙ってしまう。
ひなみが時計を見ると頷き、みんなの目を見ていくとみんなが頷く。
「式にはまだ間に合う。車で心春ちゃんを連れて行くから楓凛、珠理亜ちゃんと來実ちゃんで式場に向かって。私はきな子さんと心春ちゃんの服を調達してくる。葵さんは会社に連絡!」
ひなみの指示で皆が一斉に動く、心春は來実に抱えられ楓凛の車に押し込まれる。隣に座ろうとしたが、反対のドアから滑り込んできて座る珠理亜に阻止される。
「心春さん、わたくしがシートベルト付けて差し上げますわ。あら、來実さん、チャイルドシートを持って来て下さる?」
「珠理亜、お前なぁ」
「二人とも喧嘩しない! 今は急ぐ!」
楓凛に注意され、心春の隣に座ることを諦めた來実が家からチャイルドシートを持ってきて、心春を座らせると助手席に座る。
「心春さん、落ちつきましたかしら?」
後部座席に座る心春はまだ不安なのか固い表情で、目には涙を浮かべている。
そんな心春の手を珠理亜が優しく握ると、心春は潤んだ瞳を向ける。
「起きたばかりで不安なのですわね。何も心配しなくて良いですわ。わたくしたちがちゃんと心春さんを送り届けますわよ」
こくこくと必死に頷く心春に、珠理亜は微笑みながら優しく語りかける。
「落ち着いて聞いてくださいね。心春さんが眠って十年以上経ちましたの。わたくしたちも二十八歳になりましたのよ」
「私は三○だけどねー」と運転している楓凛が声を上げるが無視され、しくしく泣きながら運転を続ける。
「楓凛さん余計なこと言うからぁ」
「だってぇ~」
珠理亜から十年と言われて引きつった表情になった心春だが、楓凛と來実のやり取りを見て少し表情が和らぐ。
「何からお話しましょうか? やはり梅咲さんのことが聞きたいかしら?」
珠理亜の言葉に心春が頷くと、今日までの経緯を語り始める。トラを中心に進む話は途中から、來実、楓凛が入ってきて大きく脱線しながらも進む。
三人が必死に話す姿にいつしか、とても懐かしそうに、そして楽しそうに心春は聞いている。
「もうすぐで、着くよ!」
楓凛の声に心春は身を乗り出し、前方に見えてきたチャペルを見つめる。シートベルトを伸ばし覗く心春を珠理亜が支え落ちないようにする。着いた駐車場で楓凛が車を停めたとき、勢いよく入ってくるセダンが隣に停車するとひなみと、きな子が降りてくる。
「なんとか借りてこれた。心春ちゃん着替えるよ! きな子さん手伝って! 楓凛はメイク頼む!」
ほんのり淡いピンクのドレスを抱えたきな子がセダンの後部座席に連れてこられた、心春を手際よく着替えさせると、楓凛が心春にメイクを施していく。
「さて、まだ間に合うか。行くよ心春ちゃん!」
ひなみがドレス姿の心春を抱きかかえる。
心春は、きな子をはじめ、動かない四人に不安を宿した瞳を向ける。
來実が心春の髪留めを付け直し、額を突っつく。
「私らが行ったら迷惑だろ。後で話そうな。今はあいつのとこ行ってやれよ」
「早く行ってあげてくださいな」
「きっと驚くよ」
三人の言葉を受け、目に涙を溜めるが流すより先にひなみが走り始める。
「泣いちゃダメ。メイク落ちるし、泣くならトラくんのとこまでとっておきなさい」
ひなみに言われ、心春は必死に涙を流すまいと上を向いて耐える。
チャペルの隣にある建物に飛び込むと、ひなみが従業員に声を掛け事情を説明し案内される。
突然の訪問にも関わらず、ひなみの説明が的確だってのもあり驚くほどスムーズに案内される。
案内された先で、ちょうど控え室からスタッフの人に付き添われ出てきた少女と心春は目が合う。
「おっ、お姉ちゃん!? ……こはりゅ、お姉ちゃん……?」
目を丸くして手に持っていた籠を落としそうになる、ドレス姿の夕華は言葉が思いつかないのかただ口を開け心春を見つめる。
「夕華ちゃん説明は後! 今から夕華ちゃんの出番?」
口を開けたままの夕華が、慌てて口を閉めて頷く。
「よし、じゃあサプライズとしてはナイスタイミング。夕華ちゃん心春ちゃんをお願いできる? 心春ちゃんはまだ右手と右足が上手く動かせないから支えてあげて」
ひなみの言葉に自分が何をすべきかを悟った夕華が力強く頷く。
「分かりました! こはりゅお姉ちゃん、行きましょう」
夕華が伸ばす手を握たった心春はひなみの方を振り返る。
「ほら、早く。みんな待ってる」
チャペルへ向かう道を指さし、急かすひなみの言葉に心春は頷くと、夕華に支えられ歩き始める。
その姿を見送った後、ひなみはその場に力なく座り込む。
「良かった……本当に……」
大粒の涙をこぼしながら呟く。
* * *
「リングガールの登場です」
司会のアナウンスで、式場のスタッフによってチャペルの両開きの大きな扉が開かられる。外の逆光に照らされ立つリングガールの登場にみんなの視線が集まり、そして多くの人が目を見開き固まる。
光を背に白いドレスの女の子は二人。黒く長い髪の女の子に手を取り支えられる、もう一人の女の子は右の肘に籠を掛け落とさないように腕を曲げ支えている。
リングガールの登場に、本来なら起きるであろう会場から拍手も歓声も上がらない事態にスタッフたちが困惑してしまう。
──皆の視線が集まる。バージンロードの左右に並ぶ椅子にいる人たちの中にいる知っているような顔。
そしてチャペルの中央に立つ二人の男女と目が合う。
随分と変わったが見間違えるはずもない。
それはかつての自分。
今はトラと呼ばれる。
頭の中にかかっていた霧が晴れてくる。
夢の中を歩いていた感覚から徐々に目覚めてくる。地に足が付く感覚と共に自分がどこにいるか理解し始める。
隣を見ると、夕華が必死に俺を支えて、前へ前へ進もうとしている。
「夕華」
俺が声を掛けると、一生懸命な表情のまま顔を向ける。
「ただいまでしゅ」
「おかえりなさい、こはりゅお姉ちゃん」
満面の笑顔を見せると、前を向く。
「話したいこと沢山ありますけど、今はお兄ちゃんのところへ行きましょう」
彩葉の視線に合わせると、トラと彩葉が俺を見ている。
「そうでしゅね。夕華肩を借りるでしゅ」
「ええ、喜んで」
夕華の肩を借り、一歩づつ俺は前に進む。
かつての俺で今のトラに向かって。
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次回
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