第三十六話 嘔吐
「本当の覚悟、か……」
その週の土曜日、ふと鞄の中のステッキを取り出して眺めていた桃香は、先日碧衣に言われた言葉を思い出して、何とはなしに息をついた。
こうしてステッキを見ていると、この一ヶ月で起った様々の信じ難い出来事が、全て真実であるのだということが改めて感じられ、不思議な気持に駆られる。
そのとき、遠く、誰かの悲鳴が聞えた気がした。それは数人の、子供たちの声であったように思われた。
桃香は寝台から跳ね起き、反射的に、机の上に置いたままだったユーストステッキを見た。その尖端に象嵌された桃色の石が、今まさしく鮮やかな光を発していた。それを手に取った瞬間、碧衣の言葉が、再び脳裡に蘇った。
――一度、あなたの本当の覚悟を見せてご覧なさい。実戦でね。
桃香は大きく深呼吸をし、駆け出した。碧衣にユーストガールとしての覚悟を見せるとすれば、その絶好の機会が今であるとしか思われなかった。碧衣が何を考えているのかは、今のところではよくわからない。しかし桃香の思い、正義のため、人のためになりたいという桃香の心が通じれば、それこそが桃香を、ユーストガールの仲間として認めてくれるときではないかと思ったのだ。それに何より、襲われている人を見捨てるという選択肢は、最早桃香にはなかった。
場所は嘗てマンティスと交戦した、あの中央公園だった。桃香は自転車を駆ってその門前へと辿り着き、それからステッキを握り締めて、園内へと足を踏み入れていった。
休日ではあったが、まだ朝早くであるためか、園内に人影はなかった。そしてモンプエラらしき姿も、襲われている人の姿も、見えなかった。
「どこ……?」
もしかしたらもう、あの悲鳴をあげた子供たちは全員殺されてしまったのかもしれない。自分の到着は余りに遅すぎたのだろうか……。そんな思いが後悔と共に込み上げたとき、再び悲鳴が、公園の奥から響いてきた。桃香ははっと顔を上げて、ユーストステッキを掲げた。
「博愛の天使、ユーストピンク! 力よ来れ!」
桃香は変身して、一目散に公園の奥にある、林の方面へと駆けて行った。そして林間に、追い詰められた子供たちと、そこへゆっくりと歩み寄ってゆく、モンプエラらしき姿を認めた。木蔭で姿はよく見えなかったが、脚の短い割に、胴体は大きく膨れ上がり、頭はどこにあるのかすら判別できない異様な容姿をしている。桃香は一瞬息を呑んだが、咄嗟に足元の石を拾い上げると、力一杯、その後ろ姿に向って投げつけた。相手は動きを止めた。
「あなた達! 逃げなさい!」
桃香が叫ぶと、子供たちは慌てふためきながら、一目散に駆け去っていった。モンプエラはそちらへと顔を向けたが、子供たちよりも新たに現れた敵の方に興味を抱いた様子で、追おうとはせずに振り向いた。その時、枝葉を透かして射す日光が、そのモンプエラの全体を照らし出し、そこで桃香は、初めてその姿をまともに見た。そして息を呑んだ。
頭から昆虫の触角を生やした、余りに幼い、小柄な少女がそこにいた。そして桃香が、初め異様に膨張した胴体と見間違えたものは、少女が背負っている、人間の腐乱死体の堆積であったのである。それが死体の山であることを認識した瞬間、桃香はそれまで気がつかなかった、周囲に漂う猛烈な悪臭を嗅いだ。胸の悪くなる、強烈な異臭だった。
余りの眼前の光景のおぞましさとその悪臭、それに誘発されたかの如く湧き上がって来た恐怖に、桃香は危うく気を失いそうになった。込み上げてくるものを抑えきれず、桃香は手近な木の幹に手をついて嘔吐した。木の根に飛び散る吐瀉物を見つめながら、これではいけない、私は戦わなくてはならないのに、と桃香は思った。再び顔を上げたとき、あどけない表情をしたその少女は、桃香の目の前に迫っていた。
少女――アサシンバグモンプエラは、手に持っていた黒い剣を、桃香に向って無言で突き出した。
桃香は瞬間的に飛び退いた。吐瀉物が飛び散り、服にも付着した。しかしそんなことには構っていられなかった。手を前方へと突き出すと、そこにユーストソードが光り輝きながら現れ出た。桃香はその柄を摑み、よろよろと立ち上った。しかし、それが精一杯だった。
込み上げてくる吐き気に抗おうとしながらも、桃香はその場を一歩も動けずにいた。精神的な衝撃を受けたことも、多分にそれに起因しているらしかった。少女の背に堆く積まれた人間の死体、それは余りに悲惨な光景だった。これまで汚いものには無縁に暮してきた桃香にとって、それを目にすることは並大抵のことではなかったのである。一歩ずつ歩み寄って来る化け物を目の前にしながら、桃香は最早何もできずにいた。
「おねえちゃん、あのこたちのかわりにあそんでくれるの?」少女は酷薄な笑顔を見せた。「そのかっこう、なあに? おねえちゃんもへんしんできるの? わたしたちとはちがうみたいだけど、にてるね……」
「あなた達は……」桃香は剣を支えにして立ち、喘ぎ喘ぎ言った。「どうしてこんなことをするの……そんなに沢山の人を殺して、一体何になるというの……」
「わたしたちはいいことをしてるんだよ」少女は微笑んだ。「わたしたちがこうやってあそぶの、たのしいからでもあるけど、いいことでもあるんだ。でも、おねえちゃんには、やっぱりわかんないよね」
「わかるわけないでしょう!」精一杯の声で桃香は叫んだ。「何がいいことだっていうの……人を殺して何が楽しいっていうの……。こんなこと、こんなこと……」
「どうでもいいけど、わたしこのあいだも、わけわかんないモンプエラにじゃまされたばかりなんだ」少女は剣を振り上げた。桃香は瞬間的に身の危険を察知したが、体が言うことを聞かなかった。「こんどこそはたのしみたかったのに……だからかわりにあそんでくれるよね? おねえちゃん」
戦わなくてはならないことは桃香にもわかっていた。しかし脚も腕も激しく震え、真直ぐに立つことさえ今は覚束なかった。アサシンバグが近付いてくるにつれ強まる腐臭に桃香は耐えられず、再び嘔吐した。吐瀉物は柄を握る手の上にも落ち、桃色のドレスをも汚した。
「もうおわりなの? ものたりなかったけど……ばいばい」
アサシンバグはあどけない微笑を浮べ、大きく剣を振り上げた。
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