第56話 波乱の船出

 シルビアの顔が、見る見る青ざめた。

「そんなに怯えないで。私も昔の私じゃないわ。アイツに影響を受けたのは、シルビアさんだけではなくてよ」

 それを聞いて、シルビアの顔色が少し戻る。

「では、侍のサンドラ様は?」

「それが分からないの。アイツ、処女喪失の痛みに失神して、それっ切り……なにが侍よ、笑っちゃうわ」

「えっ! 処女喪失って、お相手は?」

「もちろん、セイラ様よ」

 シルビアは胸をなで下ろす。

「婚約といっても、まだ正式に結婚した訳ではないし、シルビアさんもケイン様を自分に繋ぎ止める努力は必要よ。それでなくてもケイン様は男らしくてハンサムなんだから、アナタが隙を見せたら虫がウヨウヨたかってくるわ」

「サンドラ様は、セイラ様を繋ぎ止める為に操を?」

「うーん……私たちの場合は、セイラ様がこれ以上ガマンできなくなったから、かしら。それまでも、時々アイツが手と口でご奉仕差し上げていたのだけど」

「手と口……」

 さっきまで青かったサンドラの顔が、今度は真っ赤になる。

「アイツ、前世じゃ遊女に入れ込んで遊郭に通ってたから、男を喜ばせる技は一通り知っているのよ。お陰で私も、この年齢ですっかり床上手だわ」

「……」

 シルビアは、恥ずかしさに耐えかねてうつむいてしまう。

「でもねえ、アイツのマネで床上手にはなっても、剣の技はマネできない。私……いえ、誰だって無理よ。誰もアイツの様には闘えないわ」

 黙って頷いていたシルビアだったが、ハッと驚きの表情に変わった。

「……では、もし何者かにフランスで襲われたら」

「まあ……なす術もなく殺されてしまうでしょうね」

「危険です! 計画を中止ないと」

「私もやめたい……でも無理よ。サイは投げられたの。ただ、ブレードとエッジがいて、エレデも私を守ってくれる。今はそれを信じるしか……」

「それは……そうですが」

 サンドラは気丈に笑顔を見せた。

「だからお願い、シルビアさん。私がいない間、セイラ様に悪い虫が寄って来ないように見張ってね。セイラ様は、本当は男の方が好きだから、特にイケメンには注意してほしいの」

 シルビアも、ようやく笑顔を見せる。

「はい。サンドラ様が不在の間、私も私なりにセイラ様をお守り致します」

「よろしくね……大丈夫、フランスに着く頃には、きっと侍のヤツも目を醒ましている……と思う」

 サンドラは、オランジェリーに降り注ぐ日の光を眩しそうに見上げる。

「以前の私はね、自分の事しか考えていなかった。だけど今は、少しでもこの国を良くしたいと思ってる。侍のヤツ、凄い才能を持ってるけど、前世じゃ貧しい侍の家に生まれたから、その才能を活かす事ができなかった。アイツの最後はね、お腹を大砲で打ち抜かれる凄惨なものだった」

「お腹を? 大砲で?」

「ええ、一発で虫けらの様に死んだわ。だから私は、家とか生まれだけじゃなく、才能のある者、努力した者が真っ当に評価させる世にしたい。シルビアさん、お手伝い頂けるかしら?」

「はい! 喜んで}

 二人は手を取り合い、本当の姉妹のように笑い合った。



 一週間は瞬く間に過ぎた。

 その日、グレンキャンベル港の海は、嵐の前の静けさのように穏やかだった。

 前日、しばらくの別れに涙に暮れるセイラ王子にしつこいほど身体を求められ、その後は何とか鉄造を呼び出せないかと遅くまで鏡に向かって語りかけ、ほとんど一睡もしていないサンドラは、ボンヤリとした意識のまま馬車を降りて驚く。

 未来の王妃の船出を一目見ようと、港はおびただしい数の民衆で埋め尽くされていたのだ。

 セイラ王子と国王一家、エメラーダ公爵とマリー婦人らの見送りは宮殿で行う事が大臣らに求められ、随分冷たいなとサンドラは思っていたが、ようやくその意味が理解できた。

 確かに、ここに国王まで現れては、収集のつかない騒ぎになっていただろう。

 近衛兵が人垣となって通路を作る間を、サンドラとブレードら三人は通り抜けて船へと向かった。

 タラップを、恐る恐るとエッジに手を引かれて渡る。本気で怯えているサンドラを、エッジは可愛いと思った。

 船の上では、船長を始めとする船員が、緊張した面持ちで一列に並んでいた。全員日焼けで顔が真っ黒で、しばらく見分けがつかないな、とサンドラは思う。

 一人だけ帽子を被り、一番背が低くて、一番肩幅が広い男が前に進み出た。

「こ! この船の船長! レフトフックであります! サンドラ様ご一行の快適な船旅をお約束します! 何でもお申し付けください!」

 緊張で白眼を剥いて挨拶する船長がおかしくて、サンドラは声を上げて笑ってしまう。

「ウフフフ……よろしくね、船長」

 サンドラが右手を差し出すと、船長は大慌てで自分の右手を身体中で拭く。そして、顔を赤黒くしながらサンドラの手を握った。

 ブレードとエレデは、生まれて初めての船旅となる。見る物全てが珍しい。甲板の上を歩き回っては歓声を上げていた。

 やがてエッジが声をかけた。

「そろそろ出航です。見送りの方々に手を振りましょう。さあ、サンドラ様、どうぞ中央へ。民衆はサンドラ様の無事を祈りに来てくれているのですから」

「そうね。まあ、お気楽な花嫁修業に行くだけだと思っているのでしょうけど」

 サンドラと三人は、見送りの人々を見下ろせる場所に立ち、手を振った。

 大歓声で夢中で手を振る民衆。このサンドラ人気が、鉄造が信念を持ってやってきた事に対する結果である事を、サンドラは理解している。

――もし生きて帰ってこれたら、次は自分の考えで国民の為になる事をやるんだ。

 そう心に誓うサンドラだった。

 船がゆっくりと動き出した。埠頭に沿って人々が並んでいるので、四人はいつまでも手を振り続ける。

「ホラ、エッジ。あんなに遠くまで人がいるわ。あそこから私たちが見えるのかしら?」

「見えていますよ、きっと」

 エッジは高身長に加え、更に手を高く伸ばして手を振っている。

「そりゃあ、エッジは見えているでしょうね」

 サンドラは、笑って皮肉を言った。

 子供たちが、走って船を追いかけている。その中にエビータもいた。レナはいない。年上の子たちに付いてこれなかったのだろう。

 エビータが何か叫びながら手を振っているが、全く聞こえない。だが、エビータの笑顔に、サンドラも笑顔で手を振り返した。

 やがて船の速度に付いてこれなくなり、子供たちは立ち止まって船を見送った。

 そして、埠頭の先端に、近衛兵に守られた一団がいた。フランスに旅立つ四人に極々親しい人たちで、実はここから見送る事は四人にも知らされていなかった。

 ブレードが、船から落ちるのではないかと思うほど身を乗り出した。

「リリー……リリーさーん!」

 ブレードの叫びはリリーに届いた。リリーは、笑顔で白いハンカチをブレードに向かって振った。

 リリーの隣には、変装のつもりだろうか、町の娘風の姿をしたセイラ王子がいた。泣きじゃくってサンドラに手を振っていた。

 もう、本当に会えないかもしれない。その思いが突然こみ上げてきて、サンドラの涙腺は壊れたかのように涙を吹き出した。

 セイラ王子の後には、ジェロムが警護筆頭の真新しい制服を誇らしげに着て立っている。弟に向かって、真っ直ぐ拳を差し出した。

『セイラ王子は俺に任せてくれ。サンドラ様をよろしく頼むぞ!』

 そう語っているかの様だった。

 エレデも、兄に向かって拳を差し出した。

 セイラ王子の隣には、遠目には女装したセイラ王子と見間違えるほどよく似た美少女が立っている。セイラ王子の号泣に引きずられたのか、同じくらい号泣している。

「エヴァー!」

 突然、エッジが叫んだ。

 その声に驚いたエレデが振り向く。

「あの女のコって?」

 エッジは、少女を愛おしげに見つめながら答えた。

「ああ、私のフィアンセだ」

 二週間前、田舎に戻ってフランス行きを告げてきたばかりだった。

 表向きはサンドラ公爵令嬢の花嫁修業という事になっているが、実は裏で国家レベルの極秘任務を命じられている。命に関わるかもしれない、危険な任務だ。もし、自分の死亡が伝えられたり、消息が不明になった時、エヴァには速やかに婚約を解消して新たな人生を踏み出してほしい。

 エッジは両家の親族にそう告げた。

 だがエヴァは、一滴の涙も流さずに気丈に言い切った。

「騎士様の妻になると聞かされた時から、わたくしの覚悟はできております。エッジ様がお亡くなりになれば、私は死ぬまで喪服で過ごします。マリア・テレジア様のように(夫フランツ一世の死後、マリア・テレジアは死ぬまで喪服で通した。フランツ一世は、マリア・テレジアの初恋の人でもあった)」

――うら若き乙女に、これからの長い人生を喪服で過ごさせる訳にはいかないからな。

 エッジは、必ず生きて帰ると改めて決意した。

 あの時、エヴァは随分背伸びをしていたのだと思う。それは、今の泣きじゃぐる顔を見れば明らかだった。

 万感の思いを込め、エッジはエヴァに投げキッスを送った。

 スピードを増した船は、アッと言う間に見送るセイラ王子たちの横を通り抜ける。

 サンドラと三人は船尾へと走り、愛する人を見失うまいとしたが、見る見る小さくなり、やがて見えなくなってしまった。

「船長! レフトフック船長! どこにいるの! ここに来て!」

 サンドラはヒステリーを起こしたかの様に、泣きながら船長を呼んだ。

 船長が泡を食って飛んで来る。

「ハイ! ここに! ここにおります!」

「船を港に戻して! 航海は中止よ! 私を船から降ろして!」

「は?」

 船長は驚き、エッジの顔を見る。

 しかし、その発言はエッジをも驚かしていた。

「姫様、いったい何を?」

「私、フランスなんか行かない! セイラ様から離れたくないの! 港に戻ってよぉ……」

 駄々っ子の様に泣きじゃくるサンドラを見て、ブレードは船長に命じた。

「船長! 船員たちに、しばらく船尾に近寄らないよう伝えてくれ。サンドラ様がご乱心で本気で暴れたら、私たち三人ではとても押さえられない!」

 この、一見美しいだけが取り柄の様な公爵令嬢が、実はアルフレッサ王国最強の剣士である事は船長も知っていた。そんな人物に暴れられては堪らない。

「あわわわ……」

 船長は、転がるように逃げて行く。

 エッジは、必死でサンドラをなだめにかかる。

「姫様、どうか落ち着いてください。セイラ様と離れたくないのはわかります。であれば、多少強引であっても、フランス国王一家の同意を極力早く得れば良いだけのこと。マリー・アントワネットに至っては、既に亡命を望んでいるという話もあります。最悪、ルイ一六世は諦めて、ご家族だけを連れ帰る選択もある。それならトンボ返りも可能かと」

「そんなんじゃない! 私、やっぱり死にたくないの。死んだらセイラ様に会えなくなる……」

 エレデは、サンドラの背中でもさすって落ち着かせねばと頭では思うが、教会騎士団の一〇人を瞬時に打ち倒した光景が脳裏に蘇り、足がすくんで動かない。

 だがブレードは、今のサンドラの言葉に違和感を持った。いつもは近衛兵に死ぬ覚悟を説いているサンドラが、死んだら好きな人に会えないと泣いているのだ。

 エッジは対応は大人だった。優しい微笑みを浮かべて、さりげなくサンドラの手を握る。

 ワニの開いた口に、頭を突っ込むような緊張感だろう。巨漢のジャンを握手した状態から片手で投げ飛ばした話は、繰り返しブレードから聞かされていた。

「姫様は、いずれアルフレッサ王国全ての民を導くお方。姫様のお命こそが最優先です。いざという時には、ご自分の命を守ることだけに徹してください。フランス国王一家は、我々三人が己の命と引き替えにお守り致しますので」

 サンドラはエッジを投げ飛ばす訳でもなく、ただ泣きじゃくりながら答えた。

「私、自分の命なんて守れないよぉ……」

「いえ、サンドラ様に敵う者など、たとえ大国フランスであろうが、そうそういる訳ございません。しかもパリ国民衛兵隊は、数はいても正規の戦闘訓練を受けていない素人の集まり。大砲の標的にでもなれば別ですが、そうでない限り、サンドラ様一人が逃げ延びる事は難しくございません」

「だからそれが無理なのよぉ……今の私はね、エッジやブレートを倒した、あの時のサンドラじゃないの。別のサンドラなのよぉ」

 エッジとブレードは、顔を見合わせた。

 サンドラが二人存在する……まさかという気持ちと、もしそれが事実であれば、今の乱心振りの理由が付くという気持ちが同時にあった。

 ブレードが、恐る恐るとサンドラに尋ねた。

「つまり、サンドラは、二人いると?」

「ブレード……ブレードなら分かるでしょ? 私が学園で馬から落ちて、急に強くなったの。あの時から、前世の私が私を支配していたのよ。エッジを倒したのも前世の私。それが卒業式の夜、セイラ様に初めて抱かれた時から、あの侍のヤツ、どっかに消えて帰ってこないのよぉ……」

 ブレードとエッジ、そしてエレデの顔から、一斉に血の気が引いた。

 そもそも、サンドラの超人的な能力の裏付けがあって実現した計画である。しかし、その裏付けが無くなったとなると……。

 船は大きく帆を広げ、海面を水しぶきを上げながら切り裂く様に進んで行く。

「どうでもいいから、グレンキャンベル港に戻ってよお!」

 しかし、サンドラの叫びに応えるのは、海鳥の甲高い鳴き声だけだった。


第一部 完

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