第四十九話 御廚天音
「私は数年前の或るときに、自分が周囲の人たちと、違う存在だということに気付いたんです」
珈琲のカップを皿に置くと、天音は静かに語り始めた。亜紀は卓子の天板から視線を上げ、早穂は紅茶を一啜りしてから、相手の話に耳を傾けた。
三人は結局ハンバーガー屋で昼食を摂ることになったのだが、その店はウィステリア学院の生徒で混雑しており、落着いて話ができる場所ではなかった。そこで食事を終えた後、三人は近くの喫茶店へと移動することにしたのだった。薄暗い店内には客は疎らで、案内された席も奧まった場所であったので、人目はそれほど気にしなくても良さそうだった。
天音は言葉を続けた。
「あれは、小学六年生のときのことです。そのときは本当に、自分の身体に何が起ったのか、全然わかりませんでした」
「小学生?」と亜紀は目を丸くした。「私たちの中で一番早い」
「本当だね。……何かきっかけが、あったんですか?」
早穂の問いに、天音は頷いた。
「ええ。あれは学校の帰り道でのことだったんですが……」
……その日、天音は一人で下校していた。住宅街の、余り人気のない一角に差し掛かったとき、そこに立っていた一人の男が、彼女に声を掛けてきた。キャップを被り、薄緑のジャンパーを羽織った、四十代ほどの男だった。
――ちょっとごめんね、浅間神社への道がわからないんだけど、お嬢ちゃん、知ってるかな?
浅間神社と名の付く神社の名を、天音は確かに知っていた。そこで親切に、普段は余り人気もない、その近所の神社への道を男に説明した。男は頷きつつ聞いていたが、説明が終ると、苦笑に似た笑みを浮べて首を傾げた。
――ごめん、やっぱりちょっとわからないから、案内してもらってもいいかな? 不慣れな土地でね。
その言葉を聞いて、天音は不安が兆してくるのを感じた。この得体の知れない男と、助けを求めるのが難しい場所に行くのは流石に憚られた。
――私、急いでるので、失礼します。
そう言って足早に立ち去ろうとしたとき、背後から突然、右手首を摑まれた。天音は戦慄して振り返った。男は笑みを浮べ、荒く息をついて、顔を彼女に近付けた。天音は手首を握り締められるのを感じながら、恐怖で固まっていた。
――待ってよ……急いでるなんて酷いこと言わないで。
ね? と言いながら、男はもう一方の手で天音の左肩を摑んだ。天音は口も利けず、ランドセルの横に下がっている、防犯ブザーの存在も忘れていた。足が竦んで逃げ出すこともできない天音の肩を、男は強く引いた。異変が起ったのはそのときだった。
天音は突然、視界が白く霞むのを感じた。しかしそれは霞ではなく、自らの身体が放った、強く白い光だった。男は彼女から手を放し、驚愕の表情を浮べて身を引いた。天音もまた、すぐには何が起っているのか理解できなかった。しかし自分の身体を見下ろしたとき、そこに今まで知悉している筈であった自分とは全く別の姿――どのような姿であるのか天音は詳しくは語らなかった――を見出して、彼女は激しく狼狽した。
そのとき、俄かに恐怖を感じたらしい男が、叫び声を上げて殴り掛かってきた。天音はまだ動ける状態になかった。反射的に顔を逸らしながら突き出した手が、男の拳を受け止めた。しかしそれは、まるで冗談のように、力の入っていない打撃だった。
そのことを不思議に思う間もなく、天音は夢中で男の手首を握り締め、投げ飛ばすようにした。自分が無力であることを知りつつも、そうして男を転ばせるつもりであったのだが、そのとき相手の身体は、思いがけなくも宙を飛んだ。そして石塀に叩きつけられ、地面へと崩れ落ちて動かなくなった。気を失った様子だった。
天音には何が起ったのか、全くわからなかった。そして気が付けば自分の姿も、元の人間、元の女子小学生のものに戻っていた。しばらく彼女は茫然と立ち竦んでいたが、俄かに底知れぬ恐怖に襲われ、駆け出した……。
「これが私が、初めて変身した顚末です」そう天音は言った。
「でも……」亜紀は思わず、口早に口を挾んだ。「それだけでは自分の身に何が起ったのか、全然わかりませんよね。モンプエラという名前も……そういった知識は、どこで手に入れられたんですか?」
「それは……」天音は再び躊躇った様子だったが、答えた。「その後に私、実際にモンプエラの研究に携わっている人と知り合ったんです。つまり、モンプエラの研究所の、所員という人に」
「研究所の所員?」
早穂が小さな叫び声を上げて腰を浮かしたが、すぐに我に返り、店内を不安げな表情で見廻しながら再び椅子に腰掛けた。亜紀は叫びこそしなかったが、衝撃を受けて、話の続きを促した。
「いつ、どうして知り合ったのですか? どんなお話を?」
「つい最近のことです」と天音は答えた。「今年の初め、私が変身したときに、彼は現れました」
「変身したんですか?」亜紀は驚いて聞き返した。「何故?」
「モンプエラが現れたからです」
天音の話によると、それは下校途中の出来事だった。その日、彼女は一人でいつものように家路を辿っていたのだが、或る瞬間突然、何か異様な気配が迫っていることを直覚した。それは今までに感じたことのない、奇妙な感覚だった。戸惑いながら立ち止った天音は、次いで響いた子供の悲鳴を聞き取って、反射的に駆け出した。
向う先にあったのは公園だった。そして駆け付けた彼女は、片手にスコップを握って、逃げる子供を追う、一人の少女の姿を園内に見出した。息を呑んで立ち止ったとき、カーキ色の軍服のような服に身を包んだその少女の腰から、薄く毛の生えた、尻尾のようなものが伸びていることに気付いた。目の前で展開されている理解のできない光景に、天音は眼を瞠って一瞬間身動きができなかったが、恐怖に怯えた子供の表情から、彼に危険が迫っていることは明らかだった。
変身しよう、とそのときに思ったのではなかった。ただ、助けなければ、という思いだけが、瞬間的に天音の心に充溢したのである。しかし次の瞬間、天音の身体は光り輝いた。彼女はそこで初めて、「この姿」に変身すれば、嘗て不審者の男を撃退したように、あの小学生を襲っている少女を止められるのではないかと思った。
しかしこのときも、天音の足は竦んで動かなかった。どうにかしなければ、と思いながら、足搔くように空中に腕を伸ばした彼女は、瞬間、空中から光り輝きながら、何かが現れたことに気付いた。それは水色をした、小学生の時分に夏休みの課題で作ったスライムのような、奇妙な物体だった。茫然とする天音の掌に、その大きなスライムは落ちた。
何が起ったのか全く天音にはわからなかったが、ともかく反射的に腕を大きく振り上げ、そのスライムのようなものを、スコップを持った少女へと投げつけた。そのとき少女は、腰を抜かした小学生へと向って、大きくスコップを振り上げたところだった。正にそのとき、天音の投げたものは、その足元へと命中し、潰れる音を立てて四散したのである。
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