第58話 惨劇の舞台

 ベルサイユ宮殿の前に立ったサンドラ一行は、その巨大さと荘厳さに言葉を失った。

「これは……少なく見積もっても、グレンキャンベル宮殿の二倍はあるわ」

 サンドラが呟くと、ガイド役を買って出た国民衛兵隊の小隊長ランスは、まるで自分の屋敷であるがごとく宮殿の自慢を始めた。

「宮殿のファサード(建物の正面部分)だけで長さ四〇〇メートルあります。敷地の広さは一〇〇〇ヘクタール。フランスが世界の中心である事の証であると言っても過言ではないでしょう」

「なるほど。フランス語が全ヨーロッパ宮廷の公用語である事が文化的な中心の証であるのと同様に、ベルサイユ宮殿は構造物としてそれを実証しているという訳ですね」

 小隊長は、自慢の鼻髭の形を整えながら答えた。

「左様ですな」

「ですが、その世界の中心に賑わいが無いのはどうしてでしょう? せっかくの庭園には雑草が目立ちますし、噴水の水も止まっています。まさか、宮殿の維持管理の手抜きでは?」

「それは……」

 小隊長が言い訳をしようとした所に、エッジが畳みかける。

「それよりも、一国の次期王妃が訪れたというのに、要人の出迎えが一人もいないとはどういう事ですか? 片田舎にある小国のプリンセスなど、出迎える価値も無しという事でしょうか?」

「いえ、決して……」

 額に汗が吹き出した小隊長は、助け船を求めてルブランに視線を送るが、ルブランはさり気なく視線を逸らす。

「ほらエッジ、そんな事を言って小隊長様を困らせてはなりません。それよりも、私は今日、どのお部屋に泊まれるのかしら。早くルイ一六世陛下とマリー・アントワネット様にお目通りしたいわ」

 とうとう小隊長はポケットからハンカチを取り出し、冷や汗を吹き出した。

「あの、実はでございますが、国王一家は昨年の一〇月から住まいを移動しておりまして、現在はパリのチェイルリー宮殿においでです」

 エッジは、白々しいほど眼を見開いて怒りを演出する。

「何ですと! 我が国が、サンドラ様のベルサイユ訪問の為に、どれほどの額をフランス国民議会に送ったとお思いですか? 我々は、別にこの建物の見学がしたい訳ではない。サンドラ様が、王族としての礼儀作法や立ち振る舞いを身に付ける為に、わざわざこの地まで出向いたのです」

「は、はい、もちろん理解しております」

 いや、理解していなかった。

 今回のサンドラ来訪に関わったフランス側関係者の全員が、フランス宮廷文化の修得など唯の建前だろうと高を括っていた。

 第一王子との婚礼が整えば、王太子妃が国外へ出る事は二度と叶わなくなる。その前に最後の羽を伸ばすのが本当の目的であり、名所旧跡の類を適当に案内すれば十分と考えていたのだった。

 サンドラの眼から表情が消え失せ、それに小隊長は恐怖した。

「ルブラン。あなたは、ここにフランス国王一家がいない事を知っていたのですか?」

「はい、サンドラ様……知っておりました」

「知っていて隠した。そうですね?」

「……国民議会から、その件についてはお伝えしないよう指示があったと……そちらの小隊長殿から口止めされましたもので」

 ルブランの告白に、小隊長の背筋が伸びる。

 サンドラは、カクンと小首を傾げ、小さな声でルブランに言った。

「言い訳は聞きたくありません。隠していたのかどうか、私が知りたいのはそれだけです」

「ハッ! 申し訳ございません。隠しておりました……」

「……まあいいでしょう。あなたに名誉回復の機会を与えます。例の物は持っていますね?」

 ルブランは黙って懐から短剣を取り出した。そして、ゆっくりと地面に膝をつき、短剣を引き抜く。

 剣先を、自分の腹に向けた。

「あなたの最後は、このサンドラが見届けます。見事な最後であったと、親類縁者に伝える事を約束しましょう」

 小隊長の顔がヒキツった。

「ちょっ、ちょっと待ってください。冗談ですよね?」

 サンドラの眼には、相変わらず表情が無い。

「ああ、小隊長様。お願いがあります。ルブランが見事に短剣を自分の腹に突き刺したら、あまり苦しまずに済むように、横からルブランの首を切り落として頂けませんか?」

 小隊長の脳裏に、昨年一〇月六日の惨劇が蘇る。

 この宮殿を取り囲む何千人という貧しい女たち。パンをよこせと連呼する女たちを、国民衛兵隊はただ背後から眺めるしかなかった。

 やがて、興奮が絶頂に達した女たちは宮殿内になだれ込む。反撃する間も無く惨殺される近衛兵たち。

 槍が奪われ、その先には殺された近衛兵の切り取られた首が掲げられている。それを持って狂喜乱舞しているのは悪魔でも魔獣でもなく、普通の主婦たちだった。

 あの地獄絵図を小隊長は思い出したのだった。

「ヒッ……狂ってる」

 思わず口にした小隊長の言葉を、エッジはビシッとたしなめる。

「小隊長殿、言葉を謹んで頂きたい。これは『セップク』という、過ちを犯した騎士が、最後に自分の誇りを取り戻す為の作法です。東洋のジパンという国の風習でしたが、サンドラ様がアルフレッサ王国に採用なさったのです」

「そんな……死ぬほどの事では……」

 サンドラが小隊長を手招きした。

「小隊長様、どうぞルブランの横へ。どうか彼の名誉の死を見届けてください」

 ルブランは短剣を両手に、静かに眼を閉じていた。

「い、いや、サンドラ様、ちょっとお待ちください! ここでこんな事をされては困ります。確かに現在ベルサイユ宮殿に国王はおりませんが、ちゃんと面会できるよう話は進めておりますので……」

 真っ赤な嘘だが、今は苦し紛れの言い逃れでゴマカすしか小隊長に手段はなかった。

「……ですが、この国は今、大変な混乱の中にあります。国王は今、国民議会の監視下にあり、昔のようにハイそうですかと国賓として謁見できる状態ではありません」

 サンドラは、人が変わった様にニッコリと笑う。

「まあ! ルイ一六世陛下とお会いできる段取りは進んでいるのですね。良かったわ。ルブラン、短剣を仕舞いなさい。命拾いしたわね」

「ハッ」

 ルブランは立ち上がると短剣を鞘に戻し、涼しい顔をしている。

 こいつらマトモじゃないぞと、小隊長は心の中で警戒する。こんな所で一国の大使が自害すれば、外交上の大問題になるのは間違いない。その時、トカゲの尻尾の様に切り捨てられるのは自分だという確信が小隊長にはあった。

 サンドラは言葉を続ける。

「しかし、フランス国内がそこまで乱れているとなると、心配なのが貢ぎ物です。我が国は、それ相当の貢ぎ物を国王様と王妃様に送ったのですが、ちゃんとお手元に届いているのでしょうか?」

 小隊長の眼が泳いだ。

「そ、それは……連隊長に確認しておきますので……」

 その連隊長と小隊長がギャンブル仲間であり、二人とも少なくない額の借金を背負っている事はルブランの調査済みだった。もちろん、ルイ一六世への貢ぎ物を横流しして換金し、借金の返済に当てた事もである。

 全てを計算ずくで、サンドラは芝居を続けていた。

「よろしくお願いします、小隊長様。いずれにせよ、わたくしの陛下への謁見は非公式なものになるという事ですね」

「大変申し訳ございませんが……この国は今、悠長に晩餐会を開ける状況ではないのです」

「構いません。フランスの国王と王妃に直接お会いしたという事実が大切なのです」

 これでサンドラ達は、表立てずにフランス国王一家に会う確約が取れた。

 サンドラは、満足げに頷いた。



「夏草やつわものどもが夢のあと……」

 ホコリの積もった宮殿内を一通り巡って外の出た時、サンドラはこう呟いた。

 ルブランは不思議そうな顔をする。

「不思議な言葉でございますな。何かの呪文ですか?」

 それは、鉄造の記憶の中にあった短い詩だった。

「ジパンのバショウというポエット(詩人)の詩です。かつての繁栄も、やがて痕跡すら失われる儚さを詠っています」

「なるほど、この場所にピッタリの詩だ」

 小隊長は、余計な事をツッコまれるのが嫌なのか、さっきから喋りまくっている。

「……一〇月六日の早朝でした。鎌や斧を持った女達が宮殿内になだれ込み、近衛兵の首を一人、また一人と切り落としました。ヤツらの狙いは唯一つ、マリー・アントワネットの首だったのです……」

 ブレードとエレデは、息を飲んで小隊長の話を聞いている。

「……その時、国王一家の命を救ったのが我らが国民衛兵隊司令官、ラファイエット候でした。あの方の勇気が無ければ、国王一家の首も槍の上で踊っていた事でしょう。そのラファイエット候がルイ一六世とマリー・アントワネットをかばうように立ち、民衆をなだめたのがあのバルコニーです」

 小隊長は、今は誰もいないバルコニーを、まるで聖地であるかのように指し示した。ブレードとエレデは、興味深げにバルコニーを見上げる。

 一通りの説明が終わると、小隊長はサンドラに言った。

「サンドラ様。三〇分ほど歩いた所に、プチ・トリアノンがございます。ご覧になりますか?」

「プチ・トリアノン?」

「王妃が自分専用とした場所で、そこへは国王ですら簡単に立ち入れなかったそうです。結構見物ですよ」

 ルブランが補足する。

「ハリボテの農村です。畑があって牛も豚も飼われていましたが、そこで働いている農夫は役者でした。文字通り、農夫役を演じていたという訳です」

 サンドラは眼を丸くした。

「なぜ宮殿にそんなものを?」

 芝居じみた仕草でルブランは肩をすくめる。

「さあ。おそらく、豪華絢爛な宮廷生活にアキアキしていたのでしょうな。まあ、そんなに田舎暮らしに憧れるのなら、偽物を造るより、実際に農村を巡って庶民と触れ合うべきでした。そうしていたら、少なくとも一〇月六日の暴動は無かったでしょう」

 小隊長もルブランと同じ意見なのだろう。黙って頷いている。

 サンドラは、馬車の方に向かって歩き始めた。周りもサンドラに続く。

「プチ・トリアノン見学はやめておくわ。それより、陛下がいらっしゃるパリへ向かいましょう。忙しくなるでしょうから」

 そう言うと、小隊長に向かってニッコリと笑った。

「パリでもご助力をお願いしますね、ランスさん」

 小隊長はサンドラから名前で呼ばれ、鼻の下を長くしてニヤケた。

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