第35話 落とし穴
鉄造モードがサンドラの人格の表層に出ている時、悪役令嬢モードは鉄造の意識を通じて外部の状況を認識している。鉄造の主観を通じての認識にはなるが、悪役令嬢にモードチェンジしてもその瞬間から活動を開始できる。
しかし、悪役令嬢モードが人格の表層に出ている時、鉄造は夢想無念の状態にあり、外界からの情報を認識できない。結果として、鉄造モードに戻った瞬間、悪役令嬢時の記憶が一気に流れ込む。
その時、サンドラは放心しているように見えた。
「……ラ様! サンドラ様!」
鉄造モードに戻ったサンドラは我に返る。
「えっ?」
「良かった。心がどこかへ飛んで行ったのかと思いました」
セイラ王子がサンドラの顔をのぞき込んでいた。ケイン王子もいる。
「あ……申し訳ございません。ホッとしたら気が抜けてしまって」
ケイン王子は感心して頷く。
「あの古狸どもが相手ですから無理もない。しかし立派でしたよ。有らぬ疑いをかけられて、命すら危ないというのに、王家の一員に相応しい気品ある立ち振る舞いでした」
「ありがとうございます。この部屋のどこかにいらっしゃったのですか?」
「ええ、父上……国王の指示で、あの中二階に。国王にもしもの事があれば、兄上に全権が移り、私はその補佐をする手筈でした」
「そこまでの緊張状態だったとは……」
「アイツら、教会騎士団まで引き連れて来ましたからね。敵国の使いであれば堂々と軍備を誇示できますが、教会関係者となるとどう対処すべきか……前例の無い事でしたから」
その言葉の後を、セイラ王子はまるで他人事のように続けた。
「まあ、あの中の誰かがボクを殺そうとした張本人だろうけど。それは置いといて、司教様達を見送りに行きましょう、サンドラ様」
ドトール副司教が謁見に間から出ると、教会騎士団が駆け寄り、ドトールを囲むように隊列を作って早足で回廊を進んだ。
遅れて司教がチェダー副司教に支えられて出て来たが、残っていた騎士は一人だけ。副司教の反対側から司教を支える。
その騎士がまた、セイラ王子とは違ったタイプの美少女……もとい美少年だったので、サンドラは思わず声が出てしまう。
「おっ」
その瞬間、二の腕にチクリと痛みを感じ、振り向くとセイラ王子が笑顔でサンドラの腕をツネっていた。
「ボク、最近何となくサンドラ様の好みがわかってきました」
その眼は決して笑っていない。
サンドラは震え上がり、慌てて言い訳する。
「いえ、違うのです。ホラ、あの騎士、私やセイラ様と同じくらいの背丈。教会騎士団の実力がどの程度のものか知りませんが、あの体格で騎士を名乗るとは、よほど剣や馬に優れているのかと」
ケイン王子が納得したように頷く。
「なる程、義姉上としては気になる所ですか」
ケイン王子の援護で、セイラ王子の眼もようやく笑った。
「なんだ、そうでしたか。変な焼き餅を焼いてしまい、申し訳ございません」
サンドラはホッと胸をなで下ろす。
「以前、ケイン様にジパンの忍者についてお話をした事がありますが、女や女装をして活動する忍者を『くノ一』と呼びます。あの者は、その『くノ一』に適任かもしれません……」
サンドラは、ケイン王子の援護に信憑性を持たせる為に苦し紛れで言葉を続けたが、話している内にその気になってきた。
「……一度、腕前を見てみたいものです」
「問題無いでしょう。近い内に改めて宮廷に来て、サンドラ様と手合わせするように言いますよ」
ケイン王子は事も無げに言うと、小走りで司教達に近付いた。声をかけると三人は立ち止まり、ケイン王子にしきりと頭を下げる。
それから、小さな騎士に話しかけ、サンドラの方を指さすと、驚いた表情の騎士がサンドラを見た。驚いた顔も愛らしい。
騎士はキリッとした表情になるとサンドラに頭を下げた。そして、司教を支えて歩いて行った。
サンドラとセイラ王子がケイン王子に追い付いた時 ケイン王子は腕を組んで小さな騎士を見送っていた。
「いいねえ……」
独り言のように呟いたので、サンドラが尋ねる。
「何がです? まさかご自分の稚児にしようなどと……」
「違いますよ。義姉上と一緒にしないでください。いやね、あのチビ、サンドラの名を聞いても、眼に怯えが微塵も有りませんでした。義姉上の事、知らない筈はないのに。たいしたもんだ」
「ほぅ……」
サンドラは、小さな騎士への興味を益々強くした。
司教達がヨタヨタとようやくホールに着いた頃、ドトール副司教を乗せた馬車と教会騎士の馬の集団が、蹄の音もけたたましく宮廷を後にする所だった。
それを、ブレードとエッジが見送っている。
「アイツら、司教様を待ちもしないんだな」
ブレードの言葉にエッジも頷く。
ようやく馬車の前にたどり着いた司教は、サンドラを前に頭を垂れた。
「サンドラ様。この度は大変な失礼をしてしまい、誠に申し訳ございません。全ては私の不徳とするところ、この老いぼれの首でよろしければいつでも差し出しますので、何とぞ善良な聖職者には寛大な処分をお願い致します」
「そんな、処分だなんて。司教様とそちらの副司教様には、むしろ感謝しておりますわ。お陰で本能寺に潜むの誰か、分かりました」
サンドラは、小さくなっていくドトールを乗せた馬車を見つめた。
「はて、ホンノウジ……でございますか?」
サンドラは笑顔で答えた。
「ジパンという国にある寺院の名です。こちらの話ですので、気になさらないでください」
☆
国王の執務室にサンドラが入るのは、婚約の儀以来二度目の事だ。あの時は役人や軍関係者が大勢いたが、今は宮廷大臣と財務大臣、そして近衛団長だけだった。
サンドラは、セイラ王子とケイン王子に挟まれる形で執務室に入る。
「さっきは言えなかったが、そのエメラルドグリーンのドレスも清楚で美しいな」
執務机の向こうから、国王が笑顔で言った。
「ありがとうございます。エッジさんが選んでくれました」
「ほう、エッジが。奴を随分痛めつけたらしいが、仲直りしたのだな」
「そんな、痛めつけたなんて……共にフランスへ行く仲間、彼の剣の腕前を確かめておきたかっただけです。決して私怨などでは」
いや、あれが私怨でなくてなんだろう。
「そうか。確認の為なら気絶するまでやる必要は無いように思えるが、剣の達人同士、ギリギリの所でしか解り合えないものがあるのだろうな」
国王は感心して頷く。全くの見当外れではあるが、納得はしたようだ。
「それでだ。サンドラの言った通り、明日の朝、近衛兵を一〇名、財務官を二名、大聖堂に送る準備をしてもらった。しかし、そんなノンビリで良いのか? 大聖堂はすぐそこだ。馬で行けば半時(現在の約一時間)だぞ。なぜ、逃走や隠蔽の時間を与える?」
それは、両大臣も近衛団長も同じ思いだった。
「はい、実はウィリアム神父もボガード神父も大聖堂の帳簿も、撒き餌に過ぎないからです」
「撒き餌?」
近衛団長が不思議そうに言った。
「撒き餌って、釣りの時に魚をおびき寄せる、アレですか?」
「そう、アレです。但し、おびき寄せた魚を釣る訳ではありません。撒き餌に黒幕の意識を向けさせておき、私達はその隙にもっと大事なものを頂戴します」
国王は身を乗り出し、机に両肘を乗せた。
「サンドラよ。勿体ぶらずに、全部教えてくれ」
「申し訳ございません、そんなつもりではなかったのですが。つまり、神父も帳簿も敵の陣地内にあり、我々が多少素早く行動した所で、そこから化けの皮を剥がすのは難しいという事です」
「なるほど。本丸は別に有り、という事だな」
「左様でございます。まずは真実を知るアルの命、それと大聖堂の誰かに渡ったであろう金の流れを記したプッシーキャットの帳簿です」
財務大臣が手をポンと叩いた。
「なる程。複雑な教会の金の流れを追うより、売春宿の帳簿を調べる方が、はるかに簡単でしょう」
「はい。昔より悪党が私腹を肥やす方法は、アヘンにギャンブル、そして売春と相場が決まっていますから。それに、それらの金は大聖堂ではなく、黒幕本人に渡った可能性もあります」
宮廷大臣が尋ねる。
「作戦は良く分かりました。して、そのアルとやらの身柄と売春宿の帳場はどの様に?」
「既にジャン達が動いてくれています。今頃、どちらも確保に成功しているでしょう」
国王は頷いた。
「うむ。後は、果報を寝て待っておれば良いのだな」
サンドラは自信ありげに微笑んだ。
「恐らく」
この時、サンドラは気付いていなかった。敵の裏をかいたつもりが、更にその裏をかかれていた事に……。
☆
その日の夜、サンドラの部屋をセバスチャンが尋ねて来た。
「こんな時間に大変申し訳ございません、サンドラ様。実はまだ、バザルが戻って来ておりませんで……」
サンドラの胸一杯に嫌な予感がよぎる。
「私もダンス場で別れたきりだわ。ゆっくりしてきてとは言ったけど……まだレストランに居るとか?」
「実は、もう心当たりの場所は捜しました。レストランも、明るいうちに出て行ったと」
ドトールのやけに落ち着いた顔がサンドラの脳裏に浮かんだ。
「まさか……とにかく、暗闇の中を闇雲に捜しても始まりません。明日、日の出と共に捜索しましょう」
「はい……」
これほど弱々しいセバスチャンを見るのは初めてだった。
「大丈夫。必ず私が捜し出すから」
サンドラは、自分に言い聞かせるように言った。
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