第71話 マダム・タッソーの館

 坂本龍馬とサン・ジェルマンの魂を受け継ぐ青年、エリック・ロメールという心強い協力者を得たサンドラ一行だったが、それで一気に前途が開けたという訳ではなかった。

 当のエリック本人が、「歴史の大河は変えられない」と断言しているのだから当然だろう。

 何の策も無く駒を進めれば、ルイ一六世の行き着く先がギロチンであるのは明白だ。

 その最悪の結果を回避する選択肢を探り、それらの確率を考察する亊が当面の課題となる。

 だが、そこは希代の策略家、坂本龍馬の転生者である。プランは複数に渡って練られ、検討に検討を重ねていた。

 何しろ、失敗すればフランス国王一家が死刑になるだけではない。最悪の場合、アルフレッサ王国との戦争突入、もしくは国交断絶も考えられる。

 サンドラ一行も殺されるだけならまだしも、死してなお交渉の材料に使われる可能性が大である。慎重で越したことはなかった。



 そんなある日、バンナが訪ねてきた。

「ナタリーという少女、娼館と話がつきました。一六〇万です。普通、どんなに高くても八〇万、没落貴族出とかの訳ありでも一二〇万なんですけどね。依頼主の身元は伏せたいと言ったら、足元を見てきましたよ。最初は二〇〇万だと吹っかけてきまして、一六〇万まで値切るのが精一杯でした」

 だが、サンドラの驚きのベクトルは逆だった。

「少女の処女とは、そんなに安いものですの?」

「安いですか? 今のフランスでは、多くの庶民の年収がそれに満たない。それだけあれば、家族三、四人が一年間楽に食い繋げます。もちろん、サンドラ様のおっしゃりたい亊もわかりますが……お国のバザルというメイドさん、恐らく五百とか千とかのはした金で身を売っていた筈です」

「そうでしたわ……バンナさんの言う通りです」

 バザルの亊を思うと、サンドラの胸はチクリと痛んだ。

 鉄造が欲に目がくらんだせいで、バザルに変な期待を持たせてしまった。セバスチャンと上手く行っていれば良いが、遙かパリにいては確認のしようも無い。

「で、どうしますか? 普通にオークションに参加すれば、一〇〇万以下で落札できますよ」

「いえ、それで結構です。話を進めてください」

 サンドラの隣で、ルブランは複雑な表情で座っていた。



 そして、その日はやって来た。

 ルブランは、フランスの市民階級に一般的な、麻の白いシャツとトラウザーズと呼ばれるベージュの長ズボンという出で立ちになった。とにかく目立ちたくなかったからだ。

 それを、エッジとブレードはニヤニヤしながら見ている。

「良くお似合いですよ。まるでフランス人の様だ」

 エッジの言葉を、ルブランは無視した。

 エレデは、そんなルブランの姿に見とれている。

「ルブラン様、野性的でステキです!」

 アルフレッサを出てからというもの、エレデは四六時中女装している訳だが、外見だけでなく思考や感覚まで女性化しているようだ。

「ああ……どうもありがとう」

 実はルブランも満更ではなかった。身も心も軽くなった気がしていた。

「折角ですし、羽を伸ばしたらよくてよ」

 サンドラの言葉に、ルブランはどう応えるべきかわからず、気のない返事をした。

「はあ……では、行ってきます」


 ホテルを出ると、正面にバンナが呼んだ馬車が停まっていた。

 出て来たルブランを見て、バンナはギョッとする。

「ルブラン様、その格好……」

「変ですか?」

「その逆です。良くお似合いだ。今にもベルサイユ宮殿を襲撃に行きそうですね」

「ブラックショークは勘弁ですよ」

 二人が乗り込むと馬車は動きだした。

 ルブランは落ち着かずにソワソワしている。

「誰かと連れ立って娼館に行くなど初めてです。気恥ずかしいものですね」

「そうですか? 仲間と酔った勢いで行ったりのご経験は?」

「ありません。酒は少量をじっくり楽しみたいタチなので。娼館も欲求が限界になった時しか……」

「それが一番です。酒も女も、ヤリ過ぎはロクな亊がない。酒はアル中、女は梅毒になりますからね」

 やがて馬車は、同じ様な形の重厚な建物が並ぶ通りに出た。

 暗がりに目を凝らすと、立ちんぼの娼婦達が目ばかりギョロギョロとさせて男を待っているのが見えた。そんな下級娼婦目当ての労働者階級の男達は、通りをウロウロしながら品定めをしている。

「この辺りも、随分人が増えたのですね」

「仕事も物も無ければ、女は身体を売るしかない。仕事も物も無くても、男はなけなしの金で女を買う。現在のフランス経済における底辺の図式がここにあります」

「……」

「しかし、マダム・タッソーの店は違いますよ。店内は差し詰め小さな宮殿、美女がたむろしている有様は遠い国のハーレムの様です。革命だの何だのと君主制を否定しながら、財を成せば庶民も貴族的なものを好む。ブルジョアを見れば明らかです」

 馬車が停まると、建物の扉の前にいた二人の男の片方が飛んで来て、馬車の戸を開けた。

「いらっしゃいませ、バンナ様。良い夜ですな」

「やあ、今夜は世話になるよ」

 男は背はそれほど高くないが、肩の筋肉の盛り上がりが凄い。顔は傷だらけだが、前歯が無いので喋ると愛嬌がある。

 この娼館の用心棒なのだろう。油断の無い眼で、ルブランをギョロリと見た。

 その時、ルブランはようやく自分の迂闊さに気付いた。高級娼館で庶民の一般的な服装をしていれば、逆に目立ってしまうのだ。

「わかっていると思うが、そちらの方は見掛け通りの方ではないぞ。今日はお忍びなので、変装しているだけだ」

 バンナが言いながら小銭を渡すと、用心棒は前歯の無い歯をムキ出しにしてニヤリとした。

「もちろんでさぁ」

 もう一人の男が娼館の扉を開けた。この男も顔中キズだらけだ。前歯は有るが、左目が潰れている。

「こんばんは、バンナ様」

「やあ、元気そうだな」

 バンナは、その男にも小銭を渡した。

 娼館の内部はバンナが言った通り、宮殿をダウンサイジングしたかの様な造りになっていた。但し、酔っぱらった男女が何人もいて騒がしく、厳かさの欠片も無い。

 片隅で老人が見事なチェンバロの演奏をしていたが、聞いている者など誰もいなかった。

 ルブランが周囲を見回していると、紫色のゆったりとしたドレスを着た肥満の女性が、その体格からは予想できない程のスピードで歩いて来た。

「あらあら、バンナ様。よくお越しくださいました。実は少し心配してたのですわ。額が額ですし、ドタキャンされたのではないかと」

「ハハハ、少し遅れてしまったかな。今回に限ってそれは無いよ、マダム。こちらがそのお方だ。何度も同じ亊を言ってしまうが、詮索は無用で頼む」

「ご心配無く。手前共は、頂くモノさえ頂ければ、余計な詮索は一切致しませんので」

 この女性がマダム・タッソーなのだろう。太ってはいるが、目鼻立ちは整っている。若い頃は、相当な美人だったに違いない。その証拠に、ルブランに向けるその笑顔は、今でも十分にチャーミングだ。

「では、ここは忙しいので、静かなお部屋にご案内しますわ」

 マダム・タッソーを先頭に歩き出したが、ルブランは先程の老人が気になって振り返った。

 マダム・タッソーが不思議そうな顔をする。

「バルバトルがどうかなさいましたか?」

「バルバトル? まさか、クロード=ベニーニュ・バルバトル(フランスの音楽家、ノートルダム大聖堂のオルガニストやプロヴァンス伯(後のルイ一八世)付きの音楽家を務めるがフランス革命で全てを失い、貧困の内に亡くなった)?」

「まあ、ただの酔っぱらいジジイをよくご存じですのね。どんなに酔っていても、チェンバロだけは上手に弾くのでウチに置いていますの。やはり、音楽が有るのと無いのでは、、サロンとしての質が変わってきますでしょ」

 マダムが自分の娼館をサロン(当時のフランスで、上流階級の婦人が各界の名士を招いて開いた社交的な集まり。政治や芸術、哲学や科学について論じられた)と呼んだのは本気か冗談か、ルブランには測れなかったが、フランス革命がもたらした罪の一端を見た亊だけは確かだった。こうして、多くの芸術家の才能が潰されていくのだろう。

 しかし、ワインのボトルを前に、楽しげにチェンバロを弾いているバルバトルを見て、これも一つの幸せなのかもしれないとルブランは思った。


 ルブランとバンナは、二階の部屋に通された。そこは、数人の男達が女と酒を飲んでいるだけで、一階のように騒がしくない。

「ここはそもそも高級娼館ですけどね、この部屋は中でも特別な金持ちが来る所です。私もまだ、今回で二度目だ」

 バンナがウキウキしているのが伝わってくる。

 バーカウンターの周りには、美しく着飾った何人かの女が、お喋りしたり笑ったりしてくつろいでいた。

 ルブラン達が入って来ても、横目でチラッと見ただけで関心なさげだ。

 バンナがルブランに小声で言った。

「見てくださいよ、とんでもない美女揃いだ。どの女がいいかな」

「えっ? 彼女らも娼婦?」

 普通に育ちが良さそうな女達だったので、ルブランは娼館にいながら、女達が娼婦である亊に気付かなかったのだ。

 ルブランの声に、マダム・タッソーが答えた。

「この館には、娼婦以外の女性はおりませんの。まあ、私は現役とは言い難い状況ですけど……何かお飲みになります?」

「いつものを」

 バンナが言ったので、ルブランも考えずに言った。

「じゃあ、私もそれで」

「わかりましたわ。どのコに運ばせるかはお決まりで?」

 バーカウンターの方をもう一度見たバンナは、すぐに両手の平を上ける。

「お手上げだ。美人ばかりで決められない。マダムにまかせるよ。そのコの好きな酒も一緒に頼む」

 マダムはニッコリと笑う。

「バンナ様にピッタリのコを紹介しますわ。しばし、お待ちを」

 椅子に深く座り直したバンナは、服のシワを伸した。

「いやぁ、ご相伴にあずかれてラッキーですよ。まさか、またここに来れるとは。前回は、タダ同然で手に入れた東洋の古い石の像が、大変な高値で売れたんです。あそこの女達は一晩二〇万、そんな幸運でも無いと普通は来れません。ちなみに、一階の女達であれは一〇万です。それでも庶民には高嶺の花ですが」

 なるほど、二階の女性達は、少し前なら王族や貴族を相手にしていた高級娼婦の類なのだろう。今はブルジョワ相手に自分を切り売りしている訳だ。

 ルブランは、女達がここに流れ着くまでにも、様々なドラマがあったのだろうと思う。

 マタム・タッソーが、見事な金髪と驚くほど白い肌の美女を連れて来た。

「バンナ様、こちらはエヴァです。お気に召しまして?」

 美女はニッコリと微笑む。近くで見ると、圧倒される程の美しさだ。

 バンナは、緊張した面持ちでカクカクと頷く。そんなバンナを、意外とシャイなんだなとルブランは思った。

 美女は、自分も含めた四人の前に、同じ酒が注がれたグラスを置いた。

 バンナのお気に入りとは、ブランデーのことだったらしい。銘柄は分からないが、顔を近付けなくても果実の芳醇な香りが漂ってくる。上質な物に違いない。

 ルブランが香りを確認している間に、マダムはまるで水を飲むかの様に、一気にグラスを空にした。これには、ルブランも驚きを隠せない。

 ルブランの視線に気付いたマダムが話しかけてきた。

「大丈夫ですわ、お客様。ナタリーの支度は、間も無く終わりましてよ。正真正銘の処女で間違いございません。それどころか、弟以外の男と手すら繋いだ事のないウブな生娘です」

 マダムは、ルブランを処女好きの変態だと思っているようだ。それを否定できず視線を逸らしたルブランに、マダムはイヤラシイ笑顔を向けた。

「ウフフッ……まじめな方ほど、心の奥底には鬱積した欲望を秘めているものです。今夜、その欲望を思う存分解放なさってください」

 ルブランは、シドロモドロで言い訳する。

「いや、私はそんな欲望など……」

 だがマダムは、ルブランの言葉など無視して続けた。

「ですが、身体にキズが残るような事はお止めくださいね。当店の大事な商品ですので。それ以外のことでしたら、何をやっても結構ですから」

「何をやってもって……」

「そう、何をやっても。ナタリーには、敢えて男と女の事を何も教えていません。処女を買うお客様は、そう望まれる事が多いので。まだ誰も踏み入れていない雪の平原を、最初に踏み荒らすのはお客様ですから」

 マダムの笑顔を、ルブランは恐ろしいと思った。

 その時、バンナと金髪の美女が立ち上がる。

「すみませんが、お先に」

 そう告げるバンナの股間が、哀れなほど膨れ上がっている。

 遊び慣れているバンナをそこまでさせる高級娼婦の魔性の力……視線一つで男をソノ気にさせるとは誇張ではなく本当なんだなと、金髪の美女に手を引かれてフラフラと三階への階段を上がって行くバンナを見送りながらルブランは思った。

「お客様、ブランデーのおかわりは?」

「あ……ああ、お願いします。それと水も」

 マダムは、バーカウンターに向かって手を挙げる。

「チェイサーも一つ、お願いね!」

 酒を飲まないとやってられない。だが、緊張で口が乾いてしかたがない。ルブランはそんな状態だった。

 別の女が酒を運んできた。大きく利発的な眼が印象的な美女だ。

 酒と水をルブランの前に置くとき、その大きな眼でルブランの眼をのぞき込む。ルブランは股間が膨れ上がるのを感じ、自分もバンナと同類だと思った。

 マダム・タッソーは、再びブランデーを一口で飲み干した。そして、バーカウンターへと戻っていく美女の背中を指差して言った。

「へえ、お客様は、あのタイプもお好みですのね」

「えっ?」

「わかりますよ、十五の頃から男の欲望を目の当りにしてきましたから。男性のことは男性よりわかります」

 ルブランは気まずくなり、酒を一口、口に含む。上質のブランデーのまろやかな甘みと共に、高い度数のアルコールが喉を灼いた。

「あのコは、頭の良い娘ですよ。実は高い教育を受けています。ところが残念な事に、今のフランスには、頭の良い女が頭脳を武器に活躍できる場所が無い……」

 マダムは大きなタメ息を一つ付くと言葉を続けた。

「……この国がアルフレッサにようになれば良いのだけど」

 ルブランは驚いてマダムを見た。

「今、アルフレッサと?」

「お客様も聞いた事がなくて? かの国の次期王妃のこと。女ながらに国一番の剣の達人、子供の教育に熱心で罪人にも更生の機会を与える。芸術の才能がある者には援助を惜しまない。そんなお方が王妃となる国なら、女性も色んな方面で活躍できるでしょうね。一目お会いしたいわ」

 するとマダムは、おかしくて堪らないというように笑いだした。

「クスクス……娼婦風情が、そんな高貴なお方に会える筈もないけど……」

 ルブランの身元がバレたという訳ではないようだ。

「……まあ、これからも当館を、どうぞご贔屓になさってください。今宵の金額で、あのコとなら八回遊べますわ」

 返答に困っているルブランを残し、マダムは一階へと戻って行く。

 そして、入れ代わりに一人の少女がルブランの方へ歩いて来た。

 ジョージ・ロムニーの描く肖像画の様な美少女。

 美しくメイクが施され、ソバカスが隠されているが、ナタリーに間違いなかった。

 緊張からか、恐怖からか……いや、その両方だろう、顔色は蒼白で視点が定まらない。

「お……お待たせしました、お客様。ナタリーでございます。わたくしで良ければ、お部屋にご案内します」

 ルブランは、魔法に掛かった様にフラフラと立ち上がった。

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