第68話 奇跡

 次の日は天気が良く、過ごしやすい気温だったので、サンドラは皆の反対を押し切って御者の隣に座った。

 田舎道はのどかだが、決して整備されているとは言い難い。だが、馬車の振動が少ないのは、御者の腕がいいからだろう。

 気持ちの良い風が吹くたびに、老人と言って差し支えない年齢の御者の白いアゴヒゲがそよそよとなびいた。

「ええ、あの方の事を忘れる事は、決してございません。あの方は、私ら貧しい者の味方であり、誇りでした。私らの為に、命懸けで戦ってくださった。ご自分も貴族でありながらです。何よりも、女性の身で……あなた様を見ていると思い出します。あの方も、女性ながらに軍服がお似合いでしたから」

 サンドラはその日、久しぶりにグレンキャンベル宮殿近衛兵の制服に剣を携えていた。もちろん、サン・ジェルマンを名乗る者との、万が一の戦闘に備えてである。

「光栄ですわ。その方は、剣も強かったとか」

「はい、とっても強かったそうです。半分素人集団の国民衛兵団がバスティーユで勝利できたのも、その方の訓練のおかげだと言う者もおります」

 そのバスティーユでの事件が無ければ、マリー・アントワネットがチェイルリー宮殿に軟禁される事も無かっただろう。やがてそれは、ギロチン台へと繋がって行く。

 その男装の近衛士官とマリー・アントワネットの立場を越えた友情は、広く知られていたという。結果的にマリー・アントワネットの敵の立場となった時、男装の麗人の心中は如何なものであったのか、サンドラには知る由もなかった。

「見えてきました。あれが目的の教会でございます。日曜には少しばかり人も集まりますが、普段は誰もいません」

 サンドラは、少し緊張を覚えた。心臓の鼓動が早くなると同時に、水の中に沈み行くような感覚に襲われる。

 ――心配しなくても、必要な時にはちゃんと鉄造が出て来てくれるのね。

 サンドラは、そんな事を思いながら、深層へと沈んで行った。


「申し訳ございませんが、馬車で行けるのはここまでです。この小道を真っ直ぐ行くと、教会の正面に出ますので」

 老人が、サンドラが降りるのを手伝う為に御者席を降りようとしたので、鉄造が遮った。

「ご老人、どうかそのままに。一人で大丈夫だ」

 そして、地面から二メートルはある御者席から軽々と飛び降りた。

 御者は眼を丸くする。

「これは失礼しました。あの方に似ているのは外見だけでなく、身体の能力もなのですね」

 馬車から、エッジら四人が降りてきた。

 エッジがサンドラの眼を見たとき、エビの様に後方へと飛び跳ねた。

「鉄造様?」

「如何にも。エッジよ、久しぶりだな。そう怯えるでない。昔の事は拙者もサンドラから叱られて反省しているのだ」

 それでも怯えるエッジの前にルブランが立った。

「初めまして、鉄造様。ルブランと申します。今日はよろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしく頼む」

「しかし妙なものでございますな。サンドラ様と肉体は同じなのに別人とは。どこまでご存知なのですか?」

「記憶はサンドラと共有しておる。これまでの経緯は全て理解しているのでご心配なく」

 そのルブランの更に前にエレデが立った。

「鉄造様! お会いしとうございました。先日はアッという間に消えてしまわれたので」

「本当だな。私も会いたかったよ、エレデ。だが、近すぎる。少し離れてくれんか……」

 エレデの眼は、完全に恋する乙女の瞳である。

「……変な気持ちになって、後でサンドラに怒られるのは拙者なのでな」

 それでも前に出ようとするエレデを、ブレードが後から引き止めた。

「鉄造様が現れなければ、俺とエッジさんがサンドラ様に同行するつもりでしたが、必要なさそうですね」

「うむ。サン・ジェルマンを名乗る男は一人で来ているだろう。私が行くので、ブレード達は外を固めていてほしい。

「了解です」

「では行ってくる」

 鉄造は、教会に向けて歩きだした。


 本当に小さな教会だった。

 正面の手作り感満載の十字架が、良い味を出している。

 天窓からの光が、埃っぽい空間を照らしていた。

 そして、一番前の席で、サンドラやブレードと同世代と思われる青年が、教会に迷い込んだ一匹のリスに木の実を与えていた。

 後姿しか見えないが、天然パーマの長髪を後で結わえた髪型は、黒い色のせいか総髪(江戸後期に流行った髪型。頭の一部を剃る月代が無い)の様でもあり、鉄造は何となく坂本龍馬を思い出した。

 床に散らばったクルミの殻を鉄造が踏むと、パキッと乾いた音がする。

「こんなに散らかして、ちゃんと掃除はして行くのだろうな」

 鉄造の声に驚いたリスが、手にして木の実を口の頬袋に詰め込む。そしてジャンプして鉄造の肩に飛び乗ると、しばらく鉄造の匂いを嗅いでいたが、やがてどこかへ逃げて行った。

 リスに逃げられた青年が振り返って鉄造を見た時、その眼は驚きで丸くなる。

「ん? どうした、私の顔に何か付いているか?」

 鉄造からの問いにも、青年は視線を逸らさない。

「失礼、知人にあまりにも似ていたもので……いや、よく見ると、髪の色も眼の色も全然違うのに……」

 例の男装の士官の事だな、と鉄造は思う。

「お前がサン・ジェルマンか?」

「そう思って頂いて結構」

「随分あいまいな言い草だな」

「事情が複雑なんだ。それより、君がポリーヌ嬢とは、とても思えないのだが」

「当たり前だ。お前のような得体の知れない奴に、はいどうぞとすぐに本人を連れて来れるか」

「……それが返事か。仕方ない、残念だが諦めるよ」

 青年は立ち上がり、出口に向かって歩き出す。その潔さに鉄造は呆気に取られるが、慌てて青年の前に立ち塞がる。

「パリから何時間もかけて来たんだ。ハイさようなら、とは言えないぞ。事情を話してもらおうか」

 そして鉄造は、剣に右手をかける。

 だが、青年は落ち着いたままだ。

「止めた方がいい。俺だって、ここに手ぶらで来ている訳じゃない」

 ――なるほど、この落ち着きの理由は拳銃か。

 鉄造は思うが、青年を制する自信はあった。鉄造の抜刀は、常人の眼には捉えられない。青年が懐から拳銃と取り出すより、遥かに早い筈だ。

 鉄造の体勢が低くなる。東雲示現流居合いの構えだ。

 本来は抜刀と同時に足の付け根の大動脈を斬り上げる技だが、鉄造の計算では青年の喉元寸前で剣先がピタリと止まる筈だ。

 殺す気は無い。威嚇だ。

 そして、青年の右手が動いた瞬間、鉄造は剣を抜く。

 拳銃に手を伸ばす間も無く、青年の喉元に剣先をピタリ……のつもりだった。

 ところが、青年は剣一本分の長さほど後方に下がっている。鉄造が剣を抜くのは一瞬、その一瞬に移動できる人間を、鉄造はこの世界に来てまだ見た事が無かった。

 鉄造も驚いたが、青年も驚いている。

「その技……」

 青年は、瞬きもせず鉄造を見つめる。

 ――こ奴、ただ者ではない……ヤらねば、ヤられる!

 鉄造は心を切り替え、剣を両手で持った。そして、顔の右側で剣先を天に向けて高々と差し上げる。

 東雲示現流必殺の構え、トンボの構えだ。

 それを見た青年は、後退りしながら叫んだ。

「わー! ヤメじゃ! ヤメ! タンマじゃ!」

「見苦しい! 素直に斬られるが良い!」

「ちょ、ちょいと待つだけじゃ! その構え、まさか示現流かい?」

「えっ……」

 鉄造は、心底驚いた。

「……なぜ示現流を知っている? 時代も国も全く違うのに……」

 鉄造から殺気が失せた事を察し、青年は安堵する。

「ふう……殺されるか思うたわ。おまん、一つだけ教えてくれんか。『乾鉄造』ちゅう名に覚えは無いかの?」

 鉄造は、剣を差し上げたていた腕を下ろした。

「なぜ、その名を……」

「やはりのう……キレイなお嬢さんじゃが、中身は頑固オヤジちゅう訳じゃ」

「お前は……一体、何者?」

 青年はズカズカと鉄造に近付き、両肩を掴むと前後に揺さぶった。

「いい加減、気付けや、鉄造。ワシは坂本、『坂本龍馬』じゃ!」

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