第5話 東洋の思想

 公爵夫人は、一度軽く咳払いしてから言った。

「コホン……サンドラ、ケイン王子とブレード様がお見舞いに来てくださいましたよ」

 シルビアは立ち上がると、両手で軽くスカートをつまみ上げ、優雅なカーテシーでご挨拶する。

 ところがサンドラは、スッーと流れるように床に正座すると、両手を前に鼻を床につけて平伏した。

 思いがけないサンドラの行動に、ケイン王子とブレードは呆気に取られる。

――なるほど、これが奇行か!

 二人は心の中で叫んだ。

 公爵夫人は両手で頭を抱え、シルビアは慌ててサンドラを立たせようとする。

「サンドラ様、ケイン様とブレード様にご挨拶を」

「わかっている。だからこうして……」

 サンドラは、頭を上げて気付いた。

――またやってしまった!

 ケイン王子とブレードは、笑いを必死に堪えている。

 前世の常識は今世の非常識。この国に床に座る習慣がないことを、今さらながらに思い出す。

 慌てて立ち上がったサンドラは、サンドラとしての記憶の中からカーテシーを選択し、ポーズを取った。身体が動きを覚えているようで、それなりに様になっていた。

「ケイン殿下、ブレード殿。本日は私のような未熟者が起こした事故の見舞いにお越しくださり、感激至極にございます」

 挨拶もそこそこに、猫なで声で胸を押し付けられることを覚悟していたケイン王子は、肩透かしを食らった感じだ。

「サンドラさん、お元気そうで安心しました。しばらく意識が戻らないと聞いて、大変心配していたので」

「ありがたきお言葉、痛み入ります。全てはこちらのシルビア嬢のお陰、感謝してもしきれません」

 サンドラが他人をほめるのを始めて聞いたケイン王子とブレードは、心底驚く。

 表情から、その言葉が皮肉や冗談ではないことがわかった。

「そんな、私なんて……」

 シルビアは、うつむいて頬を赤くした。

 マリー公爵夫人は、これ以上ボロが出ぬうちにと席を勧める。

「さあさ皆様、どうぞお掛けください。今、お茶の準備をいたしますので」

 その言葉に、王子が軽く手を上げた。

「実は、お見舞いに南アジアの珍しいお茶を持ってきました……」

 ブレードが、鞄の中から美しく輝く銅製のキャニスターを取り出す。

「……これは国王に献上されたもので、まだ我が国には流通していない茶葉です。その国とは今まで国交がなかったのですが、お互いに貿易を望んでおり、その際に重要になるであろう商品の一つが、この紅茶なのです」

「まあま、娘にためにそんな貴重な品を。本当にありがとうございます」

「いえ。食通のサンドラさんの、奇譚のない意見も聞きたかったので」

「今のサンドラが、お役に立てば良いのですが……すぐにポットとカップをご準備いたします」

 公爵夫人は、急ぎ足で部屋を出て行く。扉を閉める時に、シルビアに向かってこっそり手を合わせた。サンドラが変な行動を始めたら静止してほしいという合図で、その意味が理解できたシルビアは黙って頷いた。

 ケイン王子はサンドラとシルビアと向かい合う長椅子の中央に、ブレードは横の一人掛けの椅子に座る。

 ケイン王子が、サンドラとシルビアに尋ねた。

「お二人が、それほど仲がいいとは知りませんでした。正直、不仲だと思っていたので」

 サンドラは、ケイン王子に対して前傾姿勢になる。武士が、目上の者と会話する際に相手への敬意を示す姿勢なのだが、ケイン王子は人に聞かれたくなくて顔を寄せて来たのだと思い、自分も前傾姿勢になった。

「実を申しますと……」

 ところが、いつも以上の大きな声だったので、ケイン王子は驚いて仰け反ってしまうが、サンドラは気付かずに話し続ける。

「……仲が悪いと言うより、サンドラが一方的にシルビアさんの頭の良さや人柄に嫉妬していたのです。全く、愚かな人間です」

 ケイン王子とブレードは、再び驚く。今日は驚くことばかりだ。

 だが、異常なほど気位の高い公爵令嬢が、自分の非を認めたのだ。驚いて当然だった。

「愚か? 自分が?」

「はい。愚かとしか言いようがありません」

 ケイン王子は、考え込むように足と腕を組む。

「ふむ、面白い。ブレードはどう思う」

「兵が頭を強く打って、一時的な記憶喪失になることは少なくありません。部分的な記憶の欠損が生じることもあります。しかし、ここまで性格が豹変した話を私は知りません」

「だよな……サンドラ嬢、今はシルビアさんをどう思いますか?」

 サンドラは、少し照れくさそうに答えた。

「こんな菩薩のような女性、他にいないと思います」

 ブレードが尋ねる。

「ボサツ? それは何ですか?」

「慈悲の心を人の姿に現したもの……それが菩薩です」

「女神のようなものでしょうか?」

「そうですね。東洋の思想ですが、位置付けは近いかもしれません」

 ケイン王子が興味を示した。

「サンドラ嬢は、東洋の文化について詳しいのですか?」

「さあ、普通かと存じますが」

「ボサツを知るのは、この王国でサンドラさんだけだと思いますよ。ゼンとサドウについても説明できますか?」

「禅は無我に至るための修行です。己を見つめ、不必要な欲を消し去ることを目的とします。茶道は作法に従って、抹茶と呼ばれる粉末状の緑茶を飲みます。しかし、お茶を飲むこと自体が目的ではなく、たった一度かもしれない人との出会いを、かけがえのない時間にするための手段です」

 ケイン王子は目を丸くする。

「これは驚いた。私のサンドラ嬢に対する認識を改める必要がありますね。それらは、東洋の何という国の思想か知っていますか?」

「日本……ああ、外国からはジパングと呼ばれていたはずです」

「まいったな。ジパングの情報は近年もたらされたばかりで、私すら家庭教師から学んで間もないというのに。お父上であるエメラーダ侯爵の教育ですか。侮れない方だ」

「まあ……そのようなところです」

 ブレードにとっても衝撃だった。

「まさか、密かに英才教育とは……失礼ながら、本当にサンドラ様ですよね」

 サンドラは、なんと答えれば良いのかわからず、質問に質問で返してごまかす。

「私がサンドラでなければ、ここにいるのは何者でしょう?」

「なるほど、ゼンモンドウというやつか」

 会話が難解になっていき、シルビアは付いて行けなくなったが、サンドラの顔色から、好ましくない方向に進んでいることは察した。

 その時、扉が開き、メイドがティーポットやカップを運んで来る。

 これ幸いとシルビアは立ち上がった。

「あ、私がいれます。まあ、茶葉のままでもウットリするような香り。ケイン様は、もうこのお茶をお飲みになったのですか?」

「いえ、実は私も初めてで」

 話題が変わり、ケイン王子とブレードの関心が紅茶へと移った。

 シルビアがチラッと見ると、サンドラが両手を合わせて目で感謝を伝えていた。

 やはりサンドラとマリー夫人は親子なのだな、と思ったシルビアだった。

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