第四十三話 都美子
消燈後の暗い廊下を、非常口と表示された緑色の光だけが照らしていた。
その廊下をただ一人、靴音を響かせながら歩いている者がいた。歩みにつれ、身にまとった白衣の裾が揺らめく。それは眼鏡を掛けた、三十代ほどの女だった。
廊下の扉はどれも閉ざされていたが、女はその一つの前で足を止めた。表示板に書かれた室名を確認すると、ノックはせずにそのままノブを廻した。開かれた扉の隙間から、室内の光がにわかに廊下に溢れた。
「あれ、都美子さん」机に向って坐っていた男が、物音を聞いて振り返った。「まだ残っておられたんですか?」
「一区切りつけて帰ろうと思ってたら、こんな時間になっちゃってね」
女は空いていた椅子に腰掛けて、部屋の中を見渡した。さほど広くないその部屋は、半分が書類や様々な機器を詰め込んだ棚に占められており、残りの半分には水槽や顕微鏡、その他細々としたものが雑然と置かれた卓子と机とが置かれていた。人間が動くことのできる空間は殆どない。
「博司くんこそ、大丈夫なの? こんな時間まで研究を続けて」
都美子はからかうような、しかし心配する口ぶりで言った。しかし博司の方は再び机の上の顕微鏡を覗き込みながら、無愛想に「大丈夫ですよ」とだけ答えた。
「本当に? 随分とお疲れみたいだけど」
「研究は楽しいですから、特に最近は。疲れなんて感じませんよ」
「本当にあなたって……。羨ましいわ」
「何がですか?」
博司は顕微鏡から目を離し、訝しげな表情で振り返った。
「そんな風に、楽しんで研究していられることよ。私だってこれまでは、この道しかないという思いで楽しくやってきたけれど、最近は徒労感ばかり感じるもの」
「この仕事で徒労感なんてものを感じていたら、どんな職業を選ぼうともまるで仕事する気が起きなくなるんじゃないですか、都美子さんの場合は」博司は苦笑を交えながら言った。「元気を出して下さい、我々が携わっているのは、間違いなく世界最先端の研究なんですから。世界中どこを見渡しても、我々ほどの水準に到達している研究機関なんていうのは一つたりともありませんよ」
「それはわかっているけれどね」都美子は眼鏡を外し、疲れたように眼を軽く擦った。「でも私たち、名声が得られるわけではないじゃない。……勘違いしないでよね、別に名声が欲しいというわけじゃなくて、私の謎の徒労感の原因を解明しようとしているだけなんだから」
「名声、ですか。僕はこれだけの研究環境を得られればそれだけで言うことなしですけれどね」博司は腕を組んだ。
「何故あの人が研究のことを門外不出の秘密にしているのか、謎よね」
「しかし以前、こうも仰っていたわよ。……いずれは全世界が、君たちの生み出したものに刮目し、驚愕する日が必ず訪れる、と」
「来るべき日までは待て、ということなんじゃないでしょうかね」
「そうかもしれないわね」
都美子は胸ポケットを探って煙草の箱を取り出そうとしたが、博司はそれを素早く見咎めて「煙草は喫煙所で吸って下さいよ」と言った。
「あら、無意識に吸おうとしてたわ。危ない危ない」
「僕、思うんですけれど」と博司は言った。「今、都美子さんが研究している例のあれが、精神状態に影響を及ぼしているんじゃないでしょうか」
「あれ?……ああ、今私の世話してる……」
「世話なんて」博司は吐き棄てるように言った。「下っ端の研究員にやらせておけばいいんですよ。一から十まで自分でやろうとするからおかしなことになるんですよ」
都美子はふふ、と笑った。「自分のもの、という感じが拭えなくてねえ。ただの研究材料だということはわかっているんだけど」
「それに僕なら」博司は間髪を入れずに口を挾んだ。「とうに見切りをつけてます、あんなものには。寧ろ何故都美子さんともあろう方があんな失敗作に固執するのか理解できません。何か有益な情報が得られるならまだしも……」
「何故失敗したのか、という理由がまだ解明できてないわ」都美子は素早く反論した。「確かに失敗作かもしれないけれど……まだ処分するには早いわよ」
博司は溜息をついたが、「まあ、それを判断するのはつまるところ、都美子さんですものね」と呟くように言って苦笑した。「まさか、愛着を抱いている、というわけでもないんでしょう?」
「愛着?」
都美子は意外なことを言われたといった調子で繰り返した。「さあ、どうかしら。もしかしたらそんな感情も芽生えているかもしれないわね」
「研究員ともあろう方が、ですか」
「でもあなただって」都美子は椅子を回転させて博司を振り向き、笑った。「北野亜紀という、最早放っておけばいい存在に、ずっと固執し続けているじゃない?」
「あれは……」と、博司は激しく狼狽した様子を見せた。「だってあれは……放置してはおけませんよ……」
「私と同じじゃない」
得意そうに微笑する都美子に、「全然違いますから!」と博司は反駁した。しかし都美子はそれ以上構わずに煙草の箱を取り出すと、「じゃあ、お先に失礼するわ」と立ち上った。そして扉を引き開けて出ていきざまに、微笑を浮べて博司を振り向いた。
「お互いに気を付けなければね、私情で妙なことにはならないように」
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