第5話 王立貴族学園
『公女シルビア』の主人公は、言うまでもなくシルビアである。
サンドラはシルビアをイジメる場面のみに登場し、普段は何をしているかなどの描写は無かった。
また、物語はシルビアとケイン王子のロマンスが主題であり、貴族社会での生活やしきたりの描写はあっても、その時代の政治や国際情勢については一切触れられていない。二人が結ばれた所でハッピーエンドとなるが、王国の実状から考えると、本当の試練は物語の終了後から始まるのが現実だろう。
サンドラは、外見的には十七歳の可憐な令嬢だが、中身は中年の貧乏侍である。今後について、具体的な三つの目標を立てた。
まず、物語の結末通りにシルビアとケイン王子を結ばせること。そこで問題になるのが、サンドラ自身の存在だ。
恋愛において、障害は起爆材のようなものだ。障害が有るが故に燃え上がる。そして、シルビアとケイン王子の恋愛において、その起爆材がサンドラである事は明白だ。
しかし、人格は中年侍のそれである今のサンドラに、性格も見目も麗しいシルビアをイジメる事などできない。しかも、それをすればサンドラは監獄送りになってしまう。
だが、かといって何もしなければ、シルビアの好意はサンドラに向いたまま。ケイン王子とは擦れ違ってしまう可能性が高い。
ここは何か一つ、対策を講じる必要があった。
次に、この王国に徳川幕府と同じ道を進ませない事だ。第一王子とケイン王子が、将軍家光と忠長の様な悲劇に突き進んではいけない。
それには一つしか方法は無いとサンドラは考えていた。ケイン王子を担ごうとしている集団を押さえ込むことである。
だがそれは、学生の身分であるサンドラには難しい。何よりも、先日見舞いに来てくれたケイン王子の態度からも明らかなように、今までサンドラは王子の信頼を得るに至っていない。
当然といえば当然である。それまでのサンドラは、一つ覚えのように豊満な胸で挑発を繰り返すだけの存在だった。この記憶が浮かぶ度に、鉄造の人格は腹を切りたくなった。
そして最後の計画は、サンドラ自身が監獄で一生を終える事なく、同時にこの世界の均衡も保ち続ける事だ。
サンドラは、自身の行動により、現実と物語に差異が生じる事を恐れた。そうなる事で、この世界に歪みが生じる気がしたからだ。
幸い『公女シルビア』の展開は詳細まで覚えている。表面だけでも物語をなぞりながら、最終的に丸く収める事はできないだろうか。シルビア暗殺未遂の表面をなぞる手段など、今は見当も付かないが……。
そんな事を考えながら、サンドラは一週間ぶりに貴族学園へ登校した。
「何て清々しい朝なんでしょう!」
シルビアは、まるで兎が野原を跳ねるように校舎へと続く道を行く。
「まあ、シルビアさん。転ばないように気を付けるのですよ」
サンドラはベッドを出てから三日間、マリー夫人とメイドリーダーのフランから、話し方も動作も粗雑になったとみっちりマナーの特訓を受けた。お陰で今では、何とか公爵令嬢っぽく振る舞えるまでにはなっている。
鉄造の人格も、今の姿で武士道を貫こうとするほど馬鹿ではない。気恥ずかしさも、三日あればかなり薄らいだ。
「だって、サンドラ様と登校できるなんて! 私、ずっと憧れていたんですもの!」
サンドラは、拳を握って感情が顔に出ないように耐える。
――何と可愛らしい娘だろう! いっそ王子などに渡さず、自分のものに……。
そんな気持ちが心をよぎるが、サンドラは令嬢らしく返した。
「私も同じ気持ちですよ、シルビアさん」
シルビアは頬を染めると、サンドラに腕を組んできた。
校舎に入ると、三人の令嬢が二人を囲んだ。
「サンドラ様、もうお身体はよろしいのですか?」
「お休みの間中、寂しくしておりました」
「あら、シルビアさん。なぜあなたがサンドラ様と一緒にいるのかしら?」
口々に話かけてくる。
この三人が、作中『悪役令嬢の取り巻き』と一括りにされて出てくる登場人物だと気付くのに、サンドラはしばらく時間がかかった。そして、三人とも芝居であれば主役級の美女であることに驚いた。文字だけでは伝わらない情報である。
鉄造が前世で面食いだった事は否定できない。今も美女に囲まれて気分は上々だ。
「ありがとうございます、皆さん。ご心配をお掛けしました。おおかた元気にはなったのですが、まだ少々心もとないので、シルビアさんに近くにいて頂いてますの」
三人とも笑顔だが、それがお愛想である事は伝わってくる。悪役令嬢から標的にされるのが怖くて、従順にしているだけなのだろう。
それでも、サンドラがシルビアを連れている事を取り巻き達は不思議に思っているようだ。あれ程イジメていたサンドラと、イジメられて泣いていたシルビアが一緒にいるのだから、不思議に思って当然である。
しかもシルビアはサンドラの背に隠れ、これでは知らない人が見たら、シルビアをイジメる三人からサンドラが守っている様ではないか。
別に彼女達にシルビアに対する特別な恨み辛みは無い。サンドラがイジメるので、それに同調していただけである。
「では、私はワッツ先生に先日のお礼を申し上げに行きますので」
そこで気分が良かったサンドラ……いや鉄造の人格がスケベ心を出す。一番近くにいた令嬢の頬に手を当てながら言った。
「セーラーさん、今日も青い眼がとっても素敵ですわ」
次に、隣の令嬢の髪を撫でる。
「メアリさんの様に艶やかな髪にするには、どんなお手入れをすれば良いのかしら。今度教えてくださいね」
それから、反対側に立っていた令嬢の腕をさする。
「ジュエルさんったら茹でた卵のような肌。殿方はきっと、この肌に夢中でしょう」
こんな調子で、歯の浮くような言葉を並べながら三人の身体を触りまくった。
「皆さん、また後ほど」
立ち去って行くサンドラを、うっとりとした眼で追いながら誰かが言った。
「……サンドラ様、変わったわね」
「ええ、以前からずば抜けて美しい方だったけど、それに凛々しさが加わって」
「とってもお優しくなった……」
前世の鉄造が、特に女性にもてた訳ではない。下級武士の常で、上司の娘との縁談はあったが、相手がはやり病で急死してしまい、結婚の時期を逃してしまう。
その後一時期、蛍という名の遊女に入れ込むが、やがて身請けされて女郎屋からいなくなり、その後は女と縁の無い生活を送った。
鉄造にとっては、まさかのモテ期到来である。但し、今や身体は女性だったが……。
その時だ。突然、二の腕に鋭い痛みを感じ、サンドラは飛び上がった。
「イテッ! 何事だ?」
振り向くと、シルビアが怒りの眼差しで睨んでいる。
「はて、もしかして今つねったのは?」
シルビアはコクリとうなずく。
「なぜ?」
「サンドラ様のエッチ。皆様の身体をあんなに撫で回して」
「いや、友達だからだよ。単なるスキンシップじゃないか」
「シルビアはして頂いてません! 皆様のように大人っぽくないからですか?」
――ああ、なんだ嫉妬か。
サンドラは、シルビアの肩を優しく抱いた。そして、耳元で囁く。
「私にとって特別なのは、シルビアさんだけですよ」
それだけでシルビアの機嫌は良くなり、再び兎のように跳ねながら歩き出した。
☆
騎士爵の出身とはいえ、六男ともなれば果てしなく平民に近い。
ワッツはその事実を受け入れ、貴族学園の教職につけた幸運を素直に感謝していた。
何しろ、戦争は当分起こる気配が無い。剣術と乗馬しか取り柄の無かったワッツに教師は適職で、何事も無く七年目を迎えようとしていた。
しかし、そこに油断があったのだろう。
高慢な公爵令嬢が男子でも難しい障害に挑戦すると言い出した時、失敗しても大した事にはなるまいと高を括ったのが誤りだった。実際、乗馬の腕だけは確かな令嬢だったからだ。
ところが、頭から危険な角度で落馬してしまう。ピクリとも動かず、呼吸が止まっていた。
ワッツは、自分の心臓も止まったかと思った。慌てて、軍隊で習った蘇生術を開始する。
胸骨圧迫を三〇回、人工呼吸を二回、これを永遠と思えるほど繰り返した。いや、本当は数分だったのかもしれない。だが、ワッツには永遠と思えるほど長い時間だった。
可愛い盛りの三歳の息子の顔が頭に浮かんだ。家族の為にも、職を失う訳にはいかない。
ワッツは、今まで生きてきて一番真剣だった。
公爵令嬢が自発呼吸を再開した時、ワッツは涙を流した。周囲は生徒を救った喜びの涙だと受け取ったが、本音は最悪でも解雇だけは回避できただろうという安堵の涙だった。
ところが、蘇生したものの令嬢の意識は戻らず、校医とシルビアという名のクラスメイトが同乗した馬車で屋敷へと戻る。
それから二日間は生きた心地がしなかった。
学園長に呼び出され、このまま意識が戻らずに公爵家から苦情があれば、君には即刻学園を去ってもらうと釘を刺された。ワッツは、真剣に自分の家の狭い庭でどれ位の野菜が収穫可能か計算した。
三日後、令嬢が意識を取り戻したとの連絡が学園に入る。
ワッツは胸を撫で下ろし、神に感謝した。
そして、今日から登校を再開するという。
あの高慢な令嬢の事だ。会えば自分の失敗は棚に上げ、ワッツを一方的にこき下ろすだろう。
しかし、ワッツは覚悟していた。
別に実際の戦闘だけが男の価値ではない。家族の為に理不尽に耐える事も、立派な父親の姿なのだ、と。
嫌な事は早く済ませた方が良い。
そう思ったワッツは、授業開始前に自分からサンドラに会いに行く決心をした。
職員室を出ようとすると、それを察した同僚の数学教師が声をかけてきた。
「ワッツ先生、大丈夫ですよ。少し嫌味を言われるだけです。僕なんかしょっちゅうですから。リラックスして行きましょう」
持つべきものは友だと心から思う。
「そうですね、嫌味は慣れてるし。では、行ってきます」
ところが、職員室を出た瞬間、鉢合わせしたのはサンドラだった。
「サンドラ様! 良かった。ご登校されたと聞いて、体調のお伺いに行く所でした」
サンドラは優雅にカーテシーでご挨拶する。
「おはようございます、ワッツ先生。私も先生を捜しておりました」
顔を上げたサンドラの眼を見てワッツは驚く。以前の底意地の悪い光が全く無い。
「この通り、先生のお陰で再び学園に戻る事ができました。先生は私の命の恩人です。このご恩を一生忘れる事はありません。父も感謝の品を先生に贈りたいと申しておりました。どうぞ、しばらくお待ちください」
言い訳の言葉は何通りも準備していたワッツだったが、感謝されるとは思っていなかった。
「そ、そんな……サンドラ様。私は教職者として当然の事をしたまでで、何というか、その……」
「ワッツ先生。私は先生よりご指導を賜る身。どうぞサンドラとお呼びください」
「いやいや、いくら何でも公爵家のご令嬢をそのようには……」
「シルビアさんから聞いております。先生が私を助けてくださった時、どれほど必死だったか。流れる汗を拭きもせず、先生の汗で私の胸に水溜まりができていたと。先生への感謝と尊敬は言葉では言い表せない程なのに、様と呼ばれてはもう太陽の下を歩けません」
サンドラの感謝は本物だった。ワッツが助けてくれなければ、前世、現世と続けて非業の死を遂げてしまうところだったのだから当然だ。
それに、前世で何度か蘇生術を試みた事があったので、その大変さとこのまま死なせてしまうかもしれないという追い詰められた精神状態は十分に理解できた。
対して、ワッツは自分が恥ずかった。この令嬢から罵られると、なぜ一方的に決め付けていたのだろう。
確かに、これまではいつも見下した態度を取っていた。だがそれは、真剣に教育に向き合っていない自分を見透かしていたからではないか?
その証拠に、必死の思いでやった蘇生に対してはこれほど讃え、今では尊敬しているとまで言ってくれるではないか。
「わかりました。お望みでしたら、これからはサンドラさんとお呼びしましょう。だけど忘れないでください。私もあなたから沢山の事を学びました。あなたも、私にとっての師なのです」
サンドラは、この教師の言葉に強く胸を打たれた。
「我以外皆我師、ですね」
ワッツも、自分の気持ちを短い単語に表したこの言葉に感心する。
「素晴らしい言葉です。どこでそれを?」
戦国末期から江戸初期を生きた偉大な剣豪、宮本武蔵の言葉だが、この国の者が知る筈もない。
「遠く東の国で剣の道に生きた達人の言葉です。謙虚に生きる事に人の向上があると説いています」
ワッツは自分の無学を恥じた。体育教師だからと言って、脳味噌まで筋肉であって良い訳がない。もっと本を読み、人の話を聞いて見識を広げなければ。
サンドラの隣で、サンドラをうっとりと見つめていたシルビアが急に言った。
「ワッツ先生。私もシルビアとお呼びください」
「クスッ、サンドラさんの真似ですか。いいですよ、シルビアさん」
二人はワッツに向けて一緒にカーテシーをすると、教室へと戻って行く。
ワッツはそれを見送りながら、今日のサンドラと同じ眼をした人物を思い出していた。
軍隊にいた頃、『戦場の狂犬』と呼ばれて英雄視されていた上官だ。当時すでに初老の域に入っており、狂犬と呼ぶにはあまりにも温厚な紳士だった。
その上官が、一度ワッツに話してくれた事があった。
「若い頃は、自分が生まれてきた事に何か意味があると思いたがるものだ。だが、戦場で人の死を見て、自分も死に直面すると、そんなものは無いとわかる。幻想さ。全ては偶然、神の気紛れなんだよ」
何かを悟ったようなあの眼を、僅か十七歳の少女もしていた。まるで、幾つもの死線をくぐり抜けてきた者のように。
その眼に東洋の神秘的なものを感じたワッツは、サンドラの後ろ姿にそっと両手を合わせるのだった。
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