第32話 煉獄の門
正門から入ると、宮廷の本館に到着するまで馬車で何十分も走り続ける事になる。その目的の一つは、敷地の広大さや建造物の荘厳さを見せつける事により、訪れる者に王の権力と財力を示す為にあった。
しかし、宮廷に出入りするのは貴族や聖職者ばかりではない。メイドもいれば調理師もいる。庭師に配達人、画家に音楽家、むしろそういった者達の方が多い。そんな忙しい一般人の為に、街へ最短で行く事ができる裏口がちゃんとあった。
人が荷台を引いてようやく一人通れる程の門で、門番も最高齢の近衛兵が一人きりだ。利用者はほとんど顔馴染みなので、細かい事無しの顔パスで通行できる。
のんびりと仕事を楽しんでいた近衛兵だったが、この所緊張を強いられる事が増えてきた。最近やって来た第一王子の婚約者が、裏門を好んで利用するのである。
そんな王族、今まではいなかったのだが、この婚約者のせいで裏門の便利さを知った者達が増えてしまう。
先日も、大変な美少女がここを通ろうとしたので驚いて呼び止めたら、第一王子本人で肝を冷やした。
とにかく、今までのように、うかうかと街の人々と世間話もしていられないのだ。
その日も、まさにそうだった。
魚を運んで来たおかみさんとお喋りしていると、いきなり後から声がした。
「おばちゃん、それ新鮮なの?」
振り返ると、例の婚約者が警護官の制服姿で立っている。
近衛兵は慌てて直立不動をとるが、魚屋のおかみさんは気付かない。
「おや、勇ましい格好のお嬢さん、こんにちは。当たり前さぁ。宮廷にお届けできる名誉なお仕事を頂いているからね、捕れたばかりの中でも、特に良い魚ばかりだよ」
「刺身……いや、生でも食べれる?」
「変な事を聞くコだね。まあ、漁師さんは船の上で釣ったばかりの魚を生で食べてるって言うし、問題は無いんだろうね。美味しくないと思うけど」
「やっぱ醤油かぁ……」
「しょうゆ?」
「大豆で作った東洋の調味料よ。生魚につけて食べると美味しいの」
「へえ、けったいな物が東洋にはあるんだね。おや、バザルちゃんも一緒かい。お姉さんとお出かけかな」
バザルは元気に返事をした。
「はい! サンドラ様とダンスのレッスンに」
「ダンスのレッスン! いいねえ、宮廷で働いていると色々特典があって」
そこへブレードがやって来た。
「サンドラ様、お待たせしました」
髪型は整えられ、服装もいつもの警護官の制服ではなく、お洒落な物を着ている。その理由をサンドラもバサラも知っていたが、あえて口にしない。
「いいえ、全然。美味しそうなお魚を見ていました」
「ほう、なるほど。これはムニエルにしたら美味そうだ」
「生はどうかしら」
「生? 魚を生ですか?」
意味が分からないといった様なブレードの表情に、食文化の差を痛感するサンドラだった。
「行ってらっしゃい。レッスン頑張ってね」
にこやかに手を振るおかみさんに、三人も笑顔で手を振り返して裏門を出て行く。
それまで直立不動で敬礼していた近衛兵が、ようやく緊張を解いた。
「ふぅーぅ」
「どうしたんだい? 何をそんなに緊張していたのさ?」
「ばか言いなさんな。あの方が第一王子のご婚約者だよ。そして、この国最強の剣士さね」
「え! あのお嬢さんが……という事は……」
「次の王妃さ」
おかみさんの顔が見る見る青くなる。
「……失礼な事、沢山言っちゃったよお……打ち首かねぇ……」
「それは大丈夫だと思うよ。変わったお方でな、そういった事には無頓着みたいだ。でも、剣については厳しいよ。先日も軍隊最強って方が来て手合わせしたが、一撃でノさられてた。オレもこの眼で見たけど、その軍人さん、死んだと思ったね」
「ちょっと、励ましになっていないんだけど」
「つまりな、サンドラ様なら痛みを感じる間も無く、一瞬で首をハネてくれるって訳さ」
「……」
おかみさんの顔が、青色を通り越して土色に変わってきた。
「ハハハ、すまんすまん。冗談だよ、何も気にしてないと思うよ。だけど、もし気になるなら、生魚を美味しく食べられる料理でも考えてみたらどうだい? きっと喜んでくれるから」
おかみさんは、少し顔色を取り戻した。
「そうだね、それなら私にもできそうだ。頑張ってみるよ」
裏門を抜けると、結構急な下り坂が続く。
サンドラは、そこを下ると見えてくる、活気ある街の風景が好きだった。
「今日も我が王都は平穏だわ。フランスの不穏が信じられないくらい」
その言葉にブレードが応えた。
「ある意味、サンドラ様のお陰です。セイラ王子の求婚の応じて頂いた事で、ケイン王子派の貴族は勢いを失った。そもそもケイン王子は、その神輿に乗るつもりも無かったのですが、そこが政治の難しい所です」
「でも、私などで良かったのかと時々思うわ。外国のお姫様をお迎えになれば、もっと国益の為になるのではないかと……」
「国王閣下が政略結婚反対派ですから。幸せな結婚ができない者に、幸せな国家が築けるものか、との持論をお持ちです。マリア・テレジア(フランツ一世と当時の王族としては奇跡とも言える恋愛結婚をして、一六人の子宝に恵まれ、オーストリアを繁栄に導いた)様の信奉者ですからね。サンドラ様はまず、ご自身とセイラ様の幸せをお築きください」
下級武士根性が抜けないサンドラに、ブレードの言葉はとても励ましになった。
「ところでブレードさん。ダンスのレッスンも四回目ですけど、サリーさんとの進展は?」
ブレードは苦い顔をする。
「ムムム、嫌われてはいないと思うのですが……私の方が少し年下なので、肝心な所で尻込みしてしまうのです」
サンドラはブレードに、前世の自分の若い頃に似たものを感じていた。こと恋愛となると、まるで自分に自信を持てない所だ。
しかし、今は女の身体、少しは女心がわかるつもりだ。気の利いたアドバイスもできるだろう。
「女性の勘は鋭いもの。ブレードさんの好意が自分にある事など、サリーさんはお見通しですよ。ですが、サリーさんはサリーさんで、年上である事を気にしていると思いますよ。ブレードさんが年下である事を気にしているよりもずっと」
ブレードは、剣術の試合の時よりも、もっと真剣な顔をしてサンドラの話を聞いていた。ある意味、今後の人生を賭けた勝負である。
「なるほど、勉強になります」
「言葉で思いを伝える勇気が無ければ、何かに託してはどうでしょう? 例えば花、花を贈られて嬉しくない女性はいません。それに、花言葉が思いを代わりに伝えてくれます。赤いバラなどは最適ですよ。花言葉はずばり『あなたを愛しています』ですから。ステキでしょう?」
「素晴らしい! いや、素晴らしい作戦ですよ、サンドラ様! 口べたな私にはピッタリの作戦です。やはり、乙女への悩みは、最初から乙女に聞くべきでした」
いや、中身は中年のオヤジである。
「では、次回のレッスンには、赤いバラの花束を準備しましょう」
「はい! ……ですが、花など買った事がありません。私には商品の善し悪しが判らないのですが」
「それならご心配なく。セイラ様の花園のバラが、今見事に咲いていますよ。お願いすれば分けてくださるでしょう」
「ええ? それではセイラ様に弱みを握られてしまいます」
「何かを得る為には、必ず何かが犠牲になります。この場合はブレードさんのプライバシーですね。やむを得ない代償です」
「おお、神よ……」
ブレードの何とも言えない表情に、サンドラとバザルは声を上げて笑った。
その時、三人は思ってもいなかった。
ダンスのレッスンが今回限りで打ち切りになるような事態が、これから起こるとは……。
☆
ダンスのレッスンは、セイラ王子には内緒で行われている。
来月末、エメラーダ家で行われるサンドラの婚約を祝う内々のパーティーで、サプライズとしてセイラ王子に女性のパートを踊らせてあげたいというのがサンドラの願いだった。
自室で一人、鼻歌を歌いながら女性のパートを踊っているセイラ王子を見た事があったからだ。
したがって、サンドラは男性のパートを練習している。バザルがパートナーを務めていた。
元々ダンスは苦手な鉄造モードのサンドラだったが、男性パートはやはりしっくりきた。目的がはっきりしているので、レッスンにも熱が入る。
一方、ブレードはサリーとお近付きになりたいだけだ。正直な所、ダンスは口実に過ぎない。
しかし、ブレードも運動神経は抜群である。素晴らしい上達を見せていた。
最後の曲を踊りきると、サリーはピアノの前から立ち上がって拍手した。
「サンドラ様もブレード様も素晴らしいです。バザルちゃんも、初心者とは思えないわ。どこのパーティーで踊っても、もう恥ずかしくないと思います」
サンドラは、息を弾ませながら応えた。
「ありがとうございます。サリーさんの教え方が上手だからですよ」
「そう言って頂けるとホッとします。身に余るレッスンフィーを頂いておりますので、責任重大ですから」
サンドラは、リリィにも声をかけた。
「リリィさんもありがとう。ブレードさんの相手をしてくれて。今日は足を踏まれなかったかしら?」
「とんでもございません。ブレード様も大変お上手になって、もう足を踏まれる事などございません。もし、足らない所があるとしたら、それはやはり押しの弱さかと」
リリィがイタズラっぽく言うと、ブレードの顔が瞬間で赤くなる。
それを聞いてサンドラも笑った。
「フフフッ。それについては私達も作戦があるので、次回をお楽しみに」
「それは楽しみです。それにしても、毎週グレンキャンベルに来れて、本当に幸せですわ」
「加えて、美味しいご飯も食べれるから、かしら? 下の階のレストランに昼食が準備されている筈なので、さあ、行きましょう」
「やったあ!」
飛び上がって喜ぶリリィをサリーがたしなめる。
「リリィったら、はしたないわよ」
「はーい、サリー姉様」
リリィは返事はするが意に介さず、バザルの手を引いてダンス場を出ようとした。
その時、ドアを開けたリリィの眼の前に、巨大な人影が立ち塞がった。
「ひいっ!」
思わず悲鳴を上げたリリィが後退りする。
だがそれは、大柄な者が多い近衛五人衆の中でも、最も背の高いマックスだった。
マックスは、身を屈めてダンス場に入って来た。
「お取り込み中、申し訳ございません。サンドラ様、宮廷より至急お戻り頂きたいとの事なのですが……」
マックスは、申し訳なさそうに背を丸めて言う。
「まあ、何てタイミングが悪いのかしら。わかりました、急いで戻ります」
ブレードが尋ねた。
「オレは?」
マックスは少し考えて答える。
「ご一緒が良いかと」
サンドラは、残念そうなサリーとリリィに向かって言った。
「サリーさん。お聞きの通り、宮廷に戻らねばならなくなりました。また来週お会いしましょう。リリィさん、私とブレードの三人前食べてくださいね」
そして、バザルから剣を受け取り、腰に戻す。
「バザルはお二人をよろしく。ゆっくりしてきていいわよ」
「承知しました」
外に出ると、宮廷の馬車が止まっていた。
「急ぐなら、裏門へ歩いて行った方が早いけど」
サンドラは言ったが、マックスは黙って馬車の扉を開ける。
中にはセバスチャンが一人座っていた。
「サンドラ様、道中ご説明しますので、どうぞお乗りください」
その顔色を見て、ただ事でないと直観する。
サンドラとブレードが乗り込むと、馬車は合図も待たずに走り出した。
「それで一体何事です?」
サリーとのひと時が邪魔され、当然ながらブレードは機嫌が悪い。口調にトゲがある。
だが、セバスチャンはいつものように冷静に答えた。
「順を追ってご説明致します。実は、サンドラ様とブレード様が出かけられた後、司教様のご一行が宮廷をご訪問なさいました」
嫌な予感がサンドラの脳裏を過ぎる。
「ベニーユキーデ大聖堂の?」
「左様でございます」
セイラ王子暗殺未遂事件の黒幕は、ベニーユキーデ大聖堂に潜んでいるとサンドラは確信している。だが、証拠不十分の今、教会へ乗り込んでもトカゲの尻尾切りで終わると考え、近衛五人衆に更なる調査を指示していた。
――それに勘付かれたか?
サンドラは思う。
ところが、次にセバスチャンの口から出たのは、予想を越えた驚愕の内容だった。
「司教様が仰るには、王都内に王太子様のご婚約者様は魔女であり、王家の皆様は魔女に騙されているという噂が広がっているとの事です」
サンドラが眼が点になる。
「えっ? 私が魔女……ですか?」
ブレードは烈火の如く怒った。
「何をバカな! 何を根拠に! 魔女などいる訳がないだろ!」
馬車の窓をコツコツと叩く音がした。御者台に座っていたマックスが車内に声をかける。
「ブレードさん、声が大きいですよ。車外に漏れています」
ブレードは悔しそうに歯を噛みした。それはギシギシと音が響く程だった。
その時、サンドラは理解できていなかった。ブレードの怒りの理由も、セバスチャンの悲愴な表情の理由も。
ブレードはセバスチャンに訴えた。
「そもそも一八世紀の今の世に、魔女狩りなどという前世紀の汚点がまだ存在していたのですか?」
「公的な裁判では、七年前にスイスで斬首刑になったアンナ・ゲルディという女性が最後です。しかし、小領邦では、私刑に近い形で未だに魔女狩りは続けられているようです」
「信じられない……ヨーロッパは未だ、そんな野蛮な地だったのか」
事情が飲み込めないサンドラは、おずおずと尋ねた。
「あの、私は魔女などではないですし、それを説明するだけの話では?」
ブレードがイラついた表情になる。
「サンドラ様が良家のご令嬢だと、久しぶりに思い知りましたよ。浮世離れにも程がある。いいですか、魔女裁判にかけられるという事は、生きては戻れないというのと、ほとんど同じ意味なんです」
「そんなバカな……」
信じられないサンドラがセバスチャンを見ると、セバスチャンは視線をそらした。サンドラは、ブレードの言葉が真実である事を知る。
「それにしても……」
セバスチャンは視線をそらしたまま言った。
「……稀に魔女裁判にかけられた貴族はいますが、通常犠牲者は貧しい者や社会的立場の弱い者です。ましてや、王族が魔女裁判にかけられるなど、前例がありません」
「だが、今のサンドラ様はギリギリ王族じゃない。始末するなら……」
ブレードの言葉をサンドラが続けた。
「今しかない」
ブレードとセバスチャンは黙って頷く。
「いずれにせよ、想定よりも敵は巨大で、陰謀は大掛かりのようです。先手を打つつもりが、打たれてしまいました」
だが、サンドラは胸を張った。
「しかし、我々はここから逆転の一手を打たねばなりません。王室の為に、ひいては国民の為に!」
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