第79話 宣戦布告

 王の間への扉が閉められると、年輩の兵士がエレデに話しかけてきた。

「マドモアゼル。ぶしつけながら、一つお尋ねしたいのですが?」

 それを見ていた若い兵士が、ニヤニヤと笑いながら冷やかす。

「あれっ、先輩もしかしたらロリコンっスか?」

「バカを言うな。本当に尋ねたい事があるだけだ」

 エレデは、若い兵士を無視して、年輩の兵士に言った。

「私にお答えできる事でしたら何なりと」

「先程の背の高いメイドさんはどなたですかな? 実は私の知っている方に似ているもので」

 それは、エレデの想定内の質問だった。即興で組み立てた物語に沿って答える。

「私の母ですが、何か?」

「マドモアゼルのお母さん? ずいぶん若いお母さんですね?」

「母は以前、ある貴族のお屋敷で働いていましたが、そこの主人のお手付きになり、十代で私を産みました」

「そうですか……これは大変失礼しました。ご苦労なさったのでしょうね」

「革命が起きると、父親はすぐに屋敷を売り払い、財産を掻き集めて外国へ逃げました。私たち親子は棄てられたも同然ですが、こうしてお仕事を頂き、皆様にはとても感謝しています」

 エレデの作り話に、年輩の兵士は強く胸を打たれた様子だ。

「正しき者を、神様は見守って下さいます。諦めさえしなければ、必ず道は開けますよ」

 だが、若い兵士は納得できない様子だ。

「ちょっと待つっス。つまり、6フィート(約183センチ)近い高身長の、顔までよく似たドえらい美女が二人、偶然パリにいたって事スか? それこそ奇跡っスよ」

 妙なところで鋭いなと思いつつも、エレデは若い兵士を無視し続けて、年輩の兵士に言った。

「優しいお言葉をありがとうございます。ところで、その母に似た女性というのは?」

 どんなに無視されても意に介さない若い兵士が、また割り込んでくる。

「あ、それ、自分も気になるっス」

 年輩の兵士は、エレデに向かって言った。

「私がここに来る前にいた部隊の隊長です。『ベルサイユ常駐部隊』という所にいたのですが、隊長は私の命の恩人なのです」

「その人、聞いた事あるっスよ。確か、王妃の近衛隊あがりの女隊長。先輩、その隊長から助けられた事があるんスか?」

 年輩の兵士は、うるさそうに答えた。

「たから、そう言ってるだろ。バスティーユの戦いで、隊長は私を庇って銃弾を受けたんだ。その後乱戦になり、訳のわからない状態になった。知っての通り戦いには勝利するが、隊長は戻って来なかった……」

 エレデは、フランソワが着替える時に見えた、肩の銃創を思い出す。あれがこの兵士を庇った時にできた傷なのだろう。

「……死体すら見つからなかったが、あの戦いでは死体は踏みにじられ、地には挽き肉と化して累々と横たわっていた。あの肉片のどれかが隊長だったのだろう」

 若い兵士が顔をしかめた。

「どんな美人も、死んじまったら同じスね」

「お前は本当に一言多いな。私はな、心のどこかで期待しているんだよ。隊長がどこかで生き延びているんじゃないか、って」

 エレデは、年輩の兵士を騙している事に、胸がチクリと痛んだ。そして、いつかフランソワが生きている事を伝えられる日が来るのを望んだ。

「あの戦いでは、隊長の旦那さんも戦ったんだ。平民出身の旦那さんだったが……差別も暴力も無いあの世で、二人が幸せに暮らしていることを私は祈っている」

 年輩の兵士は、遠い目をして語った。



 国王ルイ十六世と王妃マリー・アントワネットの前で、フランソワは片膝をつき、頭を垂れた。

「国王殿下、王妃殿下。恥ずかしながら戻って参りました。お二人には、神の試練と呼ぶにはあまりにも過酷な運命が待ち構えております。今度こそ、この命にかえてお守り致します」

 アントワネットはフランソワに駆け寄り、その身体を抱き締めると涙を流した。

「おお、フランソワ……よくぞ戻って来てくれました。私は、私たちの命はどうなっても良いのです。王子の、シャルルの命だけは、どうか助けてください!」

 フランソワは驚いた。

 以前の気位の高さなど、もうどこにも無い。自分にすがって泣くこの儚げな女性が、あの王妃アントワネットなのだろうか?

 切なさに、フランソワはアントワネットを抱き締め返した。

「ええ、お守りしますとも。地の果てまでお供します。ご安心ください」

 ルイ十六世が、その巨体を揺らしながらフランソワに近付き、一言だけ声をかけた。

「フランソワよ……生きていてくれて、ありがとう」

 その言葉を聞き、フランソワの眼からは、涙がボタボタと流れ落ちた。


「サンドラ様の予言通りでした。お兄様が……ヨーゼフ二世(神聖ローマ皇帝、アントワネットの実兄)が崩御されたと連絡がありました。次は……ミラボーという訳ですね」

 アントワネットは落ち着きを取り戻したが、その顔色は死人のように白かった。

 サンドラは、そんなアントワネットの手を握りながら答える。

「辛い事ばかりをお伝えする事になり、申し訳ございませんが、仰る通りです」

 フランソワが尋ねた。

「ミラボーとは、まさか『革命の獅子』ミラボーの事ですか?」

 サンドラが答えるより早く、ルイ十六世が言った。

「そうだ。革命をここまで押し進めたミラボーだが、奴こそ今の流血が流血を呼ぶ現状を憂いておる。奴が真に目指すのは立憲君主制であり、これ以上血が流れる事を決して望んではおらんのだ」

「つまり、民衆に絶大な支持のある彼は、実は秘密裏に王室と繋がり、議会と王室の妥協点を模索していると」

「その通り。奴自身も伯爵であり、自分の出生を否定したくはなかろう。だが、ミラボーが死ねば、王室は立憲議会とのパイプを失い、我々を庇い立てする有力者は事実上いなくなる」

 自分の言葉で弱気になっていくルイ十六世に対し、サンドラは力強い眼差しで王を見た。

「ミラボー伯爵の病死は、確かに大きな痛手になります。彼無しでは、この国において憲法による王制の維持は不可能でしょう。ですが、王がご存命でさえすれば、暴走する議会への抑止となり、悲劇の連鎖を最小限に食い止める事が期待できます」

 フランソワがサンドラに尋ねた。

「病死……ミラボーの死因が病気なら、それを今から治す事はできないのですか?」

「龍馬、いやサン・ジェルマンが言うには、虫垂炎という内臓の病気だそうです。残念ながら、この時代の医学では治療法がありません」

 王と王妃、そしてフランソワは、悲痛な面持ちで頷くしかない。

「わたくしの知る歴史では、生き延びた宮廷貴族が緒外国へと逃げる中、国王陛下だけが責任を全うしようと国内に残ります。そして、動き出した時代は、お二人を徐々にギロチンへと追い詰める。今がまさにその段階です……」

 ルイ十六世は唇を硬く結び、アントワネットは神に祈る様に両手の指を組んだ。

「……そして、陛下がフランス脱出をようやく決断するのがミラボーの死後、復活祭のミサへ行こうとする馬車を多くの民衆に襲われてからです。ラファイエットは民衆を解散できず、国民衛兵はただ眺めているだけ。その時、初めて陛下は御身がいつ惨殺されてもおかしくない状況にあるのに気付くのですが……」

 サンドラは屈託のない笑顔をルイ十六世に向けた。

「……今世の陛下は、既に脱出の覚悟を決めていらっしゃる。これは、ヴァレンヌの街で捕縛されて失敗に終わるであろう脱出計画の結末を変えるのに十分な時間を私達に与えてくれます」

 ルイ十六世は、サンドラに問うた。

「姫よ。未練がましいが、最後にもう一度だけ聞かせてほしい。今もまだ、各地に王制を支持する者達がいる。余の決断で時間の余裕が出来たのならば、それを王室の立て直しには使えまいか?」

 だが、サンドラは首を横に振った。

「残念ながら陛下、バスティーユ襲撃が起きた時点で、その時期は過ぎております。既に、誰も暴走する民衆の感情を制御する事はできないのです。それは、民衆に紛れて暮らしてきたフランソワさんが一番肌身に感じているかと」

 フランソワも、現実を話す覚悟はできていた。

「国家財政の危機も、農作物の不作も、王妃殿下一人の責任ではありません。しかし、民衆はその責任の全てを王妃殿下に押し付ける事で憂さを晴らしています。既に、王妃殿下がオーストリアへ逃亡し、フランスへ攻め入るつもりだと書き立てる新聞もございます」

 アントワネットは、恐怖に唇を震わせる。

「なぜ……なぜ、ここまで憎まれねばならないのでしょう。私がかつての敵国の人間だからですか? 首飾りの事件(宝石商が高価な首飾りを、アントワネットに化けた詐欺師に奪われた事件。犯人は捕まり、アントワネットの潔白も証明されたが、スキャンダルの中心となった事で民衆からの支持は地に落ちた)に巻き込まれたからですか?」

 その問いに回答できる者はいなかった。これからも、運命に見放されたとしか言い様のない数奇さで不運は重なり、それはギロチンへと続くのだ。

 サンドラですら、こう答えるしかなかった。

「時代が……悪かったのです」

 しかし、そう言った後、サンドラは不敵な笑みを浮かべる。

「ですが、運命は変えられます。私自身、死ぬまで獄中に囚われる筈だった運命を力ずくで捻じ伏せ、ここまで参ったのです。さあ、わたくし達と一緒に、不条理な運命に宣戦布告致しましょう!」

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