第四十二話 銀剣の一閃
急速に込み上げてきていた嘔き気と眩暈は、半人態になると同時にかなり弱まった。亜紀は大きく息をつくと、虚空へと手を差し伸べて、銀色に光り輝く、あの長剣を召喚した。そして現れ出た剣の柄を摑むと、強く握り締めて構え、敵と真直ぐに向い合った。
嘗てその余りのおぞましさに逃げ出したその腐乱死体の山は、今再び、亜紀の目の前にあった。しかし本能的な嫌悪感を抑えられずにいながらも、彼女の心情は前とは大きく異なっていた。
初めはただ恐ろしいとしか思えなかった腐乱死体、或いは白骨死体であったが、少女の背にまるで玩具のように積み上げられた、無惨な、屈辱的な姿を見ているうちに、亜紀の心には怒りと悲しみとが兆し始めていた。
そこにあるのは、決して只の腐敗した物体ではなかった。嘗ては命を持ち、感情を、心を持ち、人と愛し合い憎み合いながら生きてきた、そしてこのモンプエラさえいなければ、今も生きていることができた筈の、何人もの人々だった。亜紀はニュースで行方不明になったと報じられていた、人々の顔写真を思い浮べた。そして幸一の、その母のことを思った。危うく目の前の敵の姿がぼやけそうになり、眼を瞬いて堪えた。
「あなたは何故」感情が籠った余り、却って乾いた声で亜紀は言った。「人間に対しそんなことをするの。そして死体に何故そんなことをするの」
「まえにもおなじようなことをきいたよね?」少女はにっこりと小首を傾げた。「けんきゅういんだってころしていいっていってたし……あ、でももちろん、りゆうとしてはふつうにおもしろいからだよ。けんでぶすってさしてあいてがしんでいくの、すごくきもちいいし」
「気持、いい……?」
「うん。あと、したいをこうやってせなかにつけるのは、からだがおおきくみえてりっぱだからだし、コレクションっていみもあるんだけど……りかいできないみたいだね、おねえちゃん」
アサシンバグは微笑んだ。そして黒い長剣を空中から召喚して構え、更に背中から、一つの死体を引き剝がして盾のように掲げた。
その姿を見て亜紀は思わず息を呑んだ。それは今目の前に立っている幼い少女と同じぐらいの歳に見える、黒いランドセルを背負ったままの、あの男子小学生の死体だったのである。既にその死体も腐敗し、肉は変色して垂れ落ち、脚や腕は骨が剝き出しになっていた。それを盾として突き出され、亜紀は凄まじい怒りが湧き上るのを感じた。そして剣を構え直すと、地を蹴って跳躍し、敵に斬り掛かった。
しかしアサシンバグは怯まずに、死体を盾として突き出した。亜紀は怯んで振り下ろしかけていた刃を途中で止め、その隙に相手は、もう片手の剣を即座に突き出した。亜紀は躱し損ね、その尖端は腕を突いた。瞬時に飛び退って傷口を押えたが、刺された箇所からは痺れるような痛みが走った。
そして今、亜紀には新たな懸念が芽生えていた。あの死体の盾を叩き落し、敵を剣で刺し貫いて無事に殺害することができたとしても、その死の爆発の際に、その背中の大量の死体も巻き込まれて粉々に吹き飛んでしまうのを、防ぐことはできない。そんなことを懸念している場合ではないのかもしれないが、爆発により粉々の灰塵と帰してしまえば、このモンプエラに誰が殺されたのかも、最早永遠にわからなくなってしまうのではないだろうか。そしてその背中に積み上げられた人々は、永遠に行方不明のまま、棺にも墓にも納めてもらうことのできないままに終る。亜紀はそのことに思い至って、激しく逡巡し、思い迷っていた。
「もうおわりなの? まだあそびたりないなあ、わたし」
腕の傷口を押えて蹲っている亜紀に、アサシンバグは一歩ずつ歩み寄ってきた。亜紀は長剣を構え直して立ち上ったが、どうすべきかの判断はまだつかなかった。じりじりと後ずさりしながら、相手が動くたびに垂れた首や手足の動く、無惨な死体をただ眺めていた……。
「しね!」
アサシンバグは叫びざまに飛び掛かってき、亜紀との距離を一挙に詰めた。剣と剣とがぶつかり合い、二人は唸りながら相手を弾き飛ばそうと柄に力を籠めた。そして或る瞬間、敵と同時に飛び退いたとき、亜紀に一つの案が浮んだ。
亜紀は剣を構え、走り寄ってくる敵を真直ぐに見据えた。そして敵と自分との距離が或る程度に達した瞬間、地を蹴って高く跳躍した。空中の自分を見上げる敵の姿に向って正確に狙いを定め、落下しながら、敵の背中と死体の山との間に、銀色に輝く刃を振り下ろした。
地面に着地した亜紀は腐肉の汁をまともに浴び、激しい悪臭に包まれたが、死体の山はアサシンバグの本体とは完全に切り離されて、折り重なり合いながら地面へと散乱した。振り返った敵は、激しい狼狽の色をその顔に浮べた。
「こんな……よくも……」
狼狽の色はすぐに憤怒へと変り、アサシンバグは唸り声を上げて飛びかかってきたが、死体の山という異様な装飾を剝がれたその身はひどく小さく、頭の触角を除けば、ただの女子小学生としか見えなかった。亜紀は冷静な心持で黒いタイツを履いた脚を振り上げ、相手を遠くへと蹴り飛ばすことができた。
地面に叩きつけられたアサシンバグのもとへと、亜紀は剣を構えて飛び掛かった。敵は起き上りかけていたところであったが、剣を手に握りながら、その防禦は最早間に合わなかった。
亜紀の斬撃には、凄まじい怒りの力が籠っていた。斜めに斬り付けたその刃は、アサシンバグの身体を深々と裂き、血が勢いよく噴出した。
更に亜紀は間隙を挾まず、横薙ぎに再度の斬撃を与えた。敵の身体は十文字に刻まれ、驚愕の表情が一瞬、その幼い顔にありありと浮んだ。しかし次の瞬間にその身体は、爆発を起して四散した。
……しばらくして亜紀は、散乱する無惨な死体の山のもとへと歩いて行った。その山の中には、先ほどまでアサシンバグが盾として構えていた、男子小学生の死体もあった。黒いランドセルが腐肉から染み出した汁に塗れながら地面に転がっているのを目にして、亜紀は再び、こらえていた涙が湧き出してくるのを禁じ得なかった。
――かわいそうにねえ、無事に見つかってくれればいいのだけれど……。
ニュースを見たときの母の声が、脳裡に蘇った。亜紀は変身を解き、地面に崩れ落ちて泣いた。敵を遂に倒したという達成感はなく、どうしようもない悲しさ、口惜しさばかりが、涙と共に後から後から心に溢れ出るのだった。
「ごめんね……。私、助けてあげられなかった。ごめんね、ごめんね……」
亜紀は河風の吹く広場に坐り込んで、いつまでも泣き続けた。
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