第55話 オランジェリーにて
エッジは、テーブルの上に広げた大きなヨーロッパ地図の上に、小さな船の模型を乗せた。室内にいる者、全員の視線がその模型に集中する。
ロイヤルファミリーに、今回からシルビアが加わった。それと、サンドラに同行するブレード、エッジ、エレデの三人。セバスチャンと信頼できる一部の大臣もいる。
「一週間後。我々はここ、グレンキャンベル港を出発し、一路シュルブール港を目指します。船は軍船ではなく、一般商船を手配しています……」
船の模型をフランスのシェルブール港の上まで動かすと、次は馬の模型を地図に置く。
「……シェルブールからは馬車に乗り換え、まずはベルサイユの視察。数泊したのち、パリへ向かいます……サンドラ様、何かご不満な点でも?」
「無いわ。続けて」
サンドラの眉間に寄ったシワを見れば、エッジが気を使うのも無理はない。苦虫をかみ潰したような顔だ。
「はい……続けます。当初はサンドラ様とブレード、そして私の三人で行動する予定でしたが、その……」
エッジの困った顔を見れば、それまでの経緯を知っている者なら何を考えているのか察しは付く。
「……エレデがメンバーに加わります。サンドラ様の身の回りの世話をするメイドという役回りです」
男の娘は懲りているのに、また男の娘か。エッジの顔には、そう書いてある。
「私とブレードだけでは、サンドラ様の全てに同行という訳にはいきません。女性しか入れない場所もありますし、毒味役も必要です。バザル、命に代えてサンドラ様をお守りするように」
メイド服が恐ろしいほど似合う若い兵士は、元気良く答えた。
「はい! この命に代えて!」
その姿を見てエッジは思う。
――やれやれ。ようやく田舎の婚約者と愛を紡ぎ始めたのに、また煩悩に悩まされそう……。
エッジは咳払いをすると、言葉を続けた。
「サンドラ様が予言されている、ルイ一六世一家の逃亡劇まで約一年。放っておいても、その時が来れば一家は逃亡を開始すると思われますが、問題はその逃亡は失敗するだろうという事です。一番の原因はルイ一六世の危機感の欠如……しかし、我々が急かした所で、頑固なルイ一六世がどれほど言うことを聞くか……」
それまで黙って話を聞いていた国王が口を開いた。
「サンドラよ。とにかく、ルイ一六世とマリー・アントワネットの信頼を獲得するように。そして、チャンスがあれば、一日も早くフランスを出るのだ。わざわざヴァレンヌで捕まるという逃亡の日まで待つ必要はない」
サンドラは厳しい顔で答えた。
「はい、お義父様。サンドラにお任せください」
いつにないサンドラの表情にセイラ王子は不安になり、サンドラの手を握る。
「サンドラ様……」
サンドラは鉄造に成り切り、余裕の笑顔で応える。この笑顔を作るのにもだいぶ慣れてきた。
「大丈夫です、セイラ様。必ずやフランス国王一家と共に、生きて戻ってまいります」
侍サンドラと信じて疑わないセイラ王子は、ウットリとした眼でサンドラを見つめる。
「……ステキ」
何しろ悪役令嬢サンドラは、今でも一日二時間しか現れない設定なのだ。
あの初めて夜以降、若い二人は、ミスセリーヌの眼を盗んでは身体を重ね、愛を深め合っていた。セイラ王子を喜ばせているのは自分だという自負が、今のサンドラにはある。
なのにセイラ王子は、侍サンドラへの愛ばかりを膨らましている。
鬱々とした思い。かといって、真実を打ち明ける勇気もない。
全てが明らかになったら、婚約破棄も有り得る。本気でそう思っていたからだ。
今は侍サンドラを演じ切るしかない。それが悪役令嬢サンドラの結論だった。
エッジは、船と馬の模型を、地図上のアルフレッサ王国に戻す。
「このように、行きについての計画はありますが、帰りは全くの無計画です。フランスの状況は日々悪化しており、出たとこ勝負で予定を組み立てるしかありません。正直、サンドラ様という軍神がいなければ、自殺行為に等しい作戦でしょう」
人々の期待に満ちた視線がサンドラに集まる。誰もがサンドラに、力強い一言を期待しているのが伝わってきた。
サンドラは、鉄造ならばこの時何と言うか、懸命に考える。ゆっくりと立ち上がり、周囲を見回した。
「今後百年で、世界は劇的に変化します。民主化の波にあらがう事はできません。しかしそれは、王権を否定する事であってはならない。国には象徴として民を導き、民の拠り所となる存在が必要なのです。今、王位の無い者が頂点に立てば、その者は自分の地位を守る為に、粛清に次ぐ粛清を繰り返す事になります」
サンドラは、鉄造ならここで言葉を切ったであろう箇所で一呼吸空け、言葉を続けた。
「残念ながらこの事は、これからのフランスの歴史が証明する事になる。そしてこのままでは、ルイ一六世一家はその最大の犠牲者となるのです。しかし、ここに国王陛下、並びに皆様にお約束致します。必ずや私とここにいる三人の勇者が、ルイ一六世と御家族を生きてお連れし、我が王と亡きマリア・テレジアの恩に報いると!」
国王が真っ先に手を叩いた。感動に胸を熱くしていた大臣達も、慌てて手を叩きだす。
ブレードとエッジは笑って拳を合わせ、お互いの決意を高め合う。エレデは国王の御前に出れたばかりか、こうして勇者と讃えられる事に興奮で顔を上気させていた……但し、その姿は初恋にはにかむ乙女の様だったが……。
セイラ王子とシルビアはトロケた眼でサンドラを見つめ、ケイン王子はそんな兄と婚約者を、大らかな笑顔で見ていた。
そんな中、王妃だけが不安そうな顔をしている。それに気付いたケイン王子が母親に話しかけた。
「母上、何か心配事でも?」
「ええ……あなたとセイラの護衛の事が少し……サンドラさんとブレードの代行となると、そう誰にでも勤まるとは思えません」
「ああ、その事でしたか。確かにおっしゃる通り、誰もブレード、ましてや義姉上の代わりにはなりません。しかし、私の護衛には近衛兵団の中から実績も十分なクラフトが、兄上の護衛には、そこにいるフランス行きのメンバーに抜擢されたエレデの実の兄であるジェロムが、それぞれ義姉上の推薦で決まっております。ご心配には及びません」
「あの……肉親であるエレデちゃんを前に気が引けるのですが、その御仁は、一度サンドラさんに刃を向けたとか……本当に信頼して良いのでしょうか?」
エレデは顔を曇らせ、うつむいた。それは事実であり、その事を言われれば返す言葉もない。
だがサンドラは、自信に満ちた表情で言い切った。
「王妃様、それについては心配ございません。東洋には『男子、三日会わざれば刮目して見よ』という言葉があります。呉の国のリョモウという武将の言葉ですが、士は三日あれば変われるという意味です。むしろ、一度道に迷った者の方が、その後の道を迷わずに歩めるのではないでしょうか」
言っている当のサンドラが、自分もそうだと思った。
「ジェロムは、セイラ様をお守りする為なら、喜んで命を差し出すでしょう。そして、命を捨てて戦う者が一番強い。それは、多少の剣の技術の差など、容易に逆転させます。事実、ジェロムはジャンと立ち合い、勝てはせずとも決して打ち負けません。常に、我が国の為に死ぬ覚悟ができているからです」
エレデが、眼に涙を溜めてサンドラを見ていた。その熱い視線に、今の自分が鉄造でなくて本当に良かったと思う。
――アイツったら、ちょっとカワイければ、男だろうが、女だらうが、ホント見境無いんだから。このコだって、ちょっとモーションかければ、簡単に押し倒せるでしょうね。
完全にサンドラの信頼を失っている鉄造である。
「同じ事が、実は乱の首謀者だったドトールにも言えます。処刑の日、ドトールは死ぬ事ができませんでした。人は皆、自分の為には死ねないものです。しかし、それが誰かの為となると話は変わる。私が今、『サンドラの為に死んでくれ』と言えば、奴は喜んで死ぬでしょう……まあ、特殊な性癖による部分も多々ありますが」
王妃は安堵の表情を浮かべる。
「サンドラさんがそこまで言うのであれば、私も安心できます。実際、ジェロムについては悪い話を聞きませんし、ドトールはあれ程の悪行を重ねていながら、今ではお国の為に短期間で目覚ましい成果を上げています。私の取り越し苦労ですね」
そして、エレデの方を向いて言った。
「お兄さんの事、悪く言ってごめんなさい。あなたにもお兄さんにも、期待していますよ」
エレデは右手を心臓の前に当て、真っ直ぐに王妃を見た。
「はい! 兄も私も、この命に懸けてご期待に応えます!」
メイド服姿のエレデの男らしい態度に、周りから拍手が起きた。
サンドラは、一応丸く収まった事に、一人ホッと息を吐く。実は、ジェロムを自分の代理とした事には、もう一つ思惑があった。
強いと謳われる剣士を、セイラ王子の護衛に付けたくなかったのだ。
セイラ王子は、強くて自分を守ってくれる者に惚れる傾向がある。ルックスが良ければ尚更だ。
ジェロムは決して弱くはないが、正統派の美しい剣が使える訳ではない。その技は泥臭く、身体を低くして下半身を切りに行く、実戦的だが見てくれの悪い剣術だ。
そして、ジェロム自身の外見も、美しすぎるエレデと本当に兄弟かと思うほど平凡だった。これならセイラ王子の悪い癖も再発しないだろうと思ったのだ。
――せっかく掴み取った第一王子の婚約者の座、絶対に明け渡してなるものですか!
弱い者いじめも、理不尽なわがままも無くなったが、悪役令嬢としての性根だけは健在のサンドラだった。
☆
会議の後、サンドラはシルビアをお茶に誘った。
宮殿の一角にあるオランジェリー(温室)が、最近のサンドラのお気に入りである。とにかく広く、東洋の珍しい植物で溢れている。
ここでパーティーが開かれたりもするが、普段利用するのはセイラ王子と、悪役令嬢モードのサンドラくらいだ。
サンドラは、鉄造が特注で作らせたウサギ小屋の様に狭い部屋が嫌いだった。人格が代わってしまった事を悟られない為に今もそこで寝ているが、そんな所に人を呼ぶなどゴメンだ。
会議の緊張で朝から何も喉を通らなかったサンドラは、ガッツリ目のアフタヌーン・ティーをバザルに頼んだ。三段重ねのティースタンドで運ばれて来たのは、スコーンとケーキ、そしてキュウリのサンドイッチ(当時はキュウリの栽培が難しく、高貴な食べ物とされていた)だ。
「私、キュウリのサンドイッチ、初めてです」
シルビアは、感激の面持ちで一口食べた。
「まあ、何て瑞々しいお味なんでしょう!」
サンドラは、バザルに言った。
「今からちょっとシルビアさんと内緒話しがあるの。ここはいいから下がって」
バザルは少し悲しそうな眼をすると、「かしこまりました」と言ってオランジェリーを出て行った。
その後ろ姿を見ながらシルビアは不思議に思う。
「今日のバザルちゃん、サンドラ様を見る眼がやたら熱っぽかったですね。逆にサンドラ様は、なんだかバザルちゃんに素っ気ない感じがします」
サンドラは、スコーンをカジりながら答える。
「侍のバカがね、あのコにお手つきしようとしたのよ」
「えっ……?」
サンドイッチを口に運ぼうとしていたシルビアの手が止まる。
「卒業パーティーの日の事よ。アイツ、バザラに身体を洗ってもらっていて欲情し、いかがわしい事をしようとしたの。まったく、男って言うのは……身体は女のくせに」
「あの……その……つまり今のサンドラ様は……」
「ええ、そうよ。アナタにまで隠していてゴメンなさいね。学園時代、アナタをイジメていた、悪役令嬢の方のサンドラよ」
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