第五十五話 山内博司
土曜日、博司と会うことになった場所は、先週に天音と話をしたのと同じ、ウィステリア学院近くの喫茶店だった。
天音から亜紀に送られたメールには、「まだ警戒される気持も、当然お持ちのことと思われますし、多少は周囲の眼のある場所でのお話のほうが、安心されるのではないかと」考えて場所を選定した旨が記されていた。亜紀たちも特に異存はなかったので、その日、早穂と待ち合せてから、二人で店へと向った。
待ち合せ時刻は午後一時で、到着したのは十五分前だった。店内を見廻すと、奧まった場所にある四人掛けの座席に、天音が一人で坐っているのが認められた。向い合って腰を下ろしてすぐ、早穂は先週のことを謝った。
「ごめんなさい、天音さん。私、凄く失礼なことを……」
「気になさらないでください。動顚されるのは当然のことでしたから。私の打ち明け方が悪かったんです」
そう天音は鷹揚に答えた。亜紀は頻りに時計が気になった。
「あ、博司さん……」
天音が声を上げて首を伸ばし、亜紀たちは店の入口を振り向いた。
外光を背景にして、スーツを着た長身の男が立っていた。ごく普通のサラリーマンのようにしか見えない、平凡な顔立ちの四十男である。
これが、と亜紀は思った。この男が本当に、自分たちを作り出した、テロ組織に属する科学者なのだろうか。半ばは信じられない気持のままに、様々な思いが胸中を去来した。
博司は天音の挙げた手に気付いた様子で、真直ぐに亜紀たちのもとへと歩いてきた。そして座席の傍らに立つと、「初めまして、山内博司と申します」と名乗り、深く頭を下げた。
亜紀は早穂と共に立ち上ったが、すぐにはどう反応すればよいのかわからなかった。話を聞くことにしたとはいえ、この男を、ひいては黒川たちを、許したわけでは決してなかった。それでも亜紀は、通常の礼儀に則って、礼を返し名を名乗った。一拍遅れて、早穂も同様に挨拶した。
「天音さんに、大体のお話はお聞きしました」と、席に着いてから、亜紀は躊躇いがちに切り出した。「でもまだ、私たちにはわかりません。どうして私たちは作り出されなければならなかったのか、モンプエラとは本当は何なのか……そのことを、本当のことを、教えて下さい」
博司はうつむいて、氷水の入ったコップを両手で包み込むようにしていたが、やがて顔を上げた。
「北野亜紀さん、名取早穂さん」微かにその声は震えていた。「ようやく、こうして直接に話をすることができました。そのことに僕は、本当に感激を禁じ得ない……。君たちとは一度、どうしても話をしてみたかった……」
「博司さん……」
天音が慌てた様子で声を上げた。博司は眼を瞬き、声を詰まらせた。しかし大きく息をつき、気持を落着けた様子で、再び語り出した。
「君たちのことは……ずっと忘れなかったよ。そしていつか、こうして話す日が来るとも思っていた」
そして博司は、語り始めた。
……僕は十数年前、某国公立大学で細胞学を専攻する学生だった。この学問に興味を抱いたのは、子供の頃、猿のクローンが外国で開発されたというニュースをテレビで目にしてからのことだ。その時のことは今でも忘れられない。生き物を人類の手で作り出すことができる、そんな夢のようなことがあるのかと、熊本の田舎の小学生に過ぎなかった僕は、それから熱心に考え始めるようになった。
貧しい家庭で塾にも通うことはできなかったけれど、僕は勉強だけは得意だった。中学生になってからも熱心に勉強を続け、常に試験の順位では学年で一桁を維持することができていた。その頃には、将来は細胞学者になりたいという目標も明確に打ち出されてきていた。そして県内随一の高校に合格することができたし、大学も一浪はしたものの、無事に合格することができた。ようやく合格通知を見たときには、これで自分の細胞学者への道は、大きく拓けたのだという実感を嚙み締めたものだ。そして熊本から上京し、大学で学び始めた。
しかし、細胞学者への道は、僕がそれまで全然予想していなかった方向で厳しかった。いや、この言い方は適切でないかもしれない。問題は学者になってからのことだ。当時、理化学研究所の予算は国から相当に締め付けられていた。満足な研究もできないほどにね。研究員は皆雑務に追われている、君も相当な覚悟がなければ民間に就職した方がいい、そう先輩は言った。
そのことを僕は、進路を決める段になって深刻に考え始めた。それでも最初は、細胞学者になる意志を枉げるつもりはなかった。子供の頃からあれほど夢見てきた世界だ、ここで負けてなるものか、と強く思った。しかし郷里の家族のことを考えたとき、その決心は危うく揺らぎかけた。それまでは研究一筋で、随分と蔑ろにしてきた家族だった。しかし思えば、僕のここまでの躍進は、家族の協力なしには絶対に有り得なかった。これ以上更に迷惑をかけるか、それとも安心させてやるか……。僕は相当に思い悩んでいた。
そんな時、大学院を一人の男が訪ねてきた。そのときの名前を言っても仕方ないだろう、偽名だったのだから。聞けば大規模な農業を手掛ける大手企業の役員とのことで、現在、細胞学の研究者を募集しているとのことだった。聞けば給料も待遇もかなりよかった。僕は即座に承諾し、驚くほどにあっけなく、僕の進路はそれで決った。自身のそれまでの経験を活かした職に無事に就くことができたわけで、何だか信じられないような気がしたものだ。
職場である研究所に入って何ヶ月かしたのち、僕は自分がどういうところで働いているかを知った。この細胞学研究所は、決して普通の会社などではなかった。寧ろ会社はダミーに近い、世間の目を欺くための隠れ蓑だ。
そしてこれらを作り上げ、我々を細胞学の研究に従事させていた人間こそ、かの黒川義三郎だった。数年前に確かに死んだ筈の、あの黒川だ。彼は生き延び、のみばかりかアメリカを脱出して、日本でブラックローズを再建していたというのだ。そんな陰謀論のような話を、僕は笑って端から信じなかっただろう……この研究所もまた、ブラックローズに属する組織だ、などと聞かされなかったなら……。
初めに黒川という名前を聞かされた時、あの国際テロ組織の首領であったギサブロー・クロカワと、その名はすぐには結び付かなかった。初めて組織の真の姿を俺に教えた男は――そいつが研究所の所長だったのだがね――薄ら笑いを浮べながらこう言ったものだ。
――君はもう抜け出すことはできない。君もまた、裏社会に属する者の一員となったのだからね。今度俺たちが作るのは『モンプエラ』という合成生物だ……。
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