第62話 帰ってきた侍

 子供の靴磨きを選んで、半額の一コニーで済ませる。それがその男のやり方だった。

 そもそも大人も子供も二コニーと同じプライスであること自体がおかしい、というの男の持論だ。それに、値切り交渉はマルシェの醍醐味ではないか。

 だから、その日も一コニーも貰えば喜びそうな一番貧しい身なりの子供を選んで靴を磨かせたのだが、それが失敗だった。もう一コニーよこせと食い下がってきたのだ。

 そのしつこさに男は怒り、子供を蹴り飛ばした。そしてツバを吐きかけて立ち去ろうとした瞬間、何かに後ろ足をすくわれて転倒してしまった。

 男は何が起こったのか理解できず、周囲を見回した。しかし、近くにはメイド服姿の美しい娘が立っているだけだ。

「まあ大変。大丈夫ですか?」

 娘が左手を差し伸ばしてきた。

「あ……ああ。大丈夫だが、いったい何が……」

 男が右手を伸ばし、娘の左手に掴まろうとすると、娘は男の手ではなく、手首を掴んだ。そして、腕力ではなく、身体の重心が前方に移動する反動のような妙な力で立たされる。

「えっ?」

 男が眼を丸くしていると、娘が笑顔で言った。

「今、男の子を蹴りましたね」

「はっ? 何を……グワッ!」

 娘に握られた手首に、折れたかのような激痛が走った。娘は特別な事をしている訳ではない。ただ、柔らかく握っているだけだ。なのに、激痛で身動きがとれない。

「アタタタタッ!」

 男は、立ち続ける事ができずに膝を折る。

 ブレードは、少年を助け起こしながら、悲鳴を上げ続ける男を見ていた。あの技には見覚えがある。敵の手首の両側にある痛点を、我の人差し指付け根部分でキメる技だ。あの技の痛さは知っている。

 ブレードは、男を可哀想に思った……少しだけだが思った。

 もとは敵に剣を抜かせない為に右手を拘束する技である、とサンドラに聞いた事がある。確かにこの技に掛かると、右手のみならず、痛みで全身の条件反射が停止してしまう。

 近衛兵は全員この技をサンドラから直々に学んだが、誰一人としてサンドラの様に使いこなす事はできなかった。「力を使うな。手首の気の流れを読みとれ」、そんなサンドラの言葉を思い出す。

 男の悲鳴が止んだ。サンドラが技を解いたのだ。

「このヤロウ! 何しやがる!」

 男は素早く立ち上がり、力ずくでサンドラに掴まれた腕を引き抜こうと振り回すが、サンドラの手は風に吹かれた柳のように強引な力を受け流して離れない。

 業を煮やした男が左手でサンドラを殴ろうとした瞬間、男は再び膝から崩れた。

「イタイ! イタイ! わかった! わかったから止めてくれ!」

 男は、弱々しく立ち上がる。

「……いったい、何をすればいいんだ?」

 涙目で、そうサンドラに尋ねた。

「一コニー、あの子に払いなさい。そして謝罪です」

 サンドラは笑っていたが、その眼に男は震え上がった。人を何人も、いや何十人も殺している人間の眼だと本能が直感する。

「わ、わかったよ……」

 サンドラは、ようやく男の手を離した。

 男は財布から一コニー硬貨を取り出すと、ブレードに起こされてエレデが泥を拭いていた少年の所へ行って渡した。そして、「蹴り飛ばしたりしてすまなかった」と言うと、逃げるようにその場を去った。

 少年は一コニーを握り締め、笑顔で男の後ろ姿に声をかける。

「まいどあり!」

 少年の無事を確認して、ブレードとエレデはサンドラに駆け寄った。

「侍の! 侍のサンドラ様ですね!」

 ブレードの悲鳴に近い声に振り返ったサンドラは、ペロッと舌を出す。

「ゴメンなさい。鉄造のヤツ、また戻っちゃったみたい」

「えええっ……」

 ブレードとエレデが、一気に落胆の表情になる。

「ですけど、わたくしの怒りが頂点に達する事で、鉄造と入れ替わる事がわかりましたわ。これは朗報でしてよ」

「まあ、確かに」

 少年が三人の前に来て帽子を取った。

「お姉ちゃんたち、助けてくれてありがとう。とっても嬉しかった。靴磨きでしかお礼できないけど、磨かせてよ。お代はいらないからさ」

 その清らかな笑顔に、サンドラは両手で眼を覆う。

「尊い……ええ、磨いて貰いますとも。でも、正規のお代は支払いますわ。一コニーの為に二コニー損をするのでは、話になりませんでしょ。エレデも磨いて貰いなさい。私たちの靴、馬のウンチまみれですわ」

 サンドラが勧められたイスに座ると、少年は大人顔負けの手際よさで靴を磨いていく。

「へえ、たいしたものです。二コニーの価値は十分にありますわ」

「ありがとう、お姉ちゃん。妹が病気なんだ。ボクがガンバんないと」

「まさかアナタ、ご両親はいないの?」

「母ちゃんは死んだよ。父ちゃんは知らない。でも、姉ちゃんがいるから」

「お姉さんは何を?」

「妹の看病している。でも、もうすぐ仕事で家を出るから、それからはボクが妹を看るんだ」

「家を空けるような仕事なの?」

「うん、パリで一番の娼館で働ける事になったんだ。姉ちゃん、凄くキレイなんだよ」

「娼館って……アナタ、そこで何をするか知ってて言ってるわけ?」

「知ってるさ。ボクだって、パリで一〇年生き抜いてきたんだ。子供じゃいられないよ」

「子供であるべきなのに……お姉さんは、やっぱり妹さんの治療費の為に?」

「うん。最初のお客さんからは、スゴク沢山お金が貰えるんだって。それで、お医者様に診てもらうんだ」

 処女の商品価値が高いのは、日本の吉原でも、アルフレッサの雌鳥通りでも、ここフランスのパリでも同じらしい。そんな少女に群がる男どもの姿が眼に浮かび、サンドラは吐き気がした。

「お姉さんは幾つ?」

「一六」

 バザルの顔が浮かぶ。追い詰められた少女が売るものは、身体しかないのだろうか。

 気が付くと、ブレードがサンドラの右手を上から押さえていた。無意識にサイフを取り出そうとしていたのだ。

 ブレードが耳元で囁く。

「サンドラ様、人目があります。ここで少年に大金を渡せば、害が及ぶのは少年です」

「わかっているわよ。二コニー渡すだけだから」

 だが、サンドラは六コニー出した。

「はい、これ。三人分ね。そっちの可愛いメイドさんと、こっちのゴッツイお兄さんの分も頼むわ」

 ブレードは、慌ててサンドラに訴える。

「いえ、サンドラ様。自分は別に……」

 しかし、サンドラの鋭い視線に睨まれ、ブレードは言葉を飲み込む。

 少年は、満面の笑みで六コニーを受け取った。

「わあ、ありがとう! 今日は大儲けだよ。妹に砂糖付きのパンを買ってあげられる。もう一人のお姉ちゃんも、お兄ちゃんも、心を込めて磨くからね」

 少年の屈託のない笑顔に、サンドラはとうとう両手を合わせた。

「尊い……」



 ゴロゴロと伝わってくる馬車の振動に、ウトウトとしてはハッと眼を覚ます事を、ルブランは先ほどから繰り返していた。

「昨日は眠れなかったのですか?」

 正面に座っていたエッジが聞いた。

「ええ……恥ずかしながら、エレデ君と同室だと、どうしても気になってしまい……」

「わかります。あの手の男の娘は、本当にやっかいですよね」

「男の娘……ですか?」

「ええ。サンドラ様がそう言っていました。ほら、セイラ王子もそうですから」

「なるほど、言い得て妙ですな」

 連隊長との交渉が順調に進んだ安心感もあった。連隊長も小隊長同様にラファイエットの派閥で王政派だったし、フランス国王への貢ぎ物と自身の借金の事を匂わすと、ほぼ全面的に二人の要望は通った。

 つまり、公にはならずに、内々で国王夫妻とサンドラを面会させるという事だ。公式な面会となると、今のフランスの情勢では却下される公算が高かった。連隊長の内密な手引きが、何としてでも必要だったのだ。

 それでも、エッジには心配事が一つあった。

「サンドラ様には、公爵令嬢である事をアピールする様なドレスで謁見して頂く訳にはいきませんね」

「そうですな……メイドにでも変装して頂くしか」

「ええ。しかし、気位の高いサンドラ様が、メイド服に袖を通してくださるかどうか……」

 その時である。

 馬車はメイド二人と剣士の三人連れの横を通った。

 ルブランが眼を丸くして言った。

「あのメイド……サンドラ様?」

 エッジも眼を丸くして答えた。

「……ですよね」

 慌てて馬車を止め、二人は降りた。

 すぐにサンドラ達がやって来る。

「あら、エッジとルブラン。いかがでした、チェイルリー宮殿は?」

 エッジとルブランは同時に言った。

「サンドラ様、そのメイド服は?」

「どう? 良く似合うでしょう。エレデのを借りましたのよ。マルシェで庶民の営みを視察してきましたの。二人も馬車ばかりでなく、足で歩かないと見えないものもありましてよ」

 エッジとルブランは顔を見合わした。そして、自分達の心配が杞憂であった事を笑った。

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