第六十話 七海
薄暗い廊下に、一人の少女の足音が響いていた。
左右の壁には真鍮の把手が取り付けられた木製の扉が並び、市松模様のタイルが、天井のぼんやりとした洋燈の光を受けて、橙色に照り輝いている。長い、誰の姿もない廊下を、少女は無言で歩んでいた。
二つ縛りにした髪の毛、水色のパーカーに黒いミニスカート。冷たく表情のない眼は、ただ突き当りの壁にある重厚な扉をしか捉えていない。彼女こそが先日、藤野港の近くでユーストガールたちと対戦した、あのモンプエラの少女だった。
やがて扉の前に立つと、少女は手の甲でノックをした。重い音が響き、一瞬の沈黙ののち、低い老人の声が室内から聞えてきた。
「入り給え」
「失礼します」
少女はそう言いざま、真鍮の把手に手を掛けて、厚い扉を押し開いた。室内は廊下以上に暗かった。天井の燦びやかなシャンデリアが、その広く、天井の高い部屋の輪郭を、浮び上らせていた。部屋の二面の壁は本棚に囲まれており、その革の背に押された金文字が、洋燈やシャンデリアの光を受けて燦めいている。部屋の奥には大きな机があり、卓上燈がその椅子に坐っている、大柄な老人の姿を照らし出していた。
「失礼します」
少女は老人の元へと歩み寄っていった。少女の足音も、複雑な模様を織り込んだ絨毯に吸い込まれて、響くことはない。老人は身じろぎもせずに、机の上に置かれた何かの書物に視線を落していた。机上には金鎖のついた古い懐中時計があり、卓上燈の光を受けて、鈍い輝きを放っていた。
老人の頭は殆ど坊主に近く、側頭部に白髪が僅かに残されているに過ぎない。しかしその容貌は至って健康なように見え、老い耄れたといった印象を決して人に抱かせぬ姿を保っている。健康というよりも、精力に満ちていると言い換えたほうが妥当かもしれない。坐って書物を読んでいるだけでさえも、並々でないしぶとさと貪婪さとでも言うべきものが、体内から浸潤してきたかのように、老人の外面から感じられるのである。
少女は机の正面に立った。老人は眼を上げ、粘っこい口を開いた。
「調査に行ってきたということだが、何か進展はあったのかね」
「はい」と、老人とは対照的な澄んだ声で少女は答えた。「私たちに敵対する二つの集団を、藤野市内に於て確認致しました。研究所が解放したモンプエラを殺害しているのも、この集団による仕業でした」
「敵対する集団? どういうことかね」
「一つ目の集団は、第一世代のモンプエラの集まりでした。どういった理由によってこのようなことを行っているのかはまだ不明ですが、第二世代のモンプエラが活動する度、その場へ出向いて決闘を仕掛けているようです。合計で三人が確認されており、つまり第一世代の全員が集まったということになります」
「第一世代のモンプエラ?……なるほど」
老人は卓上の煙管を手に取り、深々と吸った。
「山内博司という研究員が、独断で野に放ったあのモンプエラか。発覚したときは結果的にいい材料となったから許したものの、結局は大きな禍根となったわけだな。ふむ……しかし一度許した罪業を、後から断罪することは好きではない。それは信義に悖ることだろう、なあ七海?」
「申し訳ございませんが、私などのような者では判断致しかねます」
七海と呼ばれた少女は答えた。
「はは、そう堅いことを言うな。まあいい。第一世代が問題行動を起しているのはわかった。それで、もう一つの集団というのは何なんだ?」
「はい。これも三人の少女による集団でしたが、詳しいことは未だにわかりません。杖のような道具を使って第二の姿に変身し、力を増大させる能力を持っているようでした。さながらモンプエラのようでしたが、確かに別物でした。自身らのことを、ユーストガールと名乗っているようです」
「ユーストガール……」老人は眉を顰めた。
「それから、もう一つ報告させて頂きたいことがございます」
何だ、と老人は問い、少女は姿勢を正して答えた。
「第二世代のモンプエラの中にも、人間の殺害を実行していない者が、少数ですが見受けられました。現在のところは大した脅威には成り得ませんが、これが第一世代と合流した場合、試験に更なる差し障りが出る可能性が考えられます」
「第二世代にまでか?」老人は訝しげに尋ね返した。「どういうことだ。既に共感能力を除去した状態でモンプエラを生成することは可能になっている筈ではないのか」
「恐らく、脳波測定による選別が不充分であったためであると思われます。今の研究所では共感能力が存在する場合でも、構わずに外界へと解放し続けているのかと」
「なるほど」老人の顔を一瞬、険しい影が過った。「俺の命令に研究所は従っていないと……そういうことになるな?」
「はい」と少女は答えた。
「確かに最近、細胞学研究所に対する締め付けは甘かったかもしれん。しかし不良品を野に放つことで、どのような弊害が生じるかもわからぬ奴が、まさか出てくるとはな。……七海」
「はい」
「これは細胞学研究所の責任問題になる。何人かを粛清する必要が出てくる筈だから、そのための準備を今からしておけ。そのために例のあれの開発が遅れても、それは仕方のないことだ」
「承知致しました。……因みに、例のあれ、とは何でしょうか」
「決っているだろう。『最強のモンプエラ』だよ。絶大な力を誇り、人類を蹂躙して、全世界、この地球を丸々と、俺たちの支配下に収めることのできるほどのモンプエラだ。現状ではあの二人がこれに当るが、我々は更なる高みを目指さなければならぬからな」
老人は深く椅子に凭れ、煙管をくゆらした。
「取り敢えずだな、ユースト何とかという三人については、正体を明らかにした上で、場合によっては抹殺する必要がある。第一世代についても同様だが、詳細が不明である分、三人組のほうを優先しろ。いいな?」
少女は深々と頭を下げた。
「はい、黒川様。何なりと仰せの通りに致します」
第一部 終り
黒猫少女亜紀 富田敬彦 @FloralRaft
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