雨のゆりかご

 僕の一番最初の記憶は、たぶんまだ赤ん坊のころのこと。ゆりかごの中でゆらゆらと揺れていて、横を見ると優しそうな女の人が僕の顔を覗き込んでいて、ゆらゆらが小さくなると、女の人が再びゆりかごを揺らす。優しく、優しく。部屋の中に満たされているのはザーザーというノイズのような音だけ。たぶん、外で雨が降っていたんだと思う。僕はその瞬間、幸せだった。

 僕は生まれてすぐ、親に捨てられた。施設での暮らしを不満に思ったことはない。衣食住の全てがそろっていたし、僕にはそれ以上を求めるほどの欲はなかった。

「苦労してきたのね」

身の上話をすると必ずこう言われる。僕はこの言葉がピンとこない。自分の置かれた境遇が苦労だと思ったことがないからだ。だからそう言われた時、僕は曖昧に笑ってやり過ごす。肯定しても否定しても、相手が満足しないことを知っているから。

「私と同じね」

彼女は言った。彼女は孤独で、寂しがりやで、愛に飢えていた。

「あなたも寂しいんでしょ?」

彼女の孤独を、僕は理解できなかった。

「本当は愛されたいって思ってるんでしょ?」

彼女の求める愛を、僕は理解できなかった。

「君の愛は偽りだよ」

裸に近い服装で僕に迫る彼女に、僕は言った。

 僕の一番最初の記憶。ゆりかごを揺らしていた女の人が誰なのか分からない。母親だったのかもしれないし、施設の人だったのかもしれない。もしかしたら僕が記憶だと思っているだけで、自分の頭の中で作られた妄想かもしれない。だけど、あの女の人の視線、ゆりかごを揺らす手、雨の音。僕は愛されていたと思う。幸せだったと思う。たとえ偽りだったとしても、僕にはあの日の記憶がある。だから愛を知っているし、幸せを知っている。

「本当の愛は、愛されることを望まないことだよ」

そう言った僕を、彼女は強がりだと笑った。僕にはそれが、強がりに見えた。

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