第三十七話 おぞましき盾
その瞬間、どこからか飛んできた一本の矢が、アサシンバグの手に突き刺さった。一瞬、彼女にも桃香にも、聞えた風を切る音が、何を意味しているのかわからなかった。しかし顔を上げた少女は矢を見るや否や、悲鳴を上げて剣を取り落し、射られた手の甲を押えた。そしてアサシンバグと桃香は、同時に矢の飛んできた方向を振り向いた。
そこには生徒会長、水野碧衣が立っていた。
ユーストアクアの姿に変身した彼女は、大きな弓――ユーストボウをアサシンバグに向けて構え、落着いた様子で第二の矢を、青く輝く宝石の埋め込まれた、その弓につがえたところであった。
「あ、碧衣先輩……」
桃香のその叫びには、複雑な思いが籠っていた。しかし碧衣はあくまでも冷静であり、弓を構えて狙いを定めながら、彼女に呼び掛けた。
「戦いなさい、佐々井桃香。ユーストガールでありたいのなら」
「……はい」
その言葉に、というよりも援軍の登場に勇気付けられ、桃香は剣の柄を摑み、持ち上げた。そしてようようにして、それを構えることができた。
一方でアサシンバグは初めて、幼い少女の姿にも似合わぬ唸り声を発し、乱暴な手つきで手の甲から矢を引き抜いた。紅い血が、忽ちにしてそこから流れ出した。少女は左手で傷口を押さえ、憎々しげに碧衣を一瞥した。しかしすぐに彼女は、狂気的な笑みを浮べた。
「へえ、ふたりめのおねえちゃんまでいたんだ」
アサシンバグは剣を、傷付いていないもう片方の手に持ち替えた。
桃香は覚悟を決め、剣を構えて突進すると、ユーストソードをモンプエラに振り下ろした。しかしアサシンバグは笑みを浮べて、瞬時に身体の向きを変えた。眼を大きく見開いた桃香の前で、振り下ろした長剣は、敵の背中の死体の一つ、腐乱した男のスーツの背中に深く食い込んだ。それは先日、亜紀に対して実行したのと全く同じ防禦方法であり、今回も有効だった。
柔らかな腐肉の感触が、柄を握ったままの手に伝わり、桃香は思わず悲鳴を上げた。アサシンバグは振り向いて、その短い脚からは想像もできないほどの力で、桃香を蹴り飛ばした。
桃香は剣を摑んだまま地面へ叩き付けられ、何とかすぐに立ち上ったが、そのときアサシンバグは、ふと思い出したように背中へと手を廻して、一体の死体をそこから引き剝がした。桃香は息を呑んだ。
それは恐らく二十代前半ほどの、若い女性の死体だった。既に原形を留めないほどに腐乱してはいるが、その体形や、ブラウスやスカートなどの服装から、すぐにそれとわかった。敵はその首を摑んで盾のように掲げ、もう片方の手で剣の柄を握っていた。桃香の動揺した表情を見て、その脣の端はいかにも嬉しそうに歪められた。
「うふふ、かかってきなよ、おねえちゃん」
桃香は怒りの叫び声を上げ、地を蹴って高く跳躍した。空中から素早く突き出した剣は、しかし、アサシンバグには届かなかった。敵が掲げた死体の盾に阻まれて、刃は女性の死体の胸部に突き刺さり、柔らかな感触と、体内の骨の折れる感触だけが、桃香の手に伝わった。
桃香は素早く剣を抜き取り、相手の剣が突き出される前に飛び退った。しかし、先ほどまで銀色に輝いていたその刃が、茶色い汁に塗れているのを見て、最早これ以上は耐えきれないという思いを禁じ得なかった。罪のない犠牲者の死体を傷付けたという思いが、更に桃香の心を怖気づかせた。
しかし、どうすればあの「死体の盾」を傷つけずに敵へ攻撃を加えることができるのか、桃香にはわからなかった。絶望的な腐臭が、辺り一面を領していた。
そのときアサシンバグの背後から、碧衣による二本目の矢が放たれた。しかしそれは、瞬時に振り向いた少女の持つ、死体の盾によって防がれた。
それを見ると碧衣は弓を腰帯に下げ、空中に手を伸ばしてユーストソードを召喚した。アサシンバグも死体の盾を構えて防禦の姿勢をとったが、碧衣は逡巡することなく飛び掛かった。
盾として突き出された女性の死体は、碧衣のユーストソードによって、何の躊躇もなく一刀両断された。桃香は驚愕してその光景を見つめた。腐乱した死体の下半身は地面に落ち、アサシンバグの手には上半身だけが残ったが、少女は最早意味を成さないそれを、すぐに投げ棄てた。
碧衣はその隙に強烈な蹴りを打ち込み、アサシンバグは背負った死体もろとも、数メートル離れた場所へと吹き飛んだ。すぐに彼女は立ち上ったが、それ以上戦闘を続けることは流石に無理であると悟ったらしく、二人に背を向け、逃げ出した。
弓を下ろした碧衣と、ようやく落ち着きを取り戻した桃香は、すぐにその後を追って駆け出した。しかし山のような死体を背負っているにも関わらず、敵の逃げ足は異様に速かった。その後ろ姿は見る見るうちに小さくなり、そして最後に大きく跳躍したかと思うと、敵は林間のどこかへと消えた。
桃香と碧衣は、息を切らして立ち止った。辺りは林がどこまでも広がっている場所で、どこかへと姿を隠したらしき敵の姿は、既にどこにも見えなかった。
やがて碧衣は抱えていた弓を持ち直すと、桃香に向き直った。その冷たい視線を受け、桃香は思わず悄然として、項垂れた。その意味するところは、碧衣が口を開く前から、充分に理解できた。
「あなた、やっぱり駄目だったわね、全然。私が来なかったら命を落していたかもしれないのよ。確かにあれを見て怖気を振うのはわかるし、私も吐き気を堪えていたけれど、そこで折れて正義の天使が勤まると思うの。自身に危機が迫っているのに、何もせずただ立っていてどうするのよ」
桃香は何も反論することができなかった。弁解のしようのない大失態であったことは、もうわかりきっていた。
やがて碧衣は溜息をつき、変身を解除すると、そのまま元来た道を歩き去っていった。桃香は尚もユーストピンクの服装を維持したまま、しばし無言で、その場に佇んでいた。
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