第16話 ラストダンスはあなたと

 現在では厳かに執り行われる婚約の儀だが、始まりは「この方は、やがて王妃になるので、間違っても手を出すなよ」という事を、世に知らしめす為にあった。従って、招かれる客人は伝統的に当主や次期当主といった者達になり、圧倒的に男性ばかりとなる。

 しかし、それではダンスの際に男女のバランスを欠くので、式典も後半になるとプロの女性ダンサー達が投入される。プロだけあって皆美しく、当然踊りも上手い。

 貴族にも人によりダンスの上手下手はある訳だが、プロのダンサーが凄いのは、下手な男性もそれなりに上手に見せてしまう所にある。

 社交ダンスで進行方向とステップを決めるのは男の役割だ。男性をリーダー、女性をパートナーと呼ぶ所以はここにある。

 だが、彼女達は上手くリードされているように見せかけながら、実は踊りをコントロールしているのだ。

 まさにプロの技である。

 エメラーダ公爵も、いつもなら美しいダンサーとのダンスを鼻の下を伸ばしながら楽しむ所だが、今日ばかりはそんな気になれなかった。

 式のフィナーレとなる、サンドラとセイラ王子の二人だけのダンスが心配だったからである。

 ――どうしてこんな事になったのだろう? 以前はどこのパーティーに行っても、サンドラと踊りたい男性の順番待ちの列ができるほどだったのに。プロ並み、いやプロ以上の腕前はどこに行ってしまったのか……。

 落馬のショックですっかり踊りを忘れたのだと言う。代わりになぜか、剣術が強くなった。

 誰でも上手く見せるプロのダンサー達が、今日に限って疎ましい。これではサンドラとセイラ王子のダンスがみすぼらしく見えてしまうではないか。

 運動神経抜群のケイン王子と違い、セイラ王子がそれ程ダンスが上手くないのは知られた話だ。セイラ王子の優れたリードは期待できない。

 今、公爵の前を、ケイン王子とダンサーが回転しながら通り過ぎて行った。ダンサーの恍惚とした顔が、ケイン王子の上手さを表している。

 ――ここでケイン王子が転んで笑いを取ってくれれば、サンドラ達も気が楽になるのに。

 そんな不謹慎な事を公爵は考えたが、当然現実になる訳も無く、ダンスはやがて終わってしまった。

 楽団は演奏を終え、今まで踊っていた者同士は挨拶すると、壁の方へと寄って行った。

 式場の中央に空間ができる。誰もが期待を込めてそこを見ていた。

 但し、エメラーダ公爵は緊張で胃が痛くなる思いだった。

 それ以上に緊張していたのがセイラ王子である。心臓は今にも口から飛び出しそうだ。

 サンドラはそれを察し、繋いだ手をギュッと握った。そして、余裕の笑顔で王子に言った。

「大丈夫、心配ないから。ぜんぶ私に任せて」

 セイラ王子は少し落ち着きを取り戻す。

「はい、サンドラ様。全てお任せ致します」

 二人が立っていた場所の対角線上にいたセバスチャンが、白い手袋をした右手を上げた。始まりの合図だ。

 サンドラとセイラ王子は、式場の中央へと歩き出す。

 喝采と拍手が鳴り響いた。

 中央に立つと二人は向かい合う。サンドラの右手とセイラ王子の左手を繋ぎ、軽く横に伸ばす。セイラ王子はサンドラの背中に右手を添え、サンドラは王子の右腕の上に左手を乗せた。

 セイラ王子の震えがサンドラに伝わってくる。

「大丈夫よ。大丈夫」

 サンドラは王子の眼を見て語りかける。

 王子は懸命に笑顔を作ろうとする。その表情に、サンドラの胸がキュンと鳴る。

 エメラーダ公爵が神に祈っていると、近くにいたダンサー達が話しているのが聞こえた。

「姿勢もホールドも完璧だわ。あのお姫様、上手いわよ」

 公爵は、サンドラに昔の勘が戻ったのではないかと、一るいの望みを覚えた。

 拍手がやみ、楽団が演奏を再開する。

 サンドラとセイラ王子も、ゆっくりと身体を揺らし始めた。

 そして、曲に合わせて、フロアを時計と逆回りに進み始める。ゆったりとなめらかにステップを踏む。

 やがて、曲に合わせて回転を始める。始めはゆっくりと、徐々に回転は早くなる。あくまで美しく、あくまで優雅に。

 観ている者達から一斉に溜め息が漏れた。プロのダンサー達ですら、二人の踊りに引き込まれている。

 式場の吹き抜けの二階では、サンドラに倒された五人の近衛兵が、警備と称して踊るサンドラ達を見下ろしていた。あそこまで強い人間が、ダンスまで上手い筈がない。そんな先入観があったからだ。

 早い話、つまずいたり転んだりして恥をかくサンドラを見て、やられた憂さを晴らそうとしていたのだ。

 しかし、当ては完全に外れた。宮殿に勤めていると、貴族が踊るのを見る機会は多い。サンドラとセイラ王子のダンスが、今まで見た誰の踊りより素晴らしいのは明らかだった。

 リーダー格のジャンが言った。

「参った。あのお方は、王妃になるべく生まれてきた方だ。俺はここに、命を懸けてサンドラ様にお仕えする事を誓うよ」

 一番背の低いクラフトも頷く。

「俺もだ。俺達だって、あの方の露払いくらいできるさ」

 サンドラが回転するとドレスの裾も広がり、二階から見ると赤い大輪のバラの様だった。


 セイラ王子は、今し方までダンスが嫌いだった。

 背が低く、腕力も弱いセイラ王子は、女性をしっかりホールドする事が難しいからだ。

 ダンスで女性を支えるのは男性の右手である。女性はその右手にもたれるようにして肩甲骨辺りから後方に反るが、非力なセイラ王子にはその体勢を維持するだけでも厳しい事だった。

 ところが、サンドラと踊る今はどうだろう。信じられないほど身体が軽く、まるで雲の上で踊っているようだ。重さなど、身体のどこにも感じない。どんなに速く回っても、右手に遠心力を感じなかった。

「サンドラ様、楽しいです! ダンスをこれほど楽しいと思った事はありません。まるで、鳥と踊っているようです」

 サンドラも笑顔で応えた。

「私もです、王子様。とても幸せで、もう思い残す事はありません」

「フフッ、思い残す事って、私たちの未来はこれからですよ」

 エメラーダ公爵は、見事なダンスを披露する二人を見てホッとしていた。

 ――やれやれ、何とか昔の勘が戻っていたらしい。

 プロのダンサー達も溜め息をついていた。

「ステキ……良いダンスを観れたわ。あのお姫様、体幹の筋肉をフルに使って王子様の負担を減らしている。そして神経を集中して、王子様の動きに同調しているの。天才……そうよ、天才だわ」

 上手な殿方はより上手に、下手な殿方でもそれなりに見せるのが仕事の彼女達の言葉である。それを聞いて公爵も満足げに頷いた。

 やがて曲は終わり、踊りもそれに合わせてピタリを決めて終わると、この日最高の拍手が起きた。それは、サンドラが思わず耳を塞いでしまう程だった。

 セイラ王子に手を引かれ、再び雛壇へと上がる。拍手は一層強くなった。

 笑顔で歓声に応えていると、急に水の中に沈んでいくような感覚に襲われた。周囲が、水槽の中から外を見ているように見える。

 ――時間切れね。最後まで踊り切れて良かったわ。

 サンドラの人格は思った。

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