第五十九話 粘着剤

 双方は知る由もないことであったが、桃香たちが交戦していた頃、亜紀たちは別の道路から藤野港の埠頭へと到着していた。港湾事務所の建物があるところで自転車を乗り棄て、そこから三人は岸壁へと向った。

 やがて冷凍倉庫と港内の海とに挾まれた、コンクリートの広い岸壁沿いの場所へと出た。以前に桃香たちが戦った場所である。辺りには人気はなく、ただ潮風だけが微かに吹いていた。

「確か、この辺りだったと思うんだけれど……」

 そう亜紀が呟きながら辺りを見廻したとき、冷凍倉庫の陰から、一人の男が走り出てきた。男は必死の形相で飛び出してきたが、亜紀たちの姿を認めると、立ち止って悲鳴を上げた。

「どうしたんですか、大丈夫ですか!」

 天音がそう呼び掛けると、男は安堵したように息をつき、しかし再び恐怖を思い出した様子で、背後を指差して叫んだ。

「化物が……化物がここへ来るんだ……」

「モンプエラか」と早穂が言った。

「わかりました、逃げて下さい」と亜紀が叫ぶまでもなく、男は一散に走り去っていった。残された三人が男の出てきた方向を睨んで身構えたとき、そこから一人の少女が姿を現した。

 赤いベレー帽を被ったその少女――オクトパスモンプエラは、亜紀たちの姿を目の当りにして、訝しげに眉を顰めた。

「何だ、お前ら」

「あなたが、人を襲ったモンプエラね」

 亜紀は慎重に敵と距離を置いたまま、半人態に変身した。同時に早穂と天音も変身したことが、視界の端で察知せられた。オクトパスは一瞬、驚いたように眼を見開いたが、すぐに酷薄な笑みを浮べた。

「ははあ、やる気だなお前ら……」

 オクトパスは空中に腕を差し伸べて、一本の長剣を召喚した。亜紀もすぐさま自分の長剣を取り出して、相手と対峙しつつ構えた。数秒間の沈黙ののち、同時に両者は突進した。剣の刃が、銀色の光を撒き散らしながら衝突し、亜紀とオクトパスは、相手を押し戻そうと剣の柄に力を籠めた。

 しかし力は拮抗し、ここで数秒の膠着状態に陥った。そのとき亜紀は、目の前にあるオクトパスの顔が、突然に不可解な笑みを浮べたのを見て驚いた。その意味を考える間もなく、相手の窄められた口から、突如として黒い液体が噴射された。

 墨汁のようなその液体は、驚きに瞠っていた亜紀の眼にまともに浴びせかけられ、彼女は小さな叫びを洩らして、思わず柄に籠めていた力を弱め、飛び退こうとした。そこへオクトパスはすかさず斬撃を与え、亜紀の身体を切り裂いた。亜紀は地面へと崩れ落ちた。

「亜紀さん!」

 必死に開いた亜紀の眼に、剣を振り上げて飛び掛かっていく天音の姿が映った。そこで初めて彼女は、半人態になった天音の姿を見た。

 艶やかで長い髪には変りはなかったが、その全身はその髪の色に似た、濃い茶色の服装で統一されていた。ブラウスにミニスカート、そして脚も茶色のタイツに覆われ、そして背中には光沢のある、何か翅のようなものが付いているのが見えた。そして何よりも目立ったのが、彼女の頭から生えている、二本の細長い触角だった。その触角は頭から上空に向って伸びた後、大きな山形を描いて、垂れていた。それを見た瞬間に、亜紀は彼女が何のモンプエラであるかを悟った。

「天音さん……」

 オクトパスは咄嗟に振り向いて、天音の斬撃を受け止めた。そして唸り声を上げながら押し戻すようにして振り払い、天音は悲鳴を上げて地面へと倒れた。腕力の点では、敵に及ぶべくもない様子であった。

 敵と味方とが分れた隙に、そこへ早穂が銃弾を撃ち込んだ。しかしその瞬間、オクトパスの胴体の左右から各々三本ずつ、計六本の触手が凄まじい勢いで飛び出した。暗赤色の、びっしりと吸盤の並んだその触手の一本が、早穂の銃撃を受け止め、表面を小さく抉られながらも、オクトパスの本体を守った。

「この間と同じか……」

 以前に交戦したシーアネモネを思い出し、そう呟くと早穂は再び銃を構えた。しかし相手の触手は、先日のあのモンプエラよりも、ずっと丈夫であるらしかった。幾ら早穂が銃弾を撃ち込んでも、その度に六本の触手に阻まれ、本体に命中させることができなかった。

 亜紀と天音もすぐに立ち上り、目の前に迫ってくる触手を剣で切り裂いて、本体へ迫ろうとするのだったが、いずれの斬撃も、先日のように触手を切断するまでには至らなかった。触手が幾ら傷付こうが、オクトパス自身は何らの痛痒をも感じないらしく、蠢く数多の触手の向うには、憫笑にも似た笑みがあった。

「そろそろ遊びもこれぐらいにしようか」

 迫ってきた一本の触手が、天音の胴体に忽ち絡み付き、持ち上げた。早穂が慌てて天音を捉えたその触手に銃を撃ったが、次の瞬間には早穂もまた、背後から迫ってきた別の触手に捉えられ、為す術もなく空中へ持ち上げられた。

「天音さん!……早穂!」

 亜紀は二人の元へと駆け寄ろうとしたが、残る四本の触手が素早く迫ってき、どうすることもできなかった。目の前の一本を斬り付け、高く跳躍して飛び退くことで、捉えられることだけは何とか免れることができた。しかしその先、どうするべきか亜紀にはわからなかった。

 そのとき、天音がふと思い出したように大声を上げた。

「亜紀さん、離れて下さい!」

 そして触手に捉えられたまま、彼女は手に持った何かを、空いている触手へと投げつけた。見ればそれは先程の話でも聞いた、スライムのような粘着剤だった。かなり水気を持ったその物体は、四本の触手の先端近くに、飛び散るようにして降り掛かった。

「何だこれは……」

 オクトパスはすぐさま、触手を振り廻して粘着剤を振り払おうとしたが、それだけで落ちる筈はなかった。慌てて触手同士を擦り付け合せ始めたオクトパスから亜紀へ視線を戻して、天音は片目をつむってみせた。

 亜紀は頷くと、長剣を握って飛び出した。オクトパスは触手で彼女を捉えようとしたが、既に粘着剤によって強力に触手同士は接着され、縺れ合ってしまっていた。その下をくぐり抜けて亜紀は走り、銀色に輝く剣を振り上げると、敵の胸へ、深々とそれを突き刺した。

 敵は驚愕の叫びを上げて倒れ、次の瞬間、大きな爆発を起した。

早穂と天音は、千切れ飛んだ触手に縛られたまま地面へと落下した。しかし本体の死とともに、触手は忽ちにして萎み、腐るように溶けて消えていった。二人は身体のあちこちをさすりながら立ち上った。

「亜紀!」

「亜紀さん、やりましたね!」

 辺りを覆う煙に咳込みながら立っていた亜紀は、早穂たちの声に振り返った。二人は駆け寄ってくると、笑顔を浮べて頷いてみせた。亜紀は辺りを見廻し、自分が確かに敵を倒したことを確かめて、安堵と共に二人に笑顔を返した。

「ありがとう、二人とも。私だけだったら、とても倒せなかった」

「いや、今回私は全然だった。鉄砲が効かなかったしね」そう言って早穂は苦笑した。「亜紀と天音さんの連携プレーだったね」

「そんなこと。でも天音さん、あれを投げてくれて本当に助かりました」

 亜紀はそう言ったが、天音はどこか決り悪そうな笑みを浮べた。

「お役に立てたなら嬉しいです。……でもばれてしまいましたね。私、この通り……ゴキブリのモンプエラなんです。コックローチモンプエラです。気持ち悪いですよね。お二人には嫌われたくなくて、だから隠してて……ごめんなさい」

「何も気にされることありませんよ」亜紀は胸の前で両手を振った。「私だって、全然そんなことは気にしませんし。天音さんは天音さんですから」

「そうですよ」と早穂も言った。

「本当ですか? 本当に、気にされずに私と付き合って下さいますか?」

「勿論」と亜紀は答えた。「でも……」

 天音たちは黙って、その言葉の続きを待った。

「でも、いつまでも敬語でやり取りするのは堅苦しくありませんか。これを機に、普通の友達同士として、話をすることにしませんか? お互いのことも呼び捨てにして」

「亜紀さん……」

 そこへ横から、早穂が口を挾んだ。

「いいね、私も敬語をずっと使うのは苦手だったしさあ。これからは早穂って呼んでよ」

「ええ……うん!」

 天音は初めて、そこで明るい笑顔を見せた。そして二人の顔を交互に見比べながら、感激の籠った声で言った。

「私の正体を知っても、そんな風に接してくれるなんて……凄く嬉しい。亜紀、早穂。これからもよろしくね」

「よろしくね、天音」

「よろしくー」

 亜紀は早穂と共にそう返し、天音に向って微笑した。

場の空気は俄かにほぐれ、新たな友人を得たのだという喜びが、身体に残っていた痛みを忘れさせた。それが天音たちも同様であることが、何故か彼女にはわかる気がした。共に戦った仲間同士は、強い絆で結ばれるものだからである。

 三人の少女たちは、屈託のない笑みを互いに向け合った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る