春夏秋冬―夏―

 蝉の声がうるさいくらいに空から降ってくる。コンクリートに囲まれたこの土地のどこにそれほどまでの蝉がいるのか不思議なくらい、姿は見えないのに声が鳴り響く。

「朝から元気の良いこと」

私は部屋の窓から見える夏の景色に目を細め、見えない蝉に声をかけた。気温も高く、湿気も多い夏に、それでも私はクーラーの風が好きではなくて、窓を開けて扇風機の風だけで過ごしている。

「こんなに暑いんだからクーラーくらいつけなさい」

夫が帰ってきたとたん、そう言って窓を閉めた。さっきまでうるさかった蝉の声が嘘のように聞こえなくなる。

「クーラーの風が好きじゃないのよ」

この会話は何度目だろう。

「またそんなこと言って、熱中症で倒れでもしたらどうするんだ。俺は看病なんてしてやらんぞ」

暑さで苛立っているのだろうか、今日はいつも以上に口調が強い。

 結婚してもう五十年にもなる。なぜこの人と結婚したのかと問われたら、なんとなくとしか答えようがない。お見合いだったわけでもないし、かといって猛烈な恋愛結婚だったわけでもない。お互いに打算的に相手を選んで結婚しただけだ。子宝にも恵まれたが、息子夫婦と会うのは年に数える程度。最近は孫も大きくなり、受験やらで忙しいと言ってこの家に来る回数も減ってしまった。

「今日はそうめんでも茹でるか」

私がクーラーをつけられてふてくされていると夫が言った。きっと私の機嫌を取ろうとしてくれているのだろう。

「梅干しきらしてますよ」

私が言うと、夫はすかさず立ち上がり「買ってくる」と言って家を出て行ってしった。私は玄関扉の閉まる音を聞きながら、この人は昔から腰の軽い人だな、と、そんなことを思っていた。

 テレビの音が無言の食卓を少しは明るくしてくれる。私はその音を聞き流しながら夫が用意してくれた夕飯を食べる。夫の茹でるそうめんは柔らかい。それは年をとったからというわけではなく、昔から。結婚当初はもう少し茹でる時間を短くした方が美味しいのにと思っていたが、今はもう慣れてしまった。テレビの音にそうめんをすする音も加わる。

「はす向かいの橋本さん、熱中症で倒れたらしい」

夫はそうめんをすする合間に、何でもないことのように言う。

「いつですか?」

私は驚いて箸を持つ手が止まった。

「昨日の昼間って言ってたかな。今朝散歩してる時に娘さんがいたから珍しいと思って声をかけたら倒れたって聞いた」

「もっと早く言ってくれれば良かったのに。お見舞い持って行かなくっちゃ」

そう言ってふと今朝のことを思い出す。私を叱った夫は、散歩から帰ってきたところではなかったか。

「橋本さんところもクーラー嫌いでつけてなかったんだと」

夫はそう言ってずずず、とそうめんをすすった。

「だからですか」

私は納得して笑ってしまった。夫もそれで分かったらしい。うう、と唸るような返事をして黙ってしまった。私は倒れた橋本さんに悪いと思いつつ、だけど嬉しくなってふふふ、と笑った。

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