第34話 サンドラの逆襲

 謁見の間の高い天井には、ギリシャ神話に登場する海の神ポセイドンの姿が壮大に描かれている。これは、漁業が盛んで海からの大いなる恩恵を受けているアルフレッサ王国としては不思議な事でも何でもないが、ベニーユキーデ大聖堂副司教の役務に若干三十代で着任した若き宗教指導者チェダー副司教としては、例えそれが古代神話がモチーフの絵画だったとしても、宗派が認める唯一の神以外の神が頭上にあるというのは気持ちの良いものではなかった。

 居心地の悪さの理由は他にもある。

 大聖堂のもう一人の副司教であり、大先輩でもあるドトール副司教とその取り巻き達の勢いに押されて宮廷までは来たものの、今回の王室を敵に回すような行動に懐疑的だったからだ。

 ドトール副司教は人々の危機感を煽るのが巧く、教会関係者はその口車に乗って宗教騎士団を結成、武装化を進めていた。

 フランスの飢饉(一七七五年、一七八五年、一七八八年と立て続けに三回起こり、フランス革命の直接の原因となった)を越える災いが近付いている。それは魔女によってもたらされるであろう。

 それがドトール副司教の主張であり、信者はその言葉を神の言葉と同様に受け取った。

 チェダー副司教自身は魔女の存在など信じていなかったが、同じ副司教の立場とはいえ、支持者の数はドトール副司教に遠く及ばない。逆らえもせずに静観していたが、ある日とうとう魔女を発見したと言い出した。

 その名を聞いて、誰もが驚いた。

 公爵令嬢で第一王子の婚約者、サンドラ・エメラーダ。

 ドトール副司教の調査では、サンドラ嬢は学園での落馬事故の後、超人的な力を持って回復したという。その剣の力は、警護筆頭や軍の最高実力者をも凌ぎ、近衛兵の実力者が五人束になっても敵わない。何よりも婚約の儀では、潜入した賊を空を飛んで退治したらしい。それは多くの貴族が目撃したと証言していた。

 更に、魔法の杖に乗って空を飛んでいたとか、森で狼を集めて獣姦にふけっていたとかの目撃もあるという。バカバカしい話なのだが、ドトール副司教が話すと、なぜか真実味を帯びた。

 それらを総合して、ドトール副司教はサンドラを魔女と結論付けた。

「本物のサンドラ嬢は、落馬事故の時に死んだのです。心臓が止まっていたと、教師もクラスメイトも証言しています。そして、魔女として生き返った。その後は人格が変わったと、これも教師とクラスメイトの証言です」

 上級聖職者の集まりで、ドトール副司教はこう述べた。

「おかしいとは思いませんか? 同性愛者で我々の頭を悩ませていたセイラ王子が、突然サンドラ嬢との婚約を発表した。夢中なのはセイラ王子の方だそうです。人の性癖がこんなに簡単に覆るものでしょうか? これこそ、悪魔の力によるものに他なりません!」

 チェダー副司教は耐えきれずに口を挟んだ。

「ですが、誰も傷ついていません。むしろ、セイラ王子は道を外れずに済みました。何か神秘的な力が働いているとしても、それは善の力ではないでしょうか?」

 この言葉に、ドトール副司教は目を吊り上げて反論する。

「聖書には何と書いてありますか? 『女呪術師を生かしておいてはならない』そう書いてあります! 善とか悪の問題ではない。魔術を使う女は殺さねばならない。それを神はお望みなのです!」

 それから、急の声のトーンを落とした。

「冷静に考えてください。このままでは、この魔女はいずれ我が国の王妃になるのです。魔法の力で現王の命を奪い、その日が来るのは皆さんが考えているよりずっと早い筈だ。その時、新王はこの王妃の言いなりでしょう」

 そして、叫ぶように言った。

「つまり、アルフレッサ王国は、魔女の支配する国になるのです!」

 この一言で、サンドラの魔女裁判は決まった。死への片道通行と言われる魔女裁判が。

 それからのドトール副司教の行動は迅速だった。この日、聖職者達が自らの決定を振り返る間も与えず、宮廷へのサンドラ引き渡し要求を決行した。

 しかし、宮廷ではドトールの想定外の事が起きた。国王が頑なにサンドラの差し出しを拒否したのだ。

 小娘一人の命より、教会組織との調和を選ぶと踏んでいたドトールにとっては大きな誤算だった。

「サンドラは既に余の娘同然。それを、そなたらは悪魔の使いと申すか!」

 国王の迫力に、高齢の司教は震え上がった。無理もない、それは玉座の脇に並ぶ大臣達でさえ縮こまる程だった。

「い、いえ、決してそうではありません。そうではありませんが、魔女だという噂が立ったからには、私どももそれなりの判断を下さねばならないもので」

「裁判とは名ばかりの処刑ではないか! 余の眼が黒い内は、決して魔女裁判など認めぬぞ。そのような事をすれば、我が国の科学を一〇〇年も巻き戻す事になる」

 そもそも司教はチェダー副司教と同様、今回の件には反対だった。渋々駆り出された形なので、国王に強く言われると反論の言葉など出ない。

 だが、今や大聖堂内の実権は、司教ではなくドトール副司教にあった。しどろもどろの司教を見て、ドトールは見切りをつける。

 ――チッ、この老いぼれを盾に一気に話を進めるうもりが、役立たずめ!

 ドトールは、自らが一歩前に立った。

「国王様、人の口に戸は立てられません。サンドラ様が魔女だという噂は、このままでは国中に広がるでしょう。我々は、そうなる前に潔白を証明したいだけなのです」

 尋問は非公開で行われる。一度魔女裁判に引っ張り出しさえすれば、後は取り調べ中の事故死でも、本人の錯乱による自殺でも、何とでもデッチ上げる事ができた。

 ドトールの計画としては、サンドラの身体に魔女のしるしが見つかり、問いつめたら暴れ出したので聖水をかけたら苦しんで死んだ、とするつもりだった。魔女のしるしは、殺した後にゆっくり付ければ良い。

 だが、王は反論した。

「噂、噂と言うが、では誰がそのような事を言うておるのだ。まずは、その者を連れてまいれ」

「お言葉ですが、こと魔女に関する告発については匿名が認められております。魔女は魔法を使うからです。これは、二〇〇年前からのヨーロッパの慣習であり、伝統なのです」

「何が伝統だ! そんな迷信に踊らされ、そなたらの頭の中は二〇〇年前から進化しとらんだけではないか」

 国王とドトール副司教の会話が平行線を辿り、これではいつまでも収拾がつかないとチェダー副司教が思ったその時、その人物は謁見の間に入って来た。

「サンドラ様のご到着です!」

 従者が大きな声で言うと、その人物が歩み出る。

 そして、気品あるカーテシー。

「お待たせしました。サンドラ・エメラーダでございます」

 鮮やかなエメラルドグリーンのドレス、情熱を感じさせる明るいブラウンの髪、何事にも臆さないであろう真っ直ぐな瞳、熟した果実を思わせる肉感的な唇。そして、男の視線を捕らえたら離さない豊満な胸と細い腰。

 まるで、そこだけに陽が射し込んでいるような華やかな存在感。

 チェダー副司教は直感した。

 ――この方は、悪魔や魔女などと最も遠くの場所に居るお方だ。ドトールの論法が通じる筈がない。

 そのドトールは、まさかこの席に本人が現れるとは想定していなかった。思いがけない展開に、思考の歯車が狂う。

 怒りの形相だった国王の顔が、一瞬で穏やかな表情になった。

「おお、サンドラ! 忙しいのに悪かったな。話はセバスチャンから聞いたか?」

 サンドラは、玉座と司教ら三人の中間までゆっくり歩いて行くと、司教らを正面から真っ直ぐ見据えて言った。

「はい、伺いました。私に、魔女、の容疑がかかっているとか」

 司教の髪の無い前頭部に汗の玉が吹き出す。

「い、いえ、そうではなく、私どもはただ噂の真相を確かめようと……」

 その司教の言葉に、ドトール副司教が舌打ちしたのをチェダー副司教は聞き逃さなかった。

「噂の確認の為に騎士団を引き連れて、まるで物語に出てくる魔物退治のパーティーのよう。ああ、そうでした。わたくしは皆様にとって魔物同然でしたわね」

 サンドラは、だだっ子を見守る母のような慈悲深い眼で三人を見つめる。

 チェダー副司教の手の平に汗が流れた。

 ――違う、人の器が違う。この方は王妃になるべく生まれたお方だ。杖で空を飛ぶ? 狼と獣姦? バカらしい! なぜ私はあの時、徹底してドトール副司教に逆らわなかったのか……。

 しかし、国王に向き直って言ったサンドラの言葉に、そこにいた誰もが驚いた。

「まあ、どなたかは存じませんが、疑われたからには仕方ありません。私も神の愛と正義に従う者として、魔女裁判を慎んでお受けします」

 国王が眼を剥いて叫んだ。

「待て、サンドラ! そなたは自分が何を言っているのか、わかっておるのか?」

「もちろんです、陛下。魔女裁判に臨めば、その瞬間から人間扱いされなくなります。私は魔女として拷問され、陵辱され、最後は重りと共に水に沈められるでしょう。そのまま死ねば無罪、生きて浮かんでくれば魔女確定で火炙り。いずれにせよ、死ぬ事に変わりはありません」

「では、なぜ……」

「ですが!」

 サンドラは、再度司教達の方を向き、正面から見据えた。

「……わたくしもこの命、タダで差し出すつもりはございません。ベニーユキーデ大聖堂には、セイラ王子暗殺未遂の真犯人を引き替えに差し出して頂きます!」

 謁見の間が一斉にざわめいた。

 大臣達が慌てふためく中、国王だけがニヤリと笑い、乗り出していた身体を玉座の背もたれに戻す。

 いつもは閉じているのかと思うほど細い眼を見開いて司教は言った。

「恐れながらサンドラ様、真犯人と言われましても何の事やら。犯人はサンドラ様ご自身が捕まえたと伺っておりますが?」

「彼はトカゲの尻尾です。かわいそうに、あのまま見殺しにされる筈でした。ですが、私は真犯人を捕まえる為に、敢えて彼を泳がせたのです」

 サンドラは司教の前まで歩み寄った。

「すると、ノコノコと現れましたよ。ウィリアム神父とボガード神父が」

「な、なんですと!」

 司教の眼が、更に大きく開かれる。その表情に嘘は無いとサンドラの女の勘は判断する。

 では、後の副司教はどうか。若い方の副司教は、司教と同じような驚愕の表情をしていた。しかし、年輩の副司教の方は、顔色も変えずにサンドラの次の言葉を待っている。

 サンドラは、無表情な副司教の顔を見ながら言った。

「優秀な近衛兵が確認しました。実行犯であるアルバートの身の安全は私達が守っているので、いつでも裁判で証言できる状況です」

 サンドラはチラッとジャンを見た。眼が合ったので、目立たぬように右手で猫の手のマネをした。

 ジャンは頷いて謁見の間を出て行く。

 実はこの時点で、アルは身の安全など守られてはいなかった。ウィリアム神父もボガード神父も捨て駒に過ぎないと考えたサンドラは、それらを操る本当の黒幕にたどり着くまで、事を起こす気は無かったからである。

 ところが先手を打たれてしまい、サンドラは計画より早く切り札を切った。切った以上、敵はアルの口を塞ごうとするだろう。今は何としてでも、証人であるアルの命を守る必要がある。

 ジャンは、サンドラとのアイコンタクトでその事を察し、素早く行動に移したのだった。それと、守るべき物がもう一つあった。サンドラの猫のマネ、それだけでジャンはピンときた。

 司教は震えながら言う。

「信じられません……二人とも、まじめで信心深い神父です。そんな恐ろしい事を……」

「本当に信心深いのと、信心深いフリを見分けるのは、とても難しい事です。この二人の場合、それだけではありませんでした。アルに接触した後、隣街のプッシーキャットという宿屋で一泊しています」

 大臣達、そして壁の沿って立っていた近衛兵達もワッとざわめいた。

 チェダー副司教は首を捻った。

「プッシーキャット?」

 サンドラは、聖母のような微笑みを湛えて答える。

「わたくしも今回の件で初めて知ったのですが、殿方には有名な売春宿だそうです」

「売春宿……聖職者とあろう者が……」

 チェダー副司教の開いた口が塞がらない。

「残念ながら、まだ続きがあります。私どもの調査では、この宿を常宿になさっている神父様は約一〇名ほど。調査が進めば、もっといらっしゃるかもしれません」

 司教がふらついたので、チェダー副司教が慌てて支える。セバスチャンが椅子を運び、チェダー副司教と二人がかりで座らせた。

 サンドラは構わずに話を進める。

「それよりも深刻なのは、プッシーキャットの収益が、何らかの形でベニーユキーデ大聖堂に流れているらしいという事です。これも裏からコッソリと調べていた事なのですが、これを機会に正面から調べさせて頂きます」

 これも現時点では鉄造の推測に過ぎなかったが、今となっては打てる弾は全て打つしかない。

 勝負ありと見た国王は、落ち着いた声で言った。

「近衛団長。兵を大聖堂へ送り、ウィリアム神父とボガード神父に宮廷まで同行を求めよ。財務大臣は優秀な財務官を何人か準備して、大聖堂の全帳簿を調査をさせるように」

 そして、司教を見て言った。

「文句はございませんな」

 司教は青い顔で頷く。

「はい……」

「余も司教より戴冠頂いた身。イギリスのヘンリ八世(カトリックとの対立を深めて自らを首長とするイギリス国教会を創始、反対派を厳しく弾圧した)やメアリー一世(敬虔なカトリック信者だったが故にプロテスタント信者を何百人も火刑に処し、その残虐な行為から『ブラッディー・メアリー』と呼ばれた)の様な事はしたくありません」

 王は立ち上がった。

「サンドラの引き渡しは、ベニーユキーデ大聖堂の調査が終了し、アルフレッサ聖教会の潔白が証明できた時とする。誰か異論のある者はいるか!」

 チェダー副司教は、内心ホッする。司教も同じ気持ちだろう。

 ただ一人、ドトール副司教だけが、平静な表情とは裏腹にハラワタが煮えくり返っていた。

 司教が弱々しい声で言った。

「国王様……本日は貴重な時間を拝借し、誠に申し訳ございませんでした」

「うむ」

 国王が頷くのを見計らい、宮廷大臣が叫んだ。

「これにて国王の謁見を終了する!」

 緊張から解放されたサンドラは、いつもの水の中に沈んでいくような感覚に包まれた。

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