第28話 エッジ参上
群衆が暴徒と化してバスティーユ監獄を襲ったというニュースが伝わると、多くの宮廷人がヴェルサイユ宮殿から逃げ出し、フランスを後にした。結果的に、それが命を守る最善の方法となる。
貴族としての誇りや責任を全うしようとした者の多くは、やがて凄惨な死を迎える。
ルイ一六世とアントワネットもそうなる筈だ。
閑散となった宮殿は、嵐の前の静けさを予感させる。国外逃亡するのであれば、このタイミングが最善である。
もしくは、即座に軍隊を動員して革命を弾圧し、首謀者達を皆殺しにすれば、多くの血は流れるが、自分と家族の命は助かるだろう。
だが、ルイ一六世は優し過ぎた。言わば善意の王であった事が、己と家族の身を滅ぼす結果に繋がる。現在、国王と王妃はヴェルサイユに留まり、その事はアルフレッサ王国にも伝わっていた。
アルフレッサ国王が、サンドラに尋ねる。
「これから何が起こる?」
「はい。一〇月にヴェルサイユ行進と呼ばれる、パリの主婦層を中心とした行進があります。もちろん、国民衛兵の後ろ盾があります」
「パリからだと? ヴェルサイユから二〇キロはあるぞ。行進だと片道五時間はかかる」
「参加する女性は七千人です。それだけ食糧難は深刻で、国民は怒っているのでしょう。その結果、ルイ一六世と家族はパリへ連行されます」
「信じられん……国王が国民に連行されるのか。天候不順も財政政策の失敗も、彼一人の責任では無いのに」
「ルイ一六世が国外逃亡を実行するのは、その二年後です。しかし、失敗します。全ては遅すぎました。それから一年半後、ルイ一六世は処刑されます。マリー・アントワネットが処刑されるのは、更に九ヶ月後です」
王家の居室に沈黙が流れた。
パーティーも晩餐会も無い日は、この部屋でフランス国王一家の救出作戦を考えるのが恒例になりつつあった。
しばらく黙って聞いていたセイラ王子が口を開く。
「つまり、一家を救出するなら、監視の緩い今の内という事ですね」
「そこで選択が二つあります。我が軍を動かし、国として救出に行くのか、秘密裏に少人数で動くか」
ケイン王子が腕を組みながら言った。
「しかし、頼まれもしないのに軍を動かしては、これから何が起こるか知らない国々から見れば侵攻にしか映らない。ここはやはり、秘密裏に動く必要がある……」
サンドラが頷く。
「そうです。隠密にルイ一六世と接触し、私達の言う事を信じて頂かなければなりません。それが一番難しいかもしれませんが。私の知る限り、ルイ一六世はまじめですが優柔不断、状況認識が致命的に甘い。後世で無能な王と評される要因です」
国王は渋い顔をした。
「無能な王……死んで後に、そうは呼ばれたくはないものだ。それでサンドラ、誰が何人で行く?」
「とにかく目立ってはいけません。人数はなるべく少なく、その分、腕の立つ者を揃える必要があります。まずは私と……」
王が諦め半分の顔をする。
「やはりな。そう言うと思ったよ」
「……アルフレッサ王国、最強である者の使命なのです」
「否定はせんさ」
セイラ王子がサンドラの腕にすがる。
「サンドラ様、あまりにも危険です」
サンドラは、聖母のような微笑みをセイラ王子に向けた。最近はこの表情が板に付いてきた。何を言うよりも人を黙らせる効果がある事を学習したのだ。
「心配ございません、セイラ様。サンドラは必ずセイラ様の所へ戻ってまいります」
セイラ王子は、眼に涙を溜めてこらえた。
サンドラはケイン王子を見る。
「それからケイン王子、ブレードさんをお借りしたく存じます」
「良い選択です。奴もフランスで血が沸く経験ができ、喜ぶでしょう。できれば私も行きたいくらいだが……」
「ゴホン」
国王が咳払いをしてケイン王子を睨んだ。
「……そうもいかないので、ブレードの活躍に期待しますよ。後は?」
「クラフトを連れて行こうと思います。メンバーはこの三名です」
国王が意外そうな顔をする。
「ジャンは連れて行かんのか?」
「はい。近衛五人衆は、クラフト以外は体格がモンスター級なので、一緒にいるだけで目立ってしまいます」
「なるほどな。確かにそうだ。ゴーレムが実在したら、ジャンの様な体格だろうて。だが、ブレード並の剣士をもう一人知っておるぞ。少人数で動くのなら、クラフトより確実に役に立つ」
「それは素晴らしい。で、そのお方の名は?」
「エッジという。そなたは知っているかな? セイラの先代の警護官だ」
☆
前世で、鉄造は一度だけ本気の恋をした。
蛍という名の遊女。その名の通り、はかなげな美しさを湛えた娘だった。
鉄造は生活を切り詰め、月に一度だけ蛍に会いに行った。鉄造の腕の中で、激しく身悶えた後の蛍に聞いた事がある。
「毎回、男に抱かれる度にその調子で達していたのでは、身が持たんであろう」
蛍は答えた。
「もちろんでございます。ですので、大切な方以外の時は、心に戸を立てるのでございます。達する事が無いように」
蛍も、鉄造に特別な感情を持っていたのだろう。
だが、別れは唐突だった。その日、遊女屋へ行くと、蛍はもう居なかった。
女将は言った。
「先月、乾様がお見えになった時、蛍の身請けの話はもう決まっておりました。蛍が、乾様には伝えないでほしいと言っておりましたので……」
思い当たる節ばかりだった。
先月、部屋に入ると酒と料理が準備されていた。
「たまには、わたくしにご馳走させてくださいな」
蛍は言ったが、鉄造の様な懐の寒い客には、まず有り得ない事だ。そしてその後、床では蛍の方が積極的に鉄造を何度も何度も求めた。
呆然とする鉄造に、女将は気の毒そうに続けた。
「本当は、先方様からはもっと早くと急かされていたのですが、蛍が最後に乾様がお見えになってからと……ですので、蛍は次の日にここを出て行ったのでございます」
女将は、鉄造から色々聞かれると思い、答を準備していた。だが、何も聞かれないので、自ら話した。
「お相手が誰か、決まりでお教えする訳にはいきませんが、大金持ちのあきんど様です。もちろん妾ですが、蛍は死ぬまでお金に困る事も、病気に怯える事もないでしょう」
江戸時代も末期になると、商売に成功する事で、経済的にはもちろん社会的にも下級武士より遙かに優位な立場の商人が現れる。新しい時代は、確実に近付いていた。
「幸せに……なってくれるでしょうか?」
鉄造の問いに女将が答えた。
「女郎が幸せになる事などございません。蛍が幸せになるとしたら、来世で乾様と一緒になる時でございましょう」
女将は、一本のカンザシを差し出した。蛍がいつも髪にさしていた物だった。
「蛍のお気に入りです。蛍はこれを、乾様をお迎えする時にだけさしていました。乾様に渡してほしいと……」
鉄造はそれを黙って受け取る。
「新しい娘が入っておりますが、遊んで行かれますか?」
「いや、今日は帰ります」
「それがよろしいかと……」
鉄造が遊廓に行く事は二度となかった。
蛍に会えない時間、今頃ほかの男に抱かれているのだろうかと、漠然と考えた事はあった。しかし、仕方の無い事と割り切れたし、嫉妬の感情も涌かなかった。
なのに、今のこの感情は何なのだろう。
たまらなく不安で、意味も無く焦る。心臓の鼓動は速く、脈打つ音が聞こえそうだ。
これが嫉妬というものか。
サンドラがこうなったのも、セイラ王子の表情を見たからだ。頬を赤く染め、眼の瞳孔は開き、唇が開いて口で呼吸している。
自分もこの表情で見つめられた事があるので知っている。セイラ王子が恋する相手を見つめる時の表情だ。
反対する意見も多かったのだ。セイラ王子があれほど夢中になってしまい、やっとの思いで引き離した相手を、再び近付けるのかと。
特にセバスチャンは強硬に反対した。今まで一度たりとも、王の意見に反対した事など無かったのにである。
セバスチャンは恐れていた。セイラ王子のエッジに対する恋心に再び火がつくのを……。
そして、その心配が大袈裟でも何でもない事を、サンドラは思い知っていた。
謁見の間で、王座の前に進み出たエッジは、ブレードを少し細くして、身長を少し高くしたような体格だった。だが、その眼は対照的で、情熱的で暑苦しいブレードに対し、エッジの瞳は涼しげであくまでクールだ。
エッジは片膝を着き、右手を左胸に当てた。
「陛下、お呼びに仕り、参上致しました」
国王は満足げに笑いながら答えた。
「おお、エッジよ。久しぶりだな。よく来てくれた。まあ、楽にしてくれ」
エッジは立ち上がり、顔を上げる。
サンドラと視線が合ったが表情を変えない。
頭にくる程のイケメンである。サンドラの胸中に憎しみが芽生えた。
「セイラ様、ご無沙汰しておりました。サンドラ様、お初にお目にかかります」
国王の左横に立つセイラ王子は、嬉しそうに声をかけた。
「ボクもエッジが元気そうで嬉しいよ」
だが、国王の右に立つサンドラは、黙ってエッジを睨みつけた。
国王は、サンドラが一言も発しないのを不思議に思ったが、言葉を続けた。
「エッジはサンドラに会うのは初めてだな。知ってはいると思うが、セイラの婚約者であり、次にこの国の王妃となるサンドラだ。よろしく頼むぞ」
「ハッ。お噂はかねがね。アルフレッサ王国で最も美しく、もっとも強い姫君と伺っております。失礼ながら半信半疑でございましたが、御前に立ち納得致しました。凄まじき殺気、先程から身が縮む思いでございます」
国王が意外そうな顔をする。
「ほう、やはりそういうものか。剣士には、剣士同士にか通じないものがあるのだな。余にはさっぱり分からんよ。ハッハッハッ」
「サンドラ様もエッジも、お互い達人だからでございましょう」
そう言いながらも、セイラ王子はエッジから熱い視線を離さない。その様子に、サンドラは奥歯を噛みしめた。
「それにしても陛下、ここに近衛兵が一人もいないという事は、人払いをなさったという事ですね」
「その通りだ。隠密に頼みたい事がある。引き受けてくれるか?」
「無論。陛下のお望みとあれば、地獄にでも参りましょう」
用件も聞かずに引き受ける侠気に普段なら感心する所なのだろうが、それがエッジというだけでサンドラには憎々しい。
「そう言ってくれると信じていた。フランスで革命が起きたのは知っているな?」
「はい。バスティーユ監獄が襲撃されたとか」
「その通りだ。今、ルイ一六世はヴェルサイユ宮殿にいるが、これから徐々に追い詰められ、数年後にはギロチン台の露と消えるだろう」
「確かに。フランス国民の狂乱振りから考えると、十分に考えられます」
エッジは察しが良く、頭も良い。それがまた、サンドラをイラつかせる。
「余はルイ一六世を助けたい。彼は実直で頭脳明晰だが、世渡り下手で不器用だ。また、先の戦争では、我が国はマリア・テレジアからの援助を受けたが、妃はマリア・テレジアの娘でもある。今こそ恩に報いる義務があるのだ。かといって、フランスに軍を差し向けたのでは、諸外国から有らぬ誤解を受けるだけだろう」
「そこで密かにフランス国王を助け行けと、そういう事でございますね」
国王は満足げに頷いた。
「ブレードと。そして、ここにいるサンドラと一緒にな」
クールなエッジの表情が驚きに崩れる。
「え? 姫君もご一緒に……でございますか?」
「もちろん。これ以上の適任者はおるまい。さて、余は次の謁見があるのでな、詳細はサンドラに聞くように」
国王が手を二回叩くと、近衛兵達が整然と入って来た。宮廷大臣も入って来て、次の謁見の準備が始まる。
セイラ王子は王座のある台から飛び降り、エッジに駆け寄る。
「エッジ!」
それをサンドラは呼び止めた。
「セイラ様! お待ちください!」
サンドラの大声に驚いてセイラ王子は振り返る。
台を降りたサンドラがセイラ王子に近寄る。
「国王様がおっしゃられましたように、エッジ殿とは急いで詰めるべき話がございます。セイラ様はお部屋でしばらくお待ちください」
いつにないサンドラの迫力に、セイラ王子は頷くしかない。セイラ王子はトボトボと自室へ戻って行った。
それを見送ったサンドラは、エッジに向き直った。
「さて。ではまず、貴殿の実力を見せて頂こうか」
そう言ってサンドラはニヤリと笑う。
その笑顔は、とても次期王妃とは思えぬ恐ろしいもので、エッジの睾丸はギュンと縮みあがった。
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