第三十八話 平成二十年の夏
亜紀はしばらくの間、先日の戦いで受けた衝撃から、立ち直ることができなかった。事あるごとに、あの少女の背に山積みにされた腐乱死体の光景が脳裡に浮び、死臭までがありありと蘇った。幾ら振り払おうとしても、その恐ろしき光景は消え去らず、食事も中々喉を通らなかった。
翌週の学校の帰り道、早穂にだけは本当のことを話した。話を聞いた彼女は、「うわ、本当に……?」と嫌悪感を露わにして、顔を顰めた。そして瞬時に悪寒を感じたのか、曳いていた自転車のハンドルから片手を話して、腕を撫でさすった。
「亜紀……大変だったね。そんな奴が今もこの街のどこかにいるんだ」
「うん」と亜紀は弱々しく頷いた。「早くどうにかしなくちゃいけないってことはわかってる。でも、それが私にできるかどうか……」
「私も、だよ」早穂は心持項垂れて答えた。「どのモンプエラであろうと、そうだけどね。でも人の死体をそんな風にするだなんて」
結論など出る筈もなく、二人はそのまま別れた。一人になった亜紀は自転車を曳きながら、再びあのアサシンバグがどこからか現れるのではないかと、不安な思いで辺りを見廻して歩いていたが、ふと朝に母からお使いを頼まれたことを思い出して、自転車を走らせ始めた。
スーパーには平生の通り大勢の客がおり、亜紀はほっと安堵の息をついた。そして頼まれた品である醬油を買ってスーパーを出た。日も既に長くなっており、まだ昼頃のように辺りは明るかった。
自宅へと向って、自転車を押しながら坂を上っている最中、前方を歩いていた女性の提げていたビニール袋が突然裂けて、中に入っていた買物の品が路上に落ちた。数個の林檎はそれだけに留まらず、跳ねながら亜紀のもとまで転がってきた。亜紀は慌てて自転車を横倒しにし、屈み込んで林檎を拾い上げた。全部で五つあった。両腕でようやく全てを集めた彼女のもとへ、小走りに女性が駆け寄ってきた。
「ごめんなさい、どうもありがとう……」
女性もまた両腕一杯に零れ落ちた買物の品々を抱えていたが、新たに入れる袋は持っていない様子で、その上に林檎を持ち運べるようには見えなかった。「家まで持っていきますよ」と亜紀が申し出ると、相手は恐縮して幾度も礼を繰り返しながらも、その申し出を受け入れた。そのときふと、亜紀はその女性の顔に、どこか見覚えがあるように思った。しかしすぐには思い出せなかった。
林檎を自転車の籠に入れ、後をついて歩きながらしばし亜紀は考えていたが、やがてはっと思い出して、思わず小声で叫んだ。
「もしかして、松浦さんの……」
どう呼ぶべきか、咄嗟にはわからなかった。しかし驚いた様子で振り返った女性のその顔は、やはり紛れもない、あの松浦幸一の母親だった。幾度か互いに家を行き来していた頃にもてなしてくれた、あの優しい母親だったのだ。何か痛切な思いが、胸を突き上げるのを亜紀は感じた。
「あなたは……?」
「北野亜紀です。覚えておられないとは思いますが……」
訝しげにそう問いかけた相手へ、亜紀はそう答えたのだが、相手は大きく眼を見開き、驚いた風に歩み寄ってきた。そこには久しく会わなかった知り人の姿を、確かめようとする人の姿があった。
「亜紀ちゃん、亜紀ちゃんだったの……。気付かなかったわ……」
嘗て遊びに行ったときと全く同じ呼び方で、そう感慨深げに繰り返しながら、幸一の母はつくづくと亜紀の顔を眺めた。小学生であったあの頃と比べて、セーラー服を身にまとった高校二年生となった自分は、最早わからぬほどに大きく変っているだろう、と亜紀は思わずにいられなかった。やがて並んで歩き始めながら、幸一の母は寂しげに言った。
「幸一とは、本当に仲良くしてくれたわよね、亜紀ちゃん」
「そうでしたね」と亜紀は答えた。「私、あの頃は殆ど友達がいませんでしたから、幸一くんが一番仲のいい友達だったんです」
「あの子も、女の子の友達らしい友達は、亜紀ちゃんだけだったみたいね。初めて遊びに来てくれたとき、嬉しかったわ……」
そんな言葉を二人は交したが、会話はそれほどに続かなかった。二人は黙り込み、夕方の住宅街の道を、並んで歩いて行った。亜紀は少なからず後悔していた。こんな空気になるぐらいなら、何も気付かなかったふりをして、ただ林檎だけを運んだほうが余程よかったと。
やがて門前まで辿り着くと、幸一の母は振り返って言った。
「折角の機会だし、よかったら線香を一本、あげていって貰えないかしら? こうして久々に亜紀ちゃんに会えたのも、きっと何かの巡り合せだと思うの。幸一も喜ぶわ……」
亜紀はやや躊躇ったが、勧め通りに家へ上がることにした。この家に上るのは、数えてみれば六年ぶりだった。居間や幸一の部屋の様子は漠然と覚えていたが、その他の殆どは既に忘却の彼方であり、初めて上る家と変らない感覚だった。居間の仏壇には、写真立てに入った在りし日の幸一の写真が置かれていた。仏前に正座した亜紀は、無言でしばしそれに見入った後、燐寸を擦って線香に火を付け、香炉に立てて合掌瞑目した。
「幸一くんのことは、本当に残念でした」やがて眼を開けた亜紀は、静かに口を開いた。「まさかあんなことが起るだなんて、全く予想がつきませんでしたし」
平成二十年の夏、千代田区で発生した路線バスの爆破テロ。先日、世界同時多発テロと絡めて担任の教師が持ち出したあの事件だ。幸一は新聞記者である父の松浦茂幸と共に折しもこのバスに乗っており、テロに巻き込まれて、父子共々死亡した。その事件を知ったときの衝撃、友人を喪った大きな悲しみ、それを今も亜紀は忘れることができない。ずっと一緒にいることのできる友人であると、信じて疑わなかったあの幸一であったのだから。
「六年が経つ今になって、私もようやく、この子と夫の死を受け容れることができたという風に思うわ」と幸一の母は言った。「長らく立ち直ることができなかったけれど、幸二はそんな私を、いつも元気付けようとしてくれた。だから残されたあの子のためにも、私もしっかりしなければって、そう思えるようになったのよ」
亜紀は再び写真立てへと眼を向けた。写真の中の幸一は、笑顔で学校の校庭に立ち、ランドセルを背負った姿で、カメラに向ってピースサインをしている。その背のランドセルが、瞬間、亜紀の脳裡で、アサシンバグが殺害して背に負っていたあの少年の、腐乱死体の山の上にあったランドセルと重なった。亜紀はスカートの膝を握り締めた。
「先日、世界同時多発テロから二十五年というニュースをテレビで見たわ」幸一の母は話し続けた。「それから、ヨーロッパで過激派宗教組織のテロが発生したというニュースも見た。テロというものは……いいえ、幸一のような何も関係のない人の命を奪う事件というものは、いつになってもなくならないものなのね」
「恐ろしい、世の中ですよね」
亜紀はそんな、月並な言葉を返すほかなかった。相手の言葉に、深い重みがあることを承知の上でのその返答だった。そんな事件がなくなる日がきっと来ますよ、などとその場限りの無責任な言葉は、口が裂けても言えないと彼女は思った。
しかしそのとき、一つの決意が亜紀の中に生れた。彼女は顔を上げ、幸一の母を振り向いた。障子を透かして、淡い日光が居間を明るませていた。
「少しでも罪のない人々が傷付けられることのない社会になるよう、私もできることはやります。もう、幸一くんのような人を、私は出したくありませんから」
「そうね」幸一の母は微笑した。「たとえささやかな抵抗に過ぎなくても、私たちにできることはそれぐらいしかないものね」
亜紀は頷き、立ち上った。
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