第五十四話 戦闘の狭間
「この間はごめん、急に出て行ったりしちゃって」
週明けの学校で、朝教室に入ってきた早穂は、真直ぐに亜紀の席までやってきてそう言った。土曜日の出来事のことを言っていることは、すぐに亜紀にもわかった。とはいえ亜紀も別に怒っているわけではなかったので、頷いて微笑してみせた。
「私さ……怖かったんだよね、話を聞くのが」
亜紀の前の席に腰掛けて、そう早穂は言った。「天音さんの話を、鼻から信じてないってわけじゃなかったんだ。でも、あのブラックローズの黒川がなんて……とは思って。真実味のある話だったらと思うと、怖くて反射的に逃げ帰っちゃった」
「その気持は、わかるよ」
亜紀は穏やかにそう答えた。あの出来事から色々と考えてはみたのだが、天音の話を聞くか否かは、やはり本人の決断に委ねるしかないように思われた。無理に引き留めて衝撃的な話を耳に入れさせ、結果として早穂が精神状態の均衡を崩したとしたら、その責任を負える自信は、亜紀にはなかった。
第一印象として早穂は、大雑把で磊落な性格であるように亜紀には見受けられた。しかし流石の早穂にも、過去に関しては繊細さを併せ持っていることがわかり、亜紀は密かに、一層の親しみをこの友人に対して覚えもした。
しかしともかく、天音が博司との対話の場を設けてくれることに関しては、早穂に伝える必要があった。亜紀がそのことを話すと、早穂はやや迷った様子だったが、それほどの間を置かずに、「うん、それなら話を聞こうと思う」と答えた。
「いいの?」
亜紀は反対に心配になった。博司がどういった人間であるのか、今のところは天音から聞いた僅かな情報でしか知り得なかったし、自分自身もモンプエラの研究に携わった彼に対し、感情を制禦し切ることができるのか、自信がなかったからである。しかし早穂は頷いた。
「うん。やっぱりいつかは、向き合わなきゃいけない問題だと思うから」
「そう」亜紀はそう答えたが、その言葉を聞くと、自分も何か安心させられるのを感じた。
「そうだね、一緒に行こう」
放課後になったら天音にメールを送らなければと思いつつ、亜紀はそう言った。そのとき離れた場所にいた奈緒が由依と共にやってきて、二人の間に割って入った。
「二人とも、土曜日の勉強会どうだったの? 捗った?」
「捗った、捗った」早穂は軽くあしらうような口調で答えた。「どこかの誰かさんがいたら、到底やかましくて集中できなかっただろうけどねえ」
「え、早穂そんなに集中してた?」
思わず口を辷らせた亜紀は、早穂に素早く目配せされて慌てて黙り込んだが、奈緒はそれを見逃さなかった。
「ははん、やっぱり早穂はそんなことだろうと思ったよ」
「何よ、見てもいないくせに!」
早穂と奈緒は常の如くどたばたと揉み合いを始め、亜紀と由依は苦笑しながら顔を見合せた。そのときふと亜紀は、由依の持っている本に目を留めた。
「ねえ、その本なあに?」
「これ?」と、由依は小脇に抱えていた、厚い本を机に置いた。「ヴィクトル・ユーゴーの『あゝ無情』よ。亜紀も興味あるの?」
「うん。でも読んだことはないんだ……名前だけはよく知ってるけど」亜紀は布張りの表紙を捲った。その本は世界文学全集の一冊で、丁度半ばの部分に、由依のものらしい栞が挾まれていた。「もうこんなに読んだのね」
「図書館のなんだけど、中々貸出期間中には読み切れないのよね」由依は微笑した。「昨日、延長してきたの。もうすぐ試験だし、全然読み進められてないんだけどね。最後まで行かずに返すことになるわ、多分」
「こういう長いのとなると買って読んだほうが楽だね」
「そうなのよねえ、でも駄目。最近物入りで金欠だから」
そう由依は答え、肩を竦めて笑った。
* * * * * *
その日の放課後、桃香は絵里と詩織と共に教室を出た。出てすぐのところで、背後から声を掛けられた。
「佐々井……桃香先輩!」
振り返ると、立っていたのは稲葉陽菜だった。そこに立って、彼女が出てくるのを待っていたらしい。桃香は不意を突かれたように思ったが、何か陽菜が話したそうな様子を見せているのを見て、背後の二人に声を掛けた。
「ごめん……、今日は先に帰ってもらえる?」
「ねえねえ、何なのあの子」詩織が悪戯っぽい口調で囁き掛けた。「桃香と、どういう関係なの?」
「ええと……」部活に入っていない桃香は、都合のよい言い訳を見つけるのに難儀した。委員会の後輩とでも言えばよかったのだろうが、咄嗟に機転が利かず、彼女は口籠った。詩織たちはそれを見逃さなかった。
「え、何? 言えないような関係?」
絵里がそう言い、詩織と顔を見合せて意味深長な笑みを浮べ始めたが、桃香は慌てて二人の背中を押して階段へと追いやり、とにかく帰らせてから、陽菜のもとへと戻った。陽菜は申し訳なさそうな表情で桃香を見上げた。
「すみません、先輩。大したことではないんです。ただ一言、謝りたいなと思って……」
「謝る?」と桃香は問い返した。「ああ、この間の……」
「はい……。あの、言い訳みたいに聞えるかもしれませんが、私……あれほどにモンプエラたちが、全く話の通じない存在であるとは、あの外見からはとても信じられなかったんです。彼女たちが殺人を繰り返していることは、前々から聞かされていたのに……」
「わかるよ」と、先に立って廊下を歩き出しながら桃香は答えた。「見た目だけは、私たちと同年代の女の子だからね。私も……戸惑いしかなかったけれど……」
「全てのモンプエラがそうなんでしょうか。まさしく碧衣先輩たちの仰る、『悪魔』とでもいうような……」
「そうなんじゃないかな」と、桃香は答えた。「私にはモンプエラの考えていることなんて、到底理解できない。まともなモンプエラなんて、存在するとは思えないな」
「そう、ですよね」
そう言って、陽菜は項垂れた。その姿を見ながら桃香は、自分たちにとってモンプエラは、恐ろしい化け物の姿をしていたほうがまだ救いがあったかもしれない、と思った。
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