第五十一話 赤いベレー帽の少女

 藤野港の片隅で、一人の老漁師が網の点検をしていた。場所は目の前に船が並んでいる倉庫前の岸壁で、辺りに人影はない。漁師は地面に網を広げ、破れがないかを丹念に調べていたが、何かの気配に気付いて、ふと顔を上げた。

 水際をゆっくりと歩いてくるのは、一人の少女だった。黒い半袖のシャツにキャップを深く被り、ジーンズのポケットに両手を突っ込んでいる。茶色の長い髪が、一歩毎に軽く揺れていた。

 老人は立ち上り、不審な目付きで少女を眺め廻した。彼から数メートルの距離を置いて、少女は立ち止り、顔を上げた。帽子の鍔に隠れていたその顔が、初めて日光に照らされ、露わになった。

「おい君」老人は険しい声を出した。「ここは関係者以外立入禁止だぞ、わかっているのか」

 少女はふっと笑みを洩らした。次の瞬間、その全身は光り輝き、老人は驚いて後ずさった。光が消えたとき、少女のキャップは赤いベレー帽へと変じて斜めに頭に掛かり、シャツは白いブラウスへ、ジーンズは白い輪の散る模様の描かれた、臙脂色のスカートに変貌していた。

 老人は信じられないものを見る表情で、眼を瞬いた。少女は脣の端を歪めて一歩踏み出し、次の瞬間、その胴体の両脇から、何本もの触手が皮膚を突き破るようにして飛び出した。それらは暗赤色を帯び、端から端まで、白い無数の吸盤がびっしりと付いていた。そして日光に照らされ光沢を放ちながら、蛇のように蠕動した。

 老人の上げた大きな悲鳴を聞きつけて、倉庫の扉が開き、一人の作業員が飛び出してきた。少女の身体から生えた触手は、その次の瞬間、腰を抜かした老人と、立ち竦んでいる作業員とに、同時に襲い掛かった。少女は作業員のほうを、見てすらいなかった。何とか逃れようとした二人は、忽ちにして触手の吸盤に吸い寄せられ、絡み取られて、空中へと高々と掲げられた。

「な、何なんだ……お前は……」

「オクトパスモンプエラ、だよ。弱小な人間くん」

 吸盤から分泌される毒液は、捕縛された二人の人間の身体を、やがてゆっくりと溶解させ始めた。白煙と共に犠牲者たちの身体は崩れていき、やがて老人の片腕が、ぼとりと地面に落ちた。最後には二人の身体は少女の触手に吸収され尽し、跡形もなく消え去った。

 オクトパスは満足そうに息をつき、脣の端を歪めて笑った。


* * * * * *


 稲葉陽菜は自室でベッドに腰掛け、深い溜息をついていた。

 あれから一週間が経ってはいたが、未だに前代という老人に連れていかれた、崇天教総本部で言われた言葉が、脳裡を離れなかった。

 そもそもの始まりは或る日の下校途中、突如として「あなたは戦う使命を与えられた者」などという声と共に、ユーストステッキというあの奇妙なステッキが、目の前に落下してきたことだった。あれは不可思議な出来事だった、と今でも陽菜は思った。黄色の宝石のようなものが埋め込まれたそのステッキは、何の前兆もなしに現れたのだ。そして辺りを見廻しても、誰の姿もないのにも関わらず、その不思議な女性の声は彼女に語り掛け続け、ステッキを持ち帰るように命じた……。

 そして先日の下校途中、陽菜は崇天教中野本部前で前代に声を掛けられ、「あなたは神の遣わされた天使です」などと訳のわからないことを言われた。そのままあれよあれよという間にあの怪しげな新興宗教の本部で、話とやらを聞かされることになり、実際に行ってしまったのだ。

 とはいえ単なる宗教勧誘であったなら、陽菜とてもそう簡単に本部へ行くなどという約束をしたりはしなかっただろう。決定的であったのは前代が、何故かユーストステッキのことを知っているような素振りを見せたことであった。そのことは言うまでもなく陽菜を驚かせ、彼らが何を語ってくれるかを知りたいという好奇心を抱かせた。そして彼女は、期待と不安とを半分ずつ心に抱きながら、崇天教本部へと向ったのである。

 しかしそこで受けた説明は、到底彼女を納得させるものではなかった。天使、悪魔、神の使い、そんな白井純洞の説明は余りにも空想的に過ぎた。見たところ神道に仏教を掛け合わせたような新興宗教であるらしいのに、そんな西洋的な概念を以て説明をされたことも、余りにちぐはぐに思われて、彼女の不信感を募らせた。

「でも……」と、ベッドに寝転びながら陽菜は呟いた。「生徒会長は、どうしてあんな宗教なんかに……」

 本人は憤慨した様子ですぐに出て行ってしまったので話は聞けなかったが、学園の女王として校内で恐れられているあの水野碧衣が、崇天教の熱心な信徒であるらしいという話は、あの日の帰り道に桃香から聞いていた。陽菜は桃香も信徒なのではないかと思っていたのだが、そのことを訊かれた桃香は、慌てふためいた様子で否定した。

 ――そんな、まさかまさか。私も陽菜ちゃんと同じように、訳もわからずここへ呼ばれてきただけだよ。

 その言葉を聞いて陽菜は安堵したのだったが、桃香さえがそんな関係でしかないとわかった以上、ユーストガールなるものについて、信用に値する話をしてくれる人間はいないわけであった。陽菜はそのことを思い、今後自分はどうすべきなのかと、遣る瀬のない溜息をついた。

 その時、首筋に痺れるような感覚が走り、唐突に脳裡に映像が浮んだ。それは藤野港の光景だった。赤いベレー帽を被った少女が、胴体から伸ばした何本もの吸盤の付いた触手で、二人の男を絡め取り、空中へと高々と掲げている。男たちは何かを叫びながら足搔いているが、触手は彼らを締め上げたまま動かない……。

 俄かには信じ難い、現実離れのした光景であったが、それはまさしく、今行われていることに違いないと、彼女は直感した。

 陽菜はユーストステッキを摑み、ベッドから立ち上った。今すぐに行かなければと彼女は思った。「戦士」として赴くという意識は稀薄ではあったが、襲われている人がいる以上、駆け付けぬわけにはいかなかった。しかし自分が、今から戦うことになるかもしれないという実感はまるでなかった。今自分がいるこの部屋はこんなにも静寂に包まれ、清潔で、クーラーの唸る微かな音だけが響いているというのに……。

 しかし彼女はそんな思いを振り払うように外へと飛び出すと、自転車に跨り、強くペダルを踏み出した。

 藤野港近くの道路に差し掛かった時、背後からベルを鳴らされた。振り向くと桃香と碧衣だった。

「あなたも感知したのね」碧衣は並走しながら陽菜を横目で見た。「あなたの活躍、見せて貰うわよ」

 人が殺されようとしているこんなときに、一体何を言っているんだろう、と陽菜は驚いたが、黙って頷いた。桃香という少女の顔をちらと見ると、特に驚いた様子もなく、無言で並走している。碧衣という人はいつもこんな調子なのだろうか、と陽菜は思った。

「いよいよ港よ」と碧衣が言った。残る二人は表情を引き締めた。

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