第三十五話 腐肉の汁に塗れて

 亜紀は全速力で自転車を漕いだ。吹き付ける前方からの風に眉を寄せる彼女の脳裡をふと、自分は何故これほどに急ぎ、躊躇いもなく、モンプエラがいるであろう場所に駆けつけようとしているのだろうという思いが掠めた。それは早穂が言っていた、人が襲われていれば助けずにはいられないという、あの心理であるのかもしれない。しかしそれを行動に移すことを内心で否定した亜紀は、それを以て自分の行動を解釈することを拒みたかった。

 しかし、駆けつけずにはいられなかった。

 目的地である道路の、高架道路と交叉する辺りまで来たとき、ふと異臭が鼻を突いた。その強烈な臭いが脳裡に警鐘を鳴らし、亜紀はすぐさま自転車から飛び降りた。辺りに人気はないようであったが、そのとき高架下から、甲高い少女の悲鳴が聞えた。続いて、焦燥に満ちた老人の声もした。

「助けて! 誰か! 助けて!」

「お嬢さん! 立ち上りなさい! 立つんだ!」

 振り向けば、腰を抜かしたらしき一人の女子中学生に、彼女を必死に抱え起そうとしている、螢光色のベストを着た老人の姿が見えた。そして二人に向って、異様な風采の少女が、彼らの怯える様子を楽しむように、徐ろに歩み寄っていくところだった。

 少女が何か大きな物を背負っているのは亜紀にも見えたが、やや距離があったため、まだそれが何なのかは彼女にはわからなかった。そんなことよりも、眼前の二人の安全を確保することが最優先事項だった。亜紀は瞬間的に半人態に変身し、一散に駆け寄っていった。

「逃げて下さい! 二人とも、逃げて!」

 そう叫んで少女と二人の間に割り込んだ亜紀は、必死の形相で相手の姿を見据え、そこで初めて、この幼い外見をした少女が背負っている、見るもおぞましい物体の正体を悟った。瞬間、辺りの異様な腐臭が強烈に意識され始め、俄かには信じ難い目の前の惨状に、亜紀は忽ち血の気が引いていくのを覚えた。

「そんな……」

「おねえちゃんはだあれ?」少女はにっこりとして小首を傾げた。「わたしとおなじモンプエラみたいだけど……。あたまにねこみみがついてる! ということは、ねこのモンプエラかな?」

「どうして……どうしてこんなことを……」

 亜紀は二三歩よろめくように後ずさり、首を振った。信じたくなかった。受け入れられなかった。既にモンプエラの殺人現場は目撃してはいたが、今回の惨状は、彼女の予想を遙かに超越していた。

「わたしはね、アサシンバグモンプエラっていうんだ」少女は背後の死体を指で差してみせた。「びっくりした? すごいでしょ、わたしこんなにたくさんのえものをとらえたんだよ」

「人間を殺して、一体何になるの!」

 涙を流しながら、亜紀は叫んでいた。「こんな酷いことを……どうして平気でできるのよ……」

「ひどいこと?」とアサシンバグは再び首を傾げた。「ひどくないよ。だってけんきゅうじょのひとだって、おもいきりころしまわっていい、っていってたもん」

「研究所の人……」

 亜紀は激しく動揺しながらも、その言葉にはっと顔を上げた。以前に聞いた、モンプエラは合成生物であるという話と、その単語とが、頭の中で符合したのである。しかし相手は、それ以上話すつもりはない様子だった。一度は下ろされていた剣を、再び少女は構えた。

「おしゃべりはもうこれぐらいにしたいな。おねえちゃんはわたしのてきみたいだし」アサシンバグの眼が、薄闇の中で光った。「せっかくのえものをにがされて、しょうじきいらいらしてたんだよね」

「あなたのことは、絶対に許さない」

 亜紀もまた、初めて明瞭な怒りを以て、モンプエラに対峙していた。というよりも余りの怒りと衝撃に、亜紀は我を忘れかけていた。空中に腕を差し出し、そこに輝きつつ現れた銀色の長剣を引き抜いて、彼女はアサシンバグと向い合った。

「はやくおわらせようね」

 微笑する少女に向って、亜紀は剣を構え突進した。敵の背の死体の山はいかにも重そうに見え、敏捷に動けるとは思えなかったのだが、アサシンバグは意外なほど素早く飛び出し、これを剣で受け止めた。そして剣を押し返してきたその力も、到底幼い少女とは思えぬほどのものだった。

 亜紀は背後へ飛び退くと、剣を構え直して再び突進し、敵に到達する直前のところで、横へ薙ぎ払うように斬撃を行った。しかしその動きも、瞬時に看破されていた。アサシンバグは瞬間的に、身体の向きを変え、背中を敵である亜紀に晒すようにしたのである。

 しかしその背には、この少女の場合、分厚い腐乱死体の山があった。そして亜紀の斬撃は、あろうことかそれらの死体に直撃する形となった。腐肉の汁が飛び散り、切断された若い女の、既に肉が半ば溶け落ちて骨が覗いている腕が、宙を飛んで地面へと落ちた。

 亜紀は怯んで動きを止め、素早く再度身体を反転させたアサシンバグが、黒いサーベルのような剣を、俊敏に亜紀へ突き出した。それは彼女の胸を危ういところで掠め、亜紀は瞬時に飛び退いて、姿勢を構え直した。

 少女が人間の死体を盾として利用したことに、亜紀は強い衝撃を再び受けていたが、今は相手を倒すことを第一に考えたかった。別の方向からの斬撃を試みるとすれば、それは上空からだ、と彼女は思った。

 亜紀は駆け出すと、地を蹴って高く跳躍した。さながら猫の如く、しなやかに中空を舞いながら、触角が蠢いている敵の頭を目掛け、銀色に輝く剣を振り下ろそうとした。それを見上げた少女はあどけない笑みを浮べて、今度は咄嗟に、身体を前方へとずらした。

 それは余りに一瞬の出来事であったので、対処する余裕は亜紀にはなかった。彼女の眼前に迫るものはアサシンバグの頭ではなく、積み重ねられた死体の山だった。そして長剣は、その一番上にあった不良少年の胴体を一刀両断して、その腐肉の中へと、深々と刃と柄を握った亜紀の手首とを喰い込ませたのである。

 手に伝わった冷たい粘着質の感触、鼻腔を覆う凄まじい臭気、一挙に押し寄せたそれらに耐えかねて、亜紀は絶叫した。絶叫しながら、思わず長剣の柄から手を放し、もんどりうって地面へと転げ落ちた。地面にも既に腐乱死体から滴り落ちた汁が小さな水溜りを作っており、その只中へと亜紀は落下した。

 ゴシック・ロリータの黒いドレスもフリルも、既に悪臭を放つ腐肉の断片やその汁に塗れ、無惨な姿となっていた。勿論、服の汚れなどを意識する余裕などは亜紀にはなかったが、それ以前に既に彼女は半狂乱になっていた。地面を這いずるようにしてアサシンバグから遠ざかり、コンクリートの壁に縋りつくようにして、ようやく立ち上った。それでも、脚が震えて止らなかった。

「おあそびも、おわりだね」アサシンバグは剣を構えると、徐ろに歩み寄ってきた。壁にしがみついて立っているのがやっとである亜紀は反撃することもできず、逃げ出すこともできず、ただ近付いてくる相手の姿を、涙を流しながら凝視していることしかできなかった。

 しかしそのとき、アサシンバグは突然動きを止めた。足元を見下ろして脚を上げ、何かを引き剝がそうとし始めた様子であったが、どうやらそれ以上、一歩も進むことができなくなったらしかった。何かが彼女の足に付着した様子であったことは察せられたが、何が起ったのかは皆目亜紀にはわからなかった。しかしとにかく、今の亜紀ができることは只一つしかなかった。壁に手をつきながら、必死で彼女は駆け出した。

 今は到底、戦うことのできる状態ではなかった。ただ逃げ出すことしかできぬ自分をこの上なく口惜しく、悲しく思いながら、高架下から出るところで一度、彼女は背後を振り返った。アサシンバグが辺りを見廻し、まるで警戒するように剣を構えている姿が、最後にちらと眼に入った。

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