第13話 二人のサンドラ

 その日は朝から雨だった。

 水滴が流れ落ちる窓ガラスを見ながらサンドラは呟く。

「雨は嫌いじゃない。心が落ち着く」

 今日は宮殿へ出向く為に学校を休んだのだが、何となく動きたくなくて、ソファーに座り込んだままだ。

 フランと数人のメイドが、昨日完成したばかりのドレスを持って部屋に入って来た。見た事も無いほど真っ赤でゴージャスなドレスだ。

 サンドラは驚く。

「えっ? そんなの着て行くの?」

 公爵令嬢だけあって、いつも高級そうな服ばかり着せられるのだが、このドレスが更に桁違いの高級品である事は、元貧乏侍である現在のサンドラにも分かった。

 フランは三面鏡の前で、メイクの準備を始める。

「もちろんです。国王様へのご挨拶とご婚約の発表なのですから、精一杯おめかししないと」

「雨よ」

「濡れるのは、馬車に乗る一瞬と降りる一瞬だけです。それも、私達が精一杯お守りしますので、ご心配なく。さ、そのモンペとか言う部屋着をお脱ぎください」

 サンドラは、シルビアに縫ってもらったモンペを脱がされ、下着姿にされると三面鏡の前に座らされた。三人掛かりのメイクが始まる。

 フランは、メイクをしながら涙を流していた。

「眼にゴミが入ったのなら、洗い流した方がいいわよ、フラン」

「違いますよ、サンドラ様……フランは嬉しくて泣いているのです。お屋敷にお仕えして十五年、幼い頃からサンドラ様を見守って参りましたが、こんなおめでたい日が来るなんて」

「ははは」

「今だから申し上げられますが、ここ数年、私はサンドラ様が恐ろしくて仕方ありませんでした。いつも怒鳴られてばかりで……しかし今、ようやくサンドラ様の真意がわかります。私達を一人前のメイドにするために、敢えて厳しくご指導頂いていたのですね。いつか来る、この日のために……」

 気が付くと、他のメイド達も涙を流している。

「……最近はすっかり優しく接して頂けるようになり、私達もようやく一人前と認められたのだと皆喜んでいます。サンドラ様が嫁がれても、私達がしっかりお屋敷をお守りしますので」

「ははは」

 一通りメイクが終わると、次は三人掛かりでドレスを着せられる。そして、最後にマリー夫人が入って来て、夫人自らサンドラに装飾品を付けた。

 それは、巨大なエメラルドのネックレスだった。

「これはね、エメラーダ家に代々伝わるネックレスなの。特別な時だけに付けるのよ」

 マリー夫人は幸せそうで、サンドラから一歩離れると、全身を見渡した。

「うん! とっても綺麗! 真っ赤なドレスに、透明なグリーンのネックレスが良く映えるわ」

「お母様。今日は第一王子警護筆頭の就任式でもあるのですが、この格好で大丈夫でしょうか?」

「もちろんよ。女の幸せとしてどちらが大事か、考えるまでもないでしょ」

 母は、どこまでも女であった。

「さて、お父様の所へ戻らないと。久しぶりに正装しているのだけど、あのヒトったら、太り過ぎてお腹回りのボタンが止まらないのよ。だから、あれほど事前に着てみるよう言ったのに」

 マリー夫人はメイド達と出て行き、サンドラはフランと二人きりになった。

「サンドラ様、どうぞお掛けください。長時間でも御髪が崩れぬよう、もう少し整えておきますね」

 サンドラは、再び三面鏡に向かって座る。

 そして、しばらく経った頃だ。鏡に映ったサンドラが、自分に向かって語りかけた。

「いい気なものですこと」

 サンドラはギョッとする。

「フラン! 鏡の中の私が喋った!」

「それは喋りますよ。鏡ですもの。サンドラ様が喋れば、鏡も喋ります」

「いや、喋らないのに喋ったんだ!」

「はいはい。緊張なさるのは分かりますが、落ち着きましょう。さあ、深呼吸して」

 深呼吸していると、再び鏡の中の自分が語りかけてきた。

「ちょっと、大声出さないでくださる」

 サンドラは鏡に映ったフランを見た。気付いていない。

 鏡の中の自分の声は、他の者には聞こえないようだ。

「そうよ、フランには聞こえませんわ。あなたの心に直接話し掛けていますの。あなたの声も、心の中で思うだけで私に聞こえますから。だって、私はあなたの中にいましてよ」

――信じられない……。

「ああ、それと、鏡の中の私が喋っているように見えるのは、私が見せている幻です。そちらの方が、あなたも話しやすいでしょ」

――君は誰だ?

「それはこっちのセリフですわ、偽物さん。私はサンドラ、本物のね」

――こいつは驚いた……自我を取り戻していたのか。

「結構前でしてよ。あなたが意識の表層に浮かび上がったのと、ほぼ同時くらい。何とか疎通を図ろうとしましたけど、ようやく方法が見つかりましたわ」

 サンドラはフランに言った。

「ありがとう、フラン。髪型は完璧よ。時間まで一人にしてくれる?」

 フランは、自分のセットの出来映えに満足したのだろう。機嫌良く答えた。

「かしこまりました、サンドラ様。どうぞ、おくつろぎください。お茶をお持ちしますか?」

「いえ、結構よ」

 フランが出て行くと、サンドラは改めて鏡に向き合った。

「さて、君は何がしたい? 何が言いたい?」

 鏡の中のサンドラは、悲しそうに答えた。

「それが、何もできませんの。何とか表層に出ようとしましたけど無理。あなたが上でつっかえているからね。言いたい事なら山ほどありますわ。まずはお礼かしら」

「お礼?」

「そう、悔しいけど。ここにいると色んなものが見えますわ。客観的に他人や私……というか私達というか、そういったものが見れましてよ。そして、あなたの記憶も」

「『公女シルビア』についてもか?」

「もちろん。私、あのまま行けば、監獄で一生を終える所だったのですわね」

「まあ、そういう事だ」

「それが、第一王子と婚約だなんて! あなた、凄過ぎでしてよ」

「俺は怖いよ。心は男、侍のままだというのに、将来は王妃だなんて」

「それは大丈夫。だって、私たちは文字通り一心同体なのですから」

「この先、君はどうなる?」

「さあ、わかりませんわ。私だって初めての経験ですし。最悪、私としての自我は溶けて無くなり、あなたの無意識の一部になるかもしれませんわね」

「君はそれで良いのか?」

「良いか、悪いかで言えば、良い訳ありませんわ。だって、その身体はサンドラ、鉄造ではありませんでしょ。ですが、あなたが意識の表層にきて、私も否応無しに影響を受けました。私、今まで自分以外の人を愛しいとか、有り難いとか思った事が有りませんでしたの」

「悪役令嬢だもんな」

「一言余計ですわ。まあ、その通りですけど。自分さえ良ければ、他人なんてどうでも良かった。でも、あなたは違いました。正義と忠義、そして弱い者を決して見捨てない仁。それが武士道ですのね」

「武士道が分かるのか?」

「バカにしないで頂きたいわ。私はあなた。そして、あなたは私でしてよ。だから、その身体、あなたに任せましてよ。そして、この国に武士道を広め、シルビアやセイラ王子と同様、民も幸せにしますのよ」

「……分かった。任せておけ」

 自信など無かったが、サンドラは鏡の中の自分にそう言った。

 その時、部屋の扉が開き、エメラーダ公爵が入って来る。

「おお、サンドラ。何と美しい。母さんに似てくれてありがとな。私に似ていたら、今回の婚約は絶対無かったよ。ワッハッハッ」

 腹回りのボタンが何とか閉まり、公爵は上機嫌だ。胸の勲章がジャラジャラと重たい音を立てる。

 そしてサンドラは、鏡の中の自分が、愛おしげに公爵を見ているのを見逃さなかった。

「お父様、鏡の中の私に向かって、もう一度言って頂けませんか」

「鏡に? 変な奴だな。もちろん何度でも言ってやるがな。今日のサンドラは最高に綺麗だよ」

 公爵はサンドラの後に立ち、鏡の中のサンドラに向かって言った。

 すると、鏡の中のサンドラが、ポロリと涙をこぼした。

「おいおい、こんな時に泣くもんじゃない。父さんまで泣いちゃうじゃないか……あれっ?」

 公爵はサンドラの顔をのぞき込んで驚いた。涙が流れていない。

「ありがとうございます、お父様。さあ、間もなく王宮からのお迎えが来る頃です。参りましょう」

 サンドラは立ち上がると、ドレスを揺らしながら部屋を出て行く。

 公爵は、妙な錯覚を見たものだと思いながら後に続いた。


 誰もいなくなった部屋の中では、鏡が涙を流し続ける優しい笑顔のサンドラを映し続けていた。



 馬車が宮殿に近付くにつれ、雨は止み、空は晴れ渡っていく。

「神も祝福されているようですな」

 セバスチャンが、空にかかった虹を指差しながら言った。

 公爵は、サンドラの耳元で囁く。

「ところでサンドラ、ダンスの方は大丈夫か?」

 昔から勉強はさっぱりだが、乗馬とダンスだけは上手な娘だった。子供の頃から、人前に出るような事は大好きだったのだ。

 ところが最近、誰にも習った事の無い筈の剣術が異常に強くなったかと思うと、あれほど上手かったダンスが素人同然になっており、それはダンス講師を絶望させる程だった。

 サンドラは不安そうに答えた。

「はい、何とか……」

 とても何とかなりそうな様子ではない。

 婚約の儀のフィナーレは、セイラ王子と二人きりのダンスとなる。何百人という来賓の前で、ダンスを披露するのだ。

 正直、絶望的なサンドラだったが、マッチョなのに物腰が女性的なダンスの男性講師から秘策を授かっていた。

「よろしいですか、サンドラ様。とにかく最初の方のステップだけで結構ですので、しっかり覚えてください。そこまで踊ったら、後は涙で何も見えない振りを装って、踊りをやめるのです。なーに大丈夫、お披露目のダンスではよくある事ですし、見ている方も、むしろ感動が高まりますから」

 そして、念を押された。

「ただし、本当に泣くのですよ。嘘泣きは見破られます」

 王宮の正面には、途轍もない数の人と馬車が集まっていた。国中から貴族が集まっているのだ。当然だろう。

 しかし、馬車は正面を通り過ぎた。

 セバスチャンが説明する。

「裏口へ回ります。サンドラ様は今日の主役ですので、なるべく幕が上がるまで人目につかぬようお願い致します」

 それから、感慨深い眼をした。

「セイラ王子のオシメを、わたくしが変えた事もございました……月日が経つのは早いものでございます」

 公爵も同じ眼をしていた。

「全くだ。昨日生まれたと想ったら、今日はもう嫁に行く準備が始まる。婚約でこれだ、成婚の時には号泣する自信があるよ」

 裏口は静まり返っていた。お迎えの使用人は誰もおらず、何とセイラ王子自らが待ちわびるかのように立っていた。

 馬車が止まると、セイラ王子が子犬にように駆け寄って来る。

 御者のアダムが馬車のドアを開けようとすると、王子はそれを制し、自分でドアを開けた。

 サンドラが馬車から現れると、その美しさにセイラ王子の瞳は輝いた。

「ああ、サンドラ様! 何とお美しい!」

「どうかサンドラとお呼びください。セイラ王子も、今日はとっても凛々しくて」

 さすがにセイラ王子も、今日は王家男性の正装をしている。だが、女装姿が印象に強いサンドラには、男装の麗人のように見えた。

 サンドラと眼が合うと、王子は恥ずかしそうに眼をそらした。

「先日は……お見苦しい所をお見せして申し訳ございません。それなのにボクの愛を受け入れてくださり、感謝の気持ちで一杯です」

 頬を赤く染めるセイラ王子を見て、サンドラは勃起した股間を隠そうとドレスの前を持ち上げ、全力で駆けて行く王子の姿を思い出して笑ってしまう。

「クスッ。こちらこそ、ありがとうございます。その……私のようなじゃじゃ馬を迎えていただきまして」

 サンドラの言葉に、セイラ王子はようやく笑顔を見せた。

 セイラ王子はエメラーダ公爵の方を向いた。

「よくお越しくださいました、お継父様。今日は長い一日になると思いますが、よろしくお願い致します」

「おお、セイラ王子に継父と呼ばれて感無量です。跳ねっ返りの娘ですが、どうかよろしくお願いします」

 セバスチャンが三人に声を掛ける。

「では、まずセイラ王子警護筆頭の就任式がございます。皆様、こちらへ」

 セバスチャンを先頭に歩き出した時、後からアダムが声を掛けた。

「あの、サンドラ様」

 サンドラが振り返る。

「お忙しい時に申し訳ございません。一言だけお礼が言いたくて」

「お礼?」

「へい。ケイン王子から伺いました。私らが暴れ牛に巻き込まれなかったのは、サンドラ様が予言してくださったからだと。サンドラ様は神様のようなお方だ。ありがとうございました」

 『公女シルビア』には、ケイン王子が大怪我をする事のみが書かれており、御者や従者がどうなったかについては述べられていない。しかし、車外の先頭に座っていた事を考えると、死亡していた可能性が高かった。

 つまり、サンドラはここでも『公女シルビア』の物語を大きく変えてしまった事になる。

 だが今は、人命を救えた事で良しとするべきだろう。

「皆様の元気が私の喜びです。こちらこそ、無事でいらした事に感謝致します」

 四人が宮殿内に入った時、公爵がサンドラに耳打ちした。

「おい、おまえが神様って、どういう事だ?」

 サンドラはしらばくれて答えた。

「そうですよね、普通は女神よね」


「こちらでございます」

 そう言ってセバスチャンが扉を開けた部屋は、国王の執務室だった。それなりに広いが、国王というイメージからすれば狭い。

 王といえども、事務仕事に広過ぎる部屋は非効率なのだろう。

 セイラ王子は遠慮なく入って行き、正面の大きな机の奥にいる貫禄のある男性に声を掛けた。

「父上、エメラーダ公爵とサンドラ嬢をお連れ致しました」

 国王は書類から顔を上げると、立ち上がって大きく腕を広げた。

「おお、よく来てくれた! 我が家族よ!」

 よく響く、太い声だった。

 エメラーダ公爵は右手を左胸に当て、深々とお辞儀をすると執務室の中へ入る。

 サンドラも、カーテシーをして父の後に続いた。

 部屋の両脇には役人や軍人らがズラリと並んでいたが、サンドラが部屋に入るとさわめきが起こった。サンドラの美貌やドレスを誉めると言うより、怖いもの見たさのざわめきに近いものだった。

「こんな場所で済まぬ。婚約の儀までに片付けないといけない書類が山ほどあってな。まあ、我々は家族になる訳だし、勘弁してくれ」

 国王の言葉に、公爵は再び頭を下げた。

「とんでもございません。我が王にお招き頂き、親子共々感激の極みにございます」

「公爵よ。あまり堅苦しい事を言うでないぞ。なあサンドラ、そう思わんか? いや、しかし美しい……王妃の若い頃を越えるな。あ……今の一言は内緒だぞ」

 気さくな国王だったが、さすがのサンドラも緊張していた。前世で言えば将軍慶喜に謁見しているようなもので、ひたすら額を床に押し付け顔すら上げられない所だ。

 本来なら笑うべきところなのだろうが、サンドラに気の利いた言葉など言える筈もなく、再びカーテシーをした。

 国王は、部屋の脇にいた、立派な軍服を着て立派な髭をした人物に向かって言った。

「なあ、近衛隊長。報告では、スルト(北欧神話最強の怪物)とテュポーン(ギリシャ神話最強の怪物)が合体した様だったとの事だが、その意見に変わりはないか?」

 近衛隊長が汗を拭き拭き一歩前へ出る。

「申し訳ございません、我が王よ。あの時は確かにその様に見えたのでございます」

「この美しさを見よ。失礼にも程があると思うぞ」

 数人の軍関係者が、恐る恐ると手を上げた。

「申し上げます……実は私も、あの時はそう見えました」

 国王は首を捻った。

「そなたらは、そろそろ老眼鏡が必要かもしれん。まあ良い、結果的には良かった。何といっても変人のセイラが望んだ相手だからな。どんなに恐ろしい魔物が来るか、実は内心ビクビクしておったのだ。ハッハッハッ!」

 大笑いする国王に、セイラ王子の頬が不満げに膨らむのをサンドラは見逃さない。

 セバスチャンが、豪華に装飾された盆を持って国王の横に立ち、静かな声でサンドラに言った。

「サンドラ様、どうぞ国王様の前へ」

 サンドラは怖じ気付いてしまい、すがるような視線を父親に送る。

 それに対し公爵は、いつもの優しい笑顔を返した。

――ああ、やはりこの方は、転生者の私にとっても父上なのだ。父上が見守ってくださっている。

 そう思うと、サンドラの心は軽くなった。

 サンドラが国王の前に立つと、王は盆の上の勲章を手に取った。

「これは、王家の者を専属として守護づる者に与えられる証だ。これを女性が胸にするのは初めてだし、公爵家の者がするのも、王子の婚約者がするのも当然初めてとなる。とにかく、今回は初めてずくしだ……」

 国王は、ゆっくりと室内を見回す。

「……しかし、我々は初めてを恐れてはいけない。新しい時代の幕開けは、必ず初めての出来事と共に訪れる。女より美しい王子と男より強い令嬢。余の常識では計り知れんが、この国の新しい扉を開くのは、間違いなくそなた達の若い力だ」

 王は、サンドラに勲章を差し出した。

「本来なら、そなたの胸に余が直接勲章を付ける所なのだが、そのドレスに傷を付けるのは忍びない。今回は手渡しとしよう。どうか息子を、そして、そなた自身を守ってくれ」

 サンドラは、勲章をうやうやしく受け取る。

「はい、お任せください。この命に代えまして、セイラ様と王室をお守り致します」

 力強い拍手が起こり、部屋中に響いた。

 国王は嬉しそうに頷く。

「本当に命に代えたりしないようにな。今日から、そなたも王室の一員なのだ。そしてセイラよ」

「はい、父上」

「おまえも、自分の婚約者を守れる位には強くなるのだぞ」

「お約束致します」

 セイラ王子も精一杯男らしく答えた。


 式が終わると、国王は再び書類との格闘に戻った。

「婚約の儀でまた会おう」

 執務室を出る時、国王はそうサンドラに声を掛けた。

 サンドラは、この日何度目かわからないカーテシーをした。

 部屋を出ると、エメラーダ公爵を大勢の軍関係者が取り囲む。

「どうかエメラーダ家秘伝の剣術のご教授を!」

「サンドラ様の強さの秘訣を、なにとぞ我らに!」

「公爵様の技を、ひと目拝見させて頂きたい!」

 こうなる事を、公爵とサンドラは想定していた。サンドラが事前に準備していた台詞を、公爵は廊下に響き渡る声で語り始める。

「申し訳ないが、エメラーダ家当主の私は、家訓により国王をお守りする時以外、例え自分の命が危なかろうと剣を抜いてはならぬ掟なのだ!」

 言っている最中に、公爵は自分の腰にある剣を引き抜く。

「あ、これは別だぞ。これはほれ、この通り模造品で衣装の一部だからな」

 そう言いながら、刃の部分を指でグイグイとさわってみせる。笑いが起き、殺気立っていた場の空気が緩んだ。

「だから、私の身は昨日まで娘に守らせるつもりでいたのだが、今日より第一王子の警護となる。これからどうしようかと悩んでいた所なのだ」

 再び笑いが起きる。

 サンドラの耳元でセイラ王子が言った。

「お継父様はさすがです。人の心を捕らえる話術に長けていらっしゃる。貴族として重要な能力です」

「はい。貴族としても、父親としても、尊敬しております」

 公爵は、言葉に力が入り出した。

「……私が言いたいのは、どんなに実戦さながらの訓練でも、それは実戦ではないという事だ。訓練に慣れすぎて、それがゲームになる事、それが最も危険なのだ。そこに足りぬもの、それが何か諸君らは分かるか?」

 誰もが首を捻る。

「一度しか言わぬので、心して聞いてほしい。それは、人の感情だ。死に直面した時の心だ。死を覚悟した時、人は何を思うか、諸君らは考えた事があるか?」

 思わぬ展開に、廊下は静まり返る。

「戦いは作戦室で行われるのではない。戦場で行われるのだ。その事と、その状況下にある兵士達の恐怖を決して忘れてはいけない。それを忘れぬ為に、我々エメラーダ家では古来、幼い頃に一晩を狼の支配する山中で過ごし、生還した者のみがエメラーダを名乗る事が許される事になっておる」

 一瞬で空気が凍り付き、ざわめきが起こった。

 だが、もちろんデタラメである。普通ならそんな話、誰も信じないだろう。ところが、サンドラの神憑った強さを知っている者ばかりである。エメラーダ家はそこまでやるのかと信じてしまう。

 調子に乗り、予定外のホラ話まで喋り出す公爵にサンドラは焦った。

「飢えた狼にとって、幼子は最高の餌だ。そんな生か死かの場面で、点取りゲームの技が通用しないのはご理解頂けると思う。百の戦術を知っている者より、一つの必殺技を身に付けた者が生き残るのだ」

 いよいよ話の核心かと、軍人達は手帳を取り出し、メモを始めた。

「エメラーダ家の剣を一言で表すなら『初剣を疑わず』となる。一撃必殺、髪の毛一本分でも良いから敵より早く斬り下ろす。ただ、それだけだ。先日のサンドラの闘い、私は見ていないが、それを見た方なら納得するだろう」

 どよめきが起こった。五人掛けでサンドラが振るった剣は、それぞれ一撃のみであった事を誰もが覚えている。

「こうも教えている。『剣を握れば礼を交わさず』と。一度闘いを始めれば、できるだけ実戦に近い精神状態に自分を追い込む為だ。諸君らに問う。狼が迫って来た時、敵軍が押し寄せて来た時、いつもの練習で使うフェイントや華麗なステップは役に立つか?」

 公爵の話が終わりそうにないので、セバスチャンが声を掛けた。

「サンドラ様、控え室へご案内します。そこでしばらくお休みください」

「あの、鏡のある部屋へ行きたいのですが」

「ご婦人の控え室ですので、壁の一面が鏡になっております。化粧直しの者を向かわせますか?」

「いえ、結構です。しばらく一人になりたいので」

「承知致しました。式が始まる前に声を掛けさせて頂きます」

 誰もが公爵の話に夢中だったので、セイラ王子はサンドラを抱き締めた。セバスチャンがさり気なく背中を向ける。

「サンドラ様、私は父上の代わりに会場の最終確認に行ってきます。また後程お会いしましょう」

「まあ、セイラ様。なんて頼もしい」

 そして、小声で付け加えた。

「頑張ってね、姫」

 嬉しそうに微笑むセイラ王子を、今度はサンドラが抱き締めた。

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