第五十話 流した涙

 天音は慌てて屈み込み、茂みの蔭から様子を窺った。

 少女は訝しげな表情を浮べてスコップを下ろし、足元を見下ろした。そして片足を上げようとしたが、驚くべきことに、少しも地面から持ち上げることができないらしかった。天音の投げつけたスライムのような物体が、強力な粘着力を発揮したのである。少女は悪態をつき、必死で足を動かそうとしたが、それは地面に固定されて微動だにしなかった。小学生はその隙によろめきつつ立ち上り、その場から逃げ出した。

 それを見て安堵に駆られると同時に、再び蘇った恐怖が天音を襲った。変身した姿のまま、踵を返して駆け出し、十数メートル先で住宅街の塀を曲ったとき、一人の男と衝突した。

 天音は三十代ほどのその相手の顔を見た瞬間、自分が異様な姿に変身したままであることに気付き、激しく狼狽した。しかし狼狽したのは相手も同じようだった。そのとき相手の男は、ひどく慌てた様子で、こんなことを口走ったのである。

 ――お、俺は怪しい者じゃない。研究員だ、君の敵じゃない。

「……それが研究員の、山内博司さんだったのです」と天音は言った。「きっとあの人は相当に焦っていたのだと思います。今思えば、あそこで自分の身分を明かさなければならない必然性などはなかったのですから。でもそのお蔭で、私は多くのことを知ることができました」

 天音はそこで息をつき、珈琲を一口飲んだ。亜紀は彼女の話の内容に、一つ思い当ることがあった。

「あの、もしかして、この間……モンプエラから私を助けてくれたのは、天音さんですか? 高架道路の下で……」

「ええ」と、天音は微かな笑みを、一瞬だけ浮べた。「最近になって、亜紀さんがモンプエラであることを知って驚きました。しかし真正面から自分のことを打ち明ける勇気も中々出なくて……あのときは私も、気配を感知して駆けつけました。殘念ながら、あの後は逃げられてしまいましたが」

「本当にありがとうございます。天音さんがおられなかったら、私は今頃……」

 深く頭を下げた亜紀に、天音は首を振って見せ、それから話の続きを再開した。

「今まで黙っていましたが、私も実の両親を知りません。十七年前、病院の玄関に遺棄されているところを発見され、養護施設へ入った後、今の家に引き取られました。お二人も、そうですよね?」

「ええ……」亜紀は早穂と顔を見合せ、答えた。「やはり天音さんも、そうだったのですね……」

「どこの施設ですか?」と早穂が尋ね、天音は答えたが、それは二人とは別の施設だった。その問答が交されている最中、亜紀は養護施設の小林から聞いた、脱走して行方不明となった女の子のことを思い出していた。しかしそれは明らかに天音ではなかったし、それよりも先に訊きたいことは山ほどあった。彼女は口早に尋ねた。

「私たちはやはり、その研究所で作られた存在であるということ?」

「ええ……」天音は口籠った。「その通りです」

「どうして? 何のためにそんなことをしたっていうわけ?」

 早穂は、敬語を使うことを忘れたようだった。感情を抑えてはいることがわかったが、片手でカップを強く握り締め、ストローで落ち着きなく紅茶を搔き混ぜているその様子からは、彼女が平静を失いつつあることがすぐにわかった。かく思う亜紀も、動顚して手が軽く震えていた。

「それは……、世界を征服するためです」

 亜紀と早穂は、再び無言で顔を見合せた。二人は天音の口から飛び出した思いも掛けない言葉に、同時に相手の正気を疑いかけたのであったが、しかし天音はそんな二人の様子を見て、慌ただしく付け加えた。

「本当のことです。たとえ、到底実現不可能な誇大妄想であるとしても……私たちが生み出された目的が、それであることに変りはないんです。何しろ、研究所を設立したのは……」

 天音は声を潜め、卓子越しに二人に顔を近付けた。

「……ブラックローズの、黒川義三郎なんですから」

「黒川……義三郎……?」

 亜紀はすぐには、天音の言葉を理解することができなかった。

「ブラックローズって、あのブラックローズ?」信じられないといった様子で、小さく叫んだのは早穂だった。「いや、そんなわけないじゃん。とっくの昔にそんなもの潰れて、黒川とかいう幹部だって、アメリカ軍に殺されたって、テレビでも散々……」

「生きているんですよ、黒川は」天音は早穂の視線を真直ぐに受け止め、断言した。「どのようにしてかは勿論私も知りませんが、彼は生き延びてアメリカを脱出し、今は日本に潜伏しているんです。ブラックローズも、彼によって秘密裡に再建されました」

「悪いけど」早穂は卓に頰杖を突いた。「荒唐無稽過ぎてね……」

「では名取さんは、他に私たちの現状を説明できる推測がおありなんですか?」天音の言葉は険を帯びた。「実際に私たちの身体には、常識では説明のつかないことが起っているんです。それをお忘れですか」

「まあまあ……」亜紀は険悪な雰囲気になりかかった二人の間に、慌てて仲裁に入った。「とにかく、お話を聞かせて下さい。私たちがどのようにして世界征服をするのですか? そして遺棄されたのも、世界征服のために……?」

「その辺は大分ややこしいのですが、説明します」と天音は答えた。「でも、私も全ては山内さんから聞いた話に過ぎませんから、恐らくいずれ、本人から聞いたほうがよいと思います。とにかく今から十七年前の冬、私たちは研究所で、モンプエラとして作られました。モンプエラという生物が作られたのはこのときが初めてで、いわば試作ということであったようです。作られたのは全部で五体ほどであったようですが、それら――つまり、私たち――は、悉く研究所の基準を満たしておらず、つまり、失敗ということが判明したそうです。そこで私たちは……」

「棄てられることになったってわけ?」と早穂が遮った。

「ええ、結果的には。黒川たちは当初、私たちを……」天音はうつむき、それから小声で、恐る恐るという調子で続けた。「殺処分……する予定であったそうです」

「なるほどね、私たちがどういった存在であるかってことはよくわかった」そう言って早穂は立ち上った。「ありがとう、私はこれで失礼するね。お話を聞けてよかった」

「待って、早穂!」

 鞄を手に取った早穂を、慌てて亜紀は呼び止めた。しかし早穂は小さく手を振ると、真直ぐに入口の硝子戸へと歩いていき、そのまま店外へと出て行ってしまった。亜紀は肩を落して再び席に着き、向い合う天音の顔を見た。天音は申し訳なさそうに口を開いた。

「すみません、衝撃的な話だということは私もわかっていたのですが……。もっと言葉に気を遣うべきでした」

「天音さんは悪くありませんよ。でも……私にとっても、確かに衝撃的ではありました。つまり私たちはテロのために作られた生物で、しかも失敗作であった……ということですよね……?」

 自分で言葉にしながら亜紀は、眩暈がするほどに気が滅入っていくのを感じずにはいられなかった。自分がモンプエラであることを初めて知ったとき、そして両親にいつかは会えるかもしれないという希望が潰えたとき、何という惨めな出生だろうと、涙を流さずにはいられなかったことを、彼女は思い出した。しかし幾重にも惨めさは重ね塗りされる、そんな事実にこれからも自分の心は耐えていけるのか、亜紀にはわからなかった。

 いつしか亜紀は、声を立てずに涙を流していた。

 天音は黙って手巾を差し出し、亜紀はそれで目尻を拭った。その間に、天音はポケットから手帳を取り出して頁を破り取り、アンケート用のボールペンで何事かを書き込んだ。渡されたそれを亜紀が見ると、携帯電話の電話番号と、メールアドレスが書かれていた。

「今日はこれで終りにしましょう。でもやはり、一度は博司さんにお話を聞いたほうがいいと思います。初めは私も、研究所の一員である彼のことを憎みました。でも、次第に印象は変っていきましたから」

 気は進まなかったが、亜紀はおとなしくそれを受け取り、自身も連絡先を紙に書いて天音へ手渡した。それから涙に潤んだ眼で、相手を見据えて尋ねた。

「天音さんは、平気なんですか……? 自分が、こんな存在であることを知っても尚……」

「未だに平気ではありませんし、運命を受け容れられたとも言えません。でも、もう……涙は流し尽しましたから」

 そう天音は答えて、寂しげな微笑を浮べた。

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