第65話 ナタリー

「パリ最大の娼婦街であるサンドニ通りが、いつ頃造られた道かご存じですか? 何と一世紀にローマ帝国が造ったんです。この道を北へ進むと、文字通りサンドニ市のサンドニ大聖堂へと行き着きます。ここは、歴代の王が眠っている場所として有名なんですよ。この地名の由来は、パリでキリスト教を広めた聖ドニからきているのですが、聖ドニの最後は悲惨なものでした。モンマルトルの丘で首を切られるのですが、聖ドニは落ちた自分の生首を拾ってサンドニ市まで説教して歩いたと言われています」

 バンナという貿易商は、商人の多くがそうであるように話術に長けていた。サンドラも、バンナの話にグイグイ引き込まれる。

「自分の生首を持って歩いた? 何て凄まじい……」

 サンドラは、鳥肌の立った自分の二の腕を手の平で擦る。

「まさに、聖人が起こしたありがたい奇跡、という訳です。ところが、そんな霊験あらたかな通りに娼館が建ち並んでしまった。なぜか? それは、死してなお女を求める好色揃いの歴代の王の執念によるものだと言う者がおります。実際、ルイ一六世以外の歴代の王は、伝説として語り継がれるほどの好色ですから」

「ルイ一六世との面識はございますの?」

「いえ、直接には」

「あなたは現在のフランス国王をどう思いまして?」

「真面目な方だと思います。頭も良い。ですが、決断力が無い。これは致命的です。バクチも打てなければ、ハッタリもかませない。この時代でなければ、立派な王と呼ばれていたでしょうが……」

「ありがとう、参考になりましてよ。そうね、バンナさんは有能な商人でいらっしゃるようだわ。あなたとの取り引きは国益になるでしょう。アルフレッサに戻りましたら、ご希望の便宜をお約束しますわ。ただし、これから言う私のお願いが実現できたら、ですけど」

「私のできる事でしたら何なりと。貿易とは、相互のメリットがあって価値があるもの。貴国にとって有益な事は、このバンナがお約束致します」

「頼もしいわ。でも、私のお願いは交易に関する事ではなくて……バンナさんの、サンドニ通りでの顔の広さを見込んでのお願いなのです」

「はあ……」

「実はわたくし、マルシェにひいきにしている靴磨きの少年がいまして……」

 サンドラは、少年の家庭事情について語った。妹がいて、病気であること。その妹の治療のために、姉が娼館で働く事になったこと。

 そして、最初の客くらい、思いやりのある紳士であってほしいと願っていること。

「アルフレッサに私付きのメイドでバザルという者がいるのですが、貧しくて幼い頃から身体を売って生き延びてきたのですわ。客からボロ雑巾のように扱われ、死ぬ直前に宮殿の執事長に助けられたのです。祖国ではそういった不幸な子供達を救う取り組みをしているのですが、残念ながら外国までは手が回りませんの」

 バザルは眼を丸くして聞いた。

「そんな……失礼ながら、下級娼婦あがりが姫様のメイドを担当しているのですか?」

 ルブランはサンドラの後に立って二人の会話を聞きながら、まあ普通驚くよな、と思った。

「ええ。わたくしは、有能であれば過去は問いませんので……」

 それは鉄造の主義だったが、サンドラはさも自分の考えのように語る。

「……もちろん、家柄より能力を優先しますわ」

「なるほど、アルフレッサ王国繁栄の理由がわかった気がします。それで、私はいったい何をすれば?」

「ここにいるルブラン大使ですが、この通り背が高くてハンサムなのに、奥様も彼女もいませんの。そして、たまにコッソリ娼館に行って密かに楽しんでいるのですわ」

「ルブラン様でしたら、娼婦達にモテモテでしょうな」

 ルブランは、居心地悪そうに顔をシカメた。

「この大使を、そのお姉さんの初めての客にしたいのです。ですが、少女の処女は大変な競争率で莫大な金額になるとか。一国の大使が革命真っ直中のフランスまで国費を使ってわざわざ少女の処女を買いに来た、などという噂は立てたくありませんの……」

 サンドラは、テーブルの上のゴシップ紙を指差す。

「……それでなくても、この国では王族や貴族が目の敵にされ、小石でも山のごとく書き立てられますから」

「確かに、今や王族貴族叩きは庶民の娯楽ですからな。わかりました、身元を明かさずに、その少女を確実に買えるよう手配致しましょう。アルフレッサの王族関係者である事が知られたら、とんでもない金額がフッカケられるでしょうから、そこを上手く隠して交渉致します」

「恩に着ますわ、バンナさん。この借りは必ずお返しします。わたくし、受けた恩は何倍にもして返す主義でしてよ」



 次の日、バンナからの贈り物が届いた。

 既製品だが、サンドラの身体にピッタリのメイド服である。

 サンドラはそれがとても気に入り、鏡の前で何度も回転しながら自分を映した。

「どうかしら、エレデ。良く似合ってますでしょ?」

「はい、サンドラ様。とても良くお似合いです。だけど、バンナさんは凄いですね。見ただけでサンドラ様の体型がわかるなんて」

「あの人、かなりスケベだと思いますわ。では、早速出掛けましょう。ルブランさんを呼んでいらして」

「えっ、どちらへですか?」

「マルシェに決まっていますわ。靴磨きの少年に会いに行きますわよ」


 先日と同じ場所に少年はいた。

 客はおらず、暇そうに石を積み上げて遊んでいる。

 サンドラ達に気付くと、パッと顔が輝いた。

「アッ、メイドのお姉ちゃん達! こんにちわ。この前はありがとう」

「こんにちわ。今日は暇なのかしら?」

「うん、とっても……お客さんが来なくても市場に場所代は払わないといけないし、今日は赤字かな」

「まあ大変。でも、アナタは靴を磨くのが上手だから、今日は私達のご主人様を連れて来ましたの。少しは足しになりましてよ」

 サンドラが後に立っているルブランを見上げると、ルブランはキョトンとした顔をする。

「ん?」

 空気を読めないルブランの足を、サンドラが踏みつけた。

 ルブランは短く叫ぶ。

「ギャッ! ……そう、私がご主人様である。エヘン。君に靴を磨いてもらおうかな」

 少年は立ち上がって帽子を取った。

「はじめまして、ご主人様。偉い方の靴を磨くなんで、スゴク緊張します」

 それでも少年は、手際良くルブランの靴を磨きだした。

 真剣な表情で、額に汗を浮かべて懸命に靴を磨いている少年を見ていると、ルブランは父性らしき感情で胸がキュンと鳴った。

 靴が磨き終わり、ルブランが二コニー払っていると、少年に声をかける少女がいた。

「アラン……」

「あ! 姉ちゃん!」

 そこにいたのは、ソバカスが残る貧しい身なりの少女だった。しかし、ジョージ・ロムニーが描くエバ・ハミルトンの肖像画の様に美しいとルブランは思った。

「ご主人様、メイドのお姉ちゃん。紹介します、ボクの姉ちゃんです」

 警戒から少女の顔は緊張していたが、少年の言葉に安心したようだ。

「お客様でいらしたのですね。失礼致しました。先日、この子がお金持ちの方に暴力を受けるという事があったもので、気になって見に来た所でした」

 少年は、自慢げに姉に説明する。

「その時ボクを助けてくれたのが、こっちの髪の長いお姉ちゃんだよ。とっても強くて、ボクを蹴飛ばした男の人を片手てやっつけてくれたんだ!」

「まあ! こんなに綺麗なお方が、そんなにお強いなんて。弟を助けて頂き、本当にありがとうございます」

 サンドラは照れながら答えた。

「いえいえ、当然の事をしただけですわ。それと……」

 サンドラが眼で合図すると、エレデがパンパンに膨らんだ袋を差し出す。

「……妹さんが砂糖付きのパンがお好きと聞きましたので、ご主人様からの差し入れですわ。それと、近くのマダムが焼いているゴーフルとやらがとても美味しかったので、それも入っていますの」

「まあ、こんなに沢山……頂いてよろしいのですか?」

「もちろん。靴をキレイに磨いてくれたお礼だと、ご主人様は申しております……」

 ボーッと少女に見惚れていたルブランは、サンドラに肘でツツかれて我に戻る。

「あ……ああ、靴がキレイになったお礼です。受け取ってください」

 少女は両手の指を組み、祈るような姿勢になった。

「ありがとうございます。実は今、とても生活が苦しくて、本当に助かります。もうすぐ実入りの良い仕事に就けるのですが、それまでをどう乗り越えようかと悩んでいたところでした……」

 その実入りの良い仕事が娼館で身体を売る事であることをサンドラ達は知っていたが、まさか弟がその事をベラベラ喋っているとは少女も思っていないようだ。

 少女は、パンの入った袋をエレデから受け取る。

「……心よりお礼申し上げます。あの……」

 少女がルブランの名を知りたがっているのに返事をしないので、代わりにサンドラが答えた。

「ご主人様の名前はルブラン、アルフレッサ王国の大使ですわ」

「ルブラン様……大使様でいらしたのですね。私どもからすれば、遙か天上の方なのに、威張る事も見下す事もなさらずに……ルブラン様のような方がこの国に沢山いらしたら、今の混乱は無かったかもしれません……」

 それは、少女の本心のようだった。

「それで、あなたのお名前は?」

 サンドラの問いに、少女は真っ直ぐな瞳でサンドラを見た。

「ナタリーと申します」

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