第二話 今アタシは初めて縛り付けられている。自由に。
「わたしは偽物が嫌いなだけだから」
痴漢に遭っていたところを、彼女は助けてくれた。電車が止まったときの揺れで態勢を崩したフリをして痴漢に当たって。そいつが落とした鞄を拾い上げて、「落としましたよ」とか言いながら二人の間に体を滑り込ませてくれた。同じ制服だったから、友達だと思ったのだろう。痴漢はそそくさと車両を出て行った。
「ありがとう」
と言うと、彼女は先の言葉を発したのだ。
「その、偽物って?」
「痴漢って本物なのかしら?」
「よくわからないけど、そうではないような気がする」
「それが答え」
感覚的な話だけど、暗喩ちゃん的にはそれ以上の答えはないのだろう。
アタシが車両を降りたとき、彼女も一緒だった。同じ駅を使っているとは知らなかった。クラスメイトなのに。
でもこれはチャンスだ。アタシは厚かましいお願いをすることにした。
「これから毎日一緒に帰らない?」
「あら、どうして?」
「その、痴漢が怖くて。二人だったらされないかなって」
「大丈夫よ。二度と
「え?」
彼女はパッツンの前髪からつぶらな瞳を覗かせた。鮮やかな赤色の唇は端が吊り上がっている。
「痴漢の鞄のハンドルに漆を塗っておいたから。帰る頃には手がパンパンになって水膨れが出来るわ。これであなたの桃を触ることも出来ないでしょう?」
とてつもなく物騒なことを言っているけれど、あの痴漢に制裁を与えてくれたのだと思うと胸がスッとした。
アタシの安心した顔を見て、彼女の
「ねえあなた、このままだと偽物になってしまうわ」
「え? アタシが? どうして? さっきの痴漢みたいに?」
「痴漢にはならないけれど、本当のあなたは、もっと違うのよ」
今日初めて話した子だ。そんな子が、アタシのことを知ったような風に言っている。でも、どういうわけか、まったく不快な気持ちにはならなかった。それは初めて聞くアーティストの歌詞に妙に納得してしまうような感覚がピタリと当て
「アナタは何者なの?」
名前は知っていた。けれどもそうではなく、彼女の存在そのものを紹介してほしかった。
「わたしは、回りからは
彼女はアタシの希望通り、名前ではなく存在を教えてくれた。
「あだ名……じゃないんだよね。きっと」
「そうね。かと言って本名でもない。役目と言うか、宿命と言うか。自分の都合も聞かずに誰かが勝手に与えてくれた名前なんてものよりも大事なものよ」
「そんなに大事なことを、教えてくれたんだ。ありがとう。でもどうして? 痴漢に遭ってたから? 同情?」
暗喩ちゃんは腰まで伸びたボリュームのある黒髪をゆるりゆるりと振った。
「あなたは真実に到達しそうな気がするから。真実は自分で見つけ出さなければいけないけれど、その手助けくらいはした方が良いと思ったの」
暗喩ちゃんの言葉は難解だったけれど、それでもアタシを認めようとしてくれているようには感じて、それが嬉しかった。もしもアタシに役目や宿命があるのなら、この子の傍に居られるようなものであってほしいなと思った。
そのときに閃いた。彼女が暗喩なら、アタシは
「ねえ、暗喩ちゃん」
私が意思を口にする前に、彼女は微笑んで頷いてくれた。
「アタシ、
「成りたいと思った瞬間から、それは成りたい——本物の淵に手を掛けたと言うことなの」
どういうことだろう。クエスチョンマークを頭の上に載せながら、二人して改札を抜ける。電子マネーが吸い取られる。
アタシの家は左だ。けれども暗喩ちゃんは右に進む。ここでお別れか。
「さっきのって、もうアタシは直喩ってこと?」
「今は直喩ではないわ。けれども、願うこと。強く願うこと。それが真実であると信じること。わたしは誰かに暗喩と言われたからそのように振舞っているわけではないの。行なうべきと信じた行動の先にわたしを暗喩と呼ぶ人たちが居ただけ。だからわたしはあなたが直喩だから直喩らしく振舞いなさいなんて言わない。あなたが
またまた難解だ。
アタシはそれを知りたくなった。『本当』を知りたくなった。でも家に帰らなくちゃ。塾に行かなくちゃ。いけなかった。
諦めて踵を返す。彼女の背に背を向ける。
けれど、だけれども、足は一歩も動かないでいる。
どうして?
……ああ、ああ!
そうか。そうだ! 今アタシは初めて縛り付けられている。自由に。初めて迷っているんだ。今までアタシを動かしていたものの正体は、変わらない日常だ。繰り返される日常だ。つまりは不自由だ。そして、暗喩ちゃんに出会わなければ、あの痴漢さえも受け入れて、なんとか三年間我慢すればって気持ちになって学校に毎日行くことになるところだったんだ。それを止めてくれたのが暗喩ちゃん。あとから誰かが自分の意思に関係なく付けた名前ではなく、向かうべき先を知り、選んで行動をした結果に呼ばれた呼称を本物とする彼女が、アタシの偽りの中に飛び込んで来てくれたのだ。
世界がくるくる回る。コンコースの天井のLEDの灯りがチカチカとうるさい。
毎日がこんなにも息苦しくて、こんなにもつまらなかったのは、アタシが本物を生きようとしていなかったから。アタシが行きたい場所、生きたいときは、固定されたコンクリートみたいな安寧じゃない。走り出せば滑り出すような
——暗喩ちゃんの傍に居たい。
現実逃避? それはここが現実だと言い切れる人がやることだ。アタシが偽りだと思ったらそこはもう現実じゃあない。アタシはアタシを生きる。願う。今から本物になる。自由になるんだ。
すべてを理解した瞬間、パキッと言うなにかが割れる音が心の底から響いて、その音が反響しながらせり上がってきて——
「げぇええっぷ」
盛大なゲップを吐き出した。
ふふっ♪
笑っちゃうよね☆ こんなものだったんだよ。アタシが
くるっとターンを決めた。
暗喩ちゃん☆ 今すぐ行くらから待っててねー!
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